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三国志  作者: 大田牛二
第五章 三国鼎立
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単刀の会

 劉備りゅうびが西に向かって劉璋りゅうしょうを攻めた際、孫権そんけんは、


「猾虜(狡猾な賊)め。このように詐術を抱いていたのか」


 と、以前、自分が益州を攻めようとしていた時に邪魔されたことを思い出しながらそう罵った。


 劉備は蜀遠征の際、関羽かんうを荊州に留めて江陵を守らせていた。


 魯粛ろしゅくは関羽と境界を隣接させることになったため彼と関係を結び、関羽がしばしば猜疑しても魯粛は常に歓好(友好な態度)によって安心させた。


 そして、劉備が益州を得ると、孫権は中司馬・諸葛瑾しょかつきんを派遣し、荊州諸郡の返還を要求した。


 劉備は孫権の要求に同意せず、こう言った。


「私はちょうど涼州を図っています。涼州が定まったら、荊州をことごとく呉に与えましょう」


 諸葛瑾はこれに対してどのような言葉を発したのかは記録が無い。こういう時の記録ぐらいは残してもらいたいものである。


 ともかく諸葛瑾から報告を聞いた孫権は、


「これは借りておきながら返さず、虚辞によって時間を伸ばそうと欲しているのだ」


 と言い、長沙、零陵、桂陽の南三郡に長吏を置こうとした。


 しかし関羽がこれを全て駆逐した。


 激怒した孫権は呂蒙りょもうを派遣し、鮮于丹せんうたん徐忠じょちゅう孫規そんきらと兵二万を監督して三郡を取らせた。


 また、関羽を防ぐため、魯粛に一万人を率いて巴丘に駐屯させた(巴丘は後の巴陵を指す)。


 孫権も陸口に進駐し、自ら諸軍を指揮した。


 呂蒙が出征して長沙と桂陽に書を送ると、どちらも動静を聞いて帰服した。しかし零陵太守・郝普かくふだけは城を守って降ろうとしなかった。


 荊州の動きを聞いた劉備は自ら蜀を発ち、五万の兵を率いて公安に至った。更に関羽を派遣して三郡を争うために益陽に進ませた。


 孫権は飛書(緊急の文書)を送って呂蒙らを招いた。零陵を捨てて急いで帰還し、魯粛を助けさせようとしたのである。


 しかし書を得た呂蒙はこれを隠した。


(これで引いては劉備らの思う壺だ)


 彼は夜、諸将を集めて方略を授けた。


 早朝、呂蒙が零陵を攻撃しようとした時、顧みて郝普の旧友である南陽の人・鄧玄之とうげんしにこう言った。


「郝子太(子太は郝普の字)は世間の忠義の事を聞いていたため、自分もまたそのように為そうと欲しているが、時勢を知らない。今、左将軍(劉備)は漢中にいて夏侯淵かこうえんに包囲されており、関羽は南郡にいて至尊(孫権)が自らこれに臨んでいる。彼らは上も下も危機に陥り、互いに命を救おうとしても間に合わない状況にある。どうしてここを救う余力があるだろうか。今、私は力を量ってよく考えてからこれを攻めるため、日を移すことなく城は必ず破れ、城が破れれば、その身は死んでしまう。事において何の益があるのだろうか。しかも百歳の白髪の老母に誅を受けさせて、どうして心を痛めないでいられよう。この家(郝普)を推測するに、外問(外の情報)を得られず、援軍に頼ることができると思っているから今まで抵抗しているのだ。君は彼に会い、彼のために禍福を述べるべきだ」


 鄧玄之は郝普に会いに行き、呂蒙の意を詳しく伝えた。懼れた郝普は城を出て投降した。


 呂蒙は郝普を迎え入れ、手を取って共に船を下った。


 談話が終わってから呂蒙が書(孫権が零陵を捨てるように命じた書)を出して示し、手を叩いて大笑した。


 郝普は劉備が公安におり、関羽も益陽にいると知り、地に入りたいほど慚愧悔恨した。


 ここで彼を笑いものにする必要があったのか。


 ともかくこうして呂蒙が三郡の将守(諸将・太守)を全て得た。


 呂蒙は孫河を留めて後事を委ね、即日、軍を率いて引き還し、孫皎そんこう潘璋はんしょうおよび魯粛と共に兵を進め、益陽で関羽を拒んだ


 双方が戦う前に、魯粛は関羽との会談を欲した。


 諸将は変事が起きることを恐れ疑い、行くべきではないと建議した。しかし魯粛はこう言った。


「今日の事は開譬(教え諭して道を開くこと)するべきだ。劉備は国(孫権)に背いたが、結論は出ていない。今の時点で関羽がこれ以上、命に背くことはないだろう」


 魯粛が関羽を招いて会見した。それぞれ百歩の外に兵馬を留め、将軍には単刀(一本の刀)だけを持って会に参加するように請うた。


 魯粛はこれを機に三郡を返還しないことについて関羽を譴責した。関羽が答えた。


「烏林の役(赤壁の戦い)において左将軍(劉備)は身が軍中にあり、尽力して敵を破ったのだ。どうしていたずらに労すだけで一塊の土地もないままでいられるだろうか。それなのに足下は地を収めよう(回収、没収しよう)と欲して来たのか」


 魯粛は反論した。


「それは違います。始め、豫州(劉備)と長阪で会見した時、豫州の衆は一校(一部隊)にも当たらず、計が尽きて考えが極まっており、士気形勢が挫折衰弱し、遠くに逃げようと図り(劉備は呉巨に投じようとしていた)、今日のようになるとは望んでいませんでした。主上(孫権)は豫州の身に置き場がないことを同情したため、土地や士民の力を惜しまず、身を守る場所を有すようにさせて患いを解決させました。ところが豫州は自分勝手に情を飾り、徳を失って友好を破壊しました。今、既に益州において主上の助けがあったおかげで益州を取ることができ、また、荊州の地も割いて兼併しようとしていますが、これは平民でも行うのが忍びないことです。人や物を統領する主ならなおさらです」


 関羽は返す言葉がなかった魯粛の言葉に正義があると感じたのと劉備に助言をしている諸葛亮しょかつりょうのやり方に不満を持っているというのもあっただろう。


 ちょうどこの時、魏公・曹操そうそうが漢中を攻めようとしているという情報がもたらされた。


 劉備は益州を失うことを懼れ、使者を送って孫権に和を求めた。


 孫権は諸葛瑾に命じて回答させ、改めて盟好を重ねた。


 こうして荊州が分けられ、湘水が境界になった。長沙、江夏、桂陽以東は孫権に属し、南郡、零陵、武陵以西は劉備に属した。


 諸葛瑾は使者の命を奉じて蜀に行っても、いつも弟の諸葛亮とは公務の会において会うだけで、退出してから個人的に会うことはなかったという。


 劉備は軍を率いて江州に還った。


次回は曹操サイド

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