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三国志  作者: 大田牛二
第五章 三国鼎立
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夏侯淵

 217年


 正月、始めて籍田を耕した。


「籍田を耕す」というのは、天子や諸侯が農業を奨励するための儀式のことである。


 今回の儀式は漢王朝の献帝けんていによるものではなく、前年、魏公になった曹操そうそうが魏国で行ったのだろう。


 誰が天下の主導権を握っているのかがわかる。


 一方、西方の戦いは続いていた。張魯ちょうろの元に逃走していた馬超ばちょうは張魯に兵を求め、北に向かって涼州を取ろうとした。


 張魯は同意し、北方にある祁山を包囲させた。


 姜敍きょしゅくらはそれを受けて長安にいる夏侯淵かこうえんに急を告げた。


 諸将が議して魏公・曹操の指示を待とうと欲したが、夏侯淵はこう言った。


「公は鄴におり、往復四千里もあるのだ。報(曹操の回答・指示)がここに届く頃には、姜敍らは必ず敗れている。これでは急を救うことにならないだろう」


 夏侯淵は出撃し、張郃ちょうこうに歩騎五千を監督させて前軍にし、素早く行軍を行った。夏侯淵は以前は後方支援を担当してきた人物で、その経験から兵糧運搬の知識に深く、その知識を元に「三日で五百里、六日で千里」という驚異的な行軍を行った。


 この素早い行軍によって馬超軍を奇襲を仕掛けた。これにより馬超は敗走した。


 当時、韓遂かんすいは顕親にいた。


 夏侯淵が顕親を襲って取ろうとすると、韓遂は逃走した。夏侯淵は韓遂を追撃して略陽城に至った。韓遂の営から三十余里離れている地点である。そこで会議を行った。


 諸将は韓遂を攻撃しようと欲し、またある者は興国氐を攻めるべきだと主張した。


 夏侯淵はこう考えた。


「韓遂の兵は精鋭であり、興国の城は堅固であるため、攻めてもすぐには攻略できない。長離の諸羌を撃った方がいい。長離諸羌は多くが韓遂の軍におり、故郷が攻撃されれば、必ず帰ってその家を救わなければならないだろう。もし韓遂が羌を捨てて自分だけを守れば、羌人を失うだけで、孤立することになり、もし韓遂が長離を救ったら官兵(朝廷の兵。夏侯淵軍)が彼と野戦できるため、必ずや虜にできる」


 長離とは川の名で、焼当等の羌族が住んでいた場所である。


 夏侯淵は督将を留めて輜重を守らせ、自ら軽兵を率いて長離に至り、羌屯を攻めて焼いた。これを受けて韓遂は長離を救いに行った。


 諸将は韓遂の兵が多いのを見て、営壁を築いて濠を造ってから戦おうと欲した。


 しかし夏侯淵は、


「我々は千里を転戦してきた。今また営壁や壕を造ったら、士衆が疲弊して用いられなくなる。賊はたしかに多勢だが対処しやすい」


 夏侯淵は戦鼓を敲いて進軍し、韓遂軍を大破した。


 更に兵を進めて興国を包囲した。


 氐王・千万せんばんは馬超に奔り、残りの衆は全て降った。


 その後、夏侯淵は兵を転じて高平の屠各(匈奴の一部族)を撃ち、皆、破った。


 まさに向かうどころ敵なしとはこのことであった。







 安定太守・毌丘興かんきゅうこうが着任する時、曹操はこう戒めた。


「羌・胡が中原と通じようと欲したら、彼らが自ら人を派遣して来るべきだ。間違ってもこちらから人を派遣してはならない。善人は得難く、悪人は必ずや羌・胡を示唆して妄りに請求させ、それに乗じて自分の利にしようと欲する。もし羌・胡の請求に従わなかったら辺境の意を失い、従っても益となる事がない」


 毌丘興は到着すると校尉・范陵はんりょうを羌中に送った。果たして范陵は羌人に示唆して、自分を属国都尉にするように請わせた。


 これに曹操はこう言った。


「私はこうなると預知したが、聖人だからではない。経験が多いだけのことだ」


 以前、曹操は廬江太守・朱光しゅこうを派遣して皖に駐屯させ、大いに稲田を開かせた。


 呂蒙りょもう孫権そんけんに進言した。


「皖田は肥美ですので、もしも一度收孰してしまえば、敵の衆が必ずや増えます。早くこれを除くべきです」


「收孰(収熟)」とは実った穀物を収穫することで、食糧があれば兵を増やすことができるため、曹操軍が増加してしまうということである。


 閏五月、雨が降り、川量が増えた中を超えて、孫権は自ら皖城を攻めた。


 諸将は土山を築いて攻具(攻城の道具)を増やそうと欲したが、呂蒙がこう言った。


「攻具と土山を造るとしたら、必ず日数を費やさなければ完成できません。その間に城の備えが既に修まり、外からの援軍が必ず至るので、城を取れなくなります。そもそも我々は雨水に乗じて入りました。もし留まって日が経ったら、水が少なくなっていくため、還る道が艱難になります。私は心中でこれを危ぶみます。今、この城を観るに、守りを十分に固くすることはできませんので、三軍の鋭気をもって四面から並攻すれば、時を移すことなく攻略できます。その後、水があるうちに帰るのが全勝の道です」


 孫権はこの意見に従った。


 呂蒙が甘寧かんねいを升城督(攻城の指揮官)に推挙した。


「お、推挙ありがとさん。活躍してやるぜ」


 甘寧は呂蒙にそう言って、笑いかける。そんな彼を呂蒙はやれやれと首を降る。


 甘寧は呂蒙とは親交が深かった。


 以前、甘寧は夏口の守備を任されていた孫皎そんこうの指揮下におかれたが、身分差を理由に年下の孫皎に軽く扱われたため激怒し、陸口の呂蒙の指揮下に変更してもらいたいと孫権に嘆願したことがあるぐらいである。


 孫権が孫皎に訓戒を与えたため、孫皎とは以後、親しく付き合ったが甘寧は困った時はいつも呂蒙を頼った、


 一方、呂蒙からすれば甘寧は実に手のかかる男である。


 ある時、呂蒙の家で酒宴が催されたとき、凌統りょうとうが剣を持って舞を始めると、甘寧も双戟を持って舞を始めた。これは危険と見た呂蒙は剣と楯を持って二人の間に割り込んで止めさせた。その後、孫権にこのことを伝えた。孫権は凌統の憎しみの深さを知り、甘寧を半州に移してそこに駐屯させることにした。


 またある時は甘寧の料理人が小さな失敗をして、呂蒙の下へ逃げ込んだことがあった。呂蒙は甘寧の激しい性格を知っていたため、決して料理人を殺さないと誓わせ、口添えした上で料理人を帰した。ところが、甘寧はこの料理人を樹に縛りつけた上で射殺してしまった。


 これには呂蒙も激怒して甘寧を処罰しようとしたところ、呂蒙の母は、


「天下の大局は難しいところに来ています。内輪もめをしている場合ではありますまい」


 と諌めたため、呂蒙は気持ちを改めて和解を持ちかけた。甘寧は涙ながらにこれを受け、事なきを得た。


(問題ばかり起こす男だが、戦での頼もしさにおいてはこの男以上の者はいない)


 だからこそ呂蒙は戦においては彼の活用を迷わずに行うことができるのである。


 甘寧は手に白い絹を持ち、体を城壁につけ、士卒に率先して登っていった。


 呂蒙は精鋭を送って甘寧の後に続かせ、自らも手に枹鼓(戦鼓とばち)を持った。これにより、士卒が皆、奮闘した。侵晨(空が明るくなる頃)に進攻して食時(辰時。朝食の時間。午前七時から九時)には城を破り、朱光および男女数万口を獲た。


 やがて張遼ちょうりょうが夾石に至ったが、皖城が既に陥落したと聞いて退いた。


 孫権は呂蒙を廬江太守に任命し、引き還して尋陽に駐屯した。










次回は劉備サイド。

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