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三国志  作者: 大田牛二
第五章 三国鼎立
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魏国

 十一月、魏が初めて尚書、侍中、六卿を置いた。


 荀攸じゅんゆうを尚書令に、涼茂りょうぼを僕射に、毛玠もうかい崔琰さいえん常林じょうえん徐奕じょえき何夔かしょうを尚書に、王粲おうさん杜襲としゅう衛覬えいがい和洽わこうを侍中に、鍾繇しょうようを大理に、王脩おうしゅうを大司農に、袁渙えんかんを郎中令・行御史大夫事に、陳羣ちんぐんを御史中丞にした。


 同時に魏は五曹尚書を置いら。吏部・左民・客曹・五兵・度支の五曹である。侍中はこの後、四人が定員になり、「大理」は漢代の廷尉に、「郎中令」は漢代の光禄勳に当たる。


 当時、御史大夫は三公だったため、御史中丞が御史台の長になった。


 この時、袁渙は受け取った賞賜を全て散じたため、家に蓄えがなかった。貧しくなったら人に物を求め、皦察の行(自分を律する厳しい行動)がなかったが、当時の人々は皆、その清(清廉、清白)に感服した。


 この頃、劉備りゅうびが死んだと噂する者がおり、群臣は皆、祝賀する中、袁渙だけはそれを拒否したという。袁渙はかつて劉備に挙げられて茂才になったことがあることからそれに対する誠意を示したのだろう。


 曹操そうそうが魏公として国をもったため、魏という国における政治体制が整備された。その中での人事でここまで取り上げられてこなかった人物たちがいるのでここで紹介する。


 涼茂は字を伯方という。曹操に招聘されて司空掾となり、優秀な実績をあげて侍御史に任命された。その後、泰山太守に任命された。当時、泰山郡は盗賊が多かったが、涼茂が太守になると、多くの民がその統治を慕ったという内政官としてとても優秀な人である。


 常林は字を伯槐といい、寒門の出身である。彼が七歳のとき、家に来客が来て、その来客が父の字を呼び、父親がいないかを聞いた時、彼は拝礼をしなかった。来客がそれを咎めると父の字を軽々しく言う者に拝礼など必要無いと返したことで、評判になった。


 それでもしばらくは貧しい暮らしをしていたが、他人の施しを受けずに太学に行き、経典を修めつつ農耕に従事した。妻は常林に自ら弁当を運び、常林も妻に対し賓客のように接したという。


 乱世になると河内太守の王匡は董卓打倒の義兵を挙げる一方で、県に書生を派遣し、官民達の罪を調べさせた。そして罪があると財産を没収し、すぐに従わない相手は一族皆殺しの刑に処して、威厳を保とうとした。


 ある時、常林の叔父が食客を鞭打ちしたことを書生に見咎められ、王匡に逮捕された。常林は叔父を救うため、王匡と同県出身である胡母彪に面会を求め、理を尽くして取り成しを願った。胡母彪は常林の叔父のために王匡に手紙を送り諫めたため、王匡も常林の叔父を釈放したという。


 その後、常林は上党の地に移り、農耕に従事した。干害と蝗害にあったが、常林の田畑だけは豊作だったため、常林は周囲に施しをした。また地元の陳氏と馮氏が張楊の圧迫を受けていると常林は彼らのために計略を立て、張楊の侵略を阻止した。


 後に、并州刺史であった高幹の上奏により騎都尉に推挙されたが、常林はこれを固辞した。しかしさらに後、曹操が任命した并州刺史の梁習りょうしょうに推挙されたときは、一変してこれに応じ、県長となって南和を統治し、視るべき治績を挙げた。そして博陵太守・幽州刺史にも昇進し、ここでも業績を挙げたという人物である。


 徐奕は字を季才といい、徐州の人であるが、乱世になって江東に渡った。その時、孫策の招きを受けたが徐奕は姓名を変えて逃亡した。曹操が司空となると、これに仕え、属官となった。


 馬超ばちょう征伐に同行し、戦後、現地に留められ関中の鎮撫を任され、名声を博した。当時、寵愛されていた丁儀ていぎ達に讒言されることがあったが、動揺することはなく、曹操からの信任も変わらず、魏郡太守に任用されたり、孫権征伐の留守を任されたりした人である。


 このように人事を行った後、曹操は肉刑(鼻を削ぐ「劓刑」、脚を切断する「剕刑」、去勢する「宮刑」等)を恢復したいと思い、令を発した。


「昔、陳鴻臚(陳羣の父・陳紀のこと)は、死刑にも、仁恩を加えて肉刑に換えられるものがあると考えた。陳御史中丞は父の論を説明することができるか?」


 陳羣はこう答えた。


「臣の父・紀は、『漢が肉刑を除いて笞(刑)を増加させたのは、本来、仁愛憐憫から興きたにも関わらず、死者が更に多くなってしまった。これは「名は軽いのに実は重い」というものだ』と考えました。名が軽ければ、人々が罪を容易に犯し、実が重かったら民を傷つけてしまいます。そもそも、殺人は死によって償うというのは古制に合っていますが、傷害に至っては、ある者は相手の体をひどく傷つけたのに毛髪を切られるだけであったため、道理がありません。もしも古刑を用いたら、淫者は蠶室(宮刑を行う部屋)に下り、盗者はその足を切断されますので、永く淫放穿踰の姦(淫蕩な犯罪や穴を掘ったり壁を越えて盗みをはたらく姦悪な罪)がなくなります。三千の属は、全てを恢復させることができませんが、これらのような上述した数点は、現在において患いとなっていることですので、先に施すべきです」


 三千条の法律とは西周の法のことで、『呂刑』または『甫刑』という。墨罰に属す法は千条、劓罰に属す法は千条、剕罰に属す法は五百条、宮罰に属す法は三百条、大辟の罰に属す法は二百条あり、五刑を合わせて三千条になる。


「漢律が死刑と定めている大逆の罪には恩恵を与える必要がありませんが、その他の死刑を待っている者は、肉刑に換えるべきです。このようにすれば、本来、死刑になるはずの者を活かすことができ、生命を重視したことになります。今は肉刑の代わりに笞打ちの刑を行っていますが、実際には笞打ちによって囚人が命を落としていますので、鼻や脚を重んじて命を軽んじることになっています」


 当時の議者では鍾繇だけが陳羣と同じ意見であったが、他の者は皆、肉刑を行うべきではないと考えた。


 結局、曹操は軍事がまだ止んでいないため、衆議を顧みて中止した。


次回も曹操サイド

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