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三国志  作者: 大田牛二
第五章 三国鼎立
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西方の死闘

 魏公・曹操そうそうは三人の娘を献帝けんていの後宮に入れて貴人にした。因みに曹操の三人の娘は上から曹憲そうけん曹節そうせつ曹華そうかという。曹節は後に皇后に立てられることになる。


 献帝は使持節・行太常・大司農・安陽亭侯・王邑おうゆうに璧・帛・玄纁(黒と赤の布)・絹万匹を持たせ、鄴に送って納娉(婚姻の礼物を贈る儀式)した。介者(介添え人)は五人いて、全て議郎の身分で大夫の事務を行った。また、副介が一人ずついた。


 このように曹操が政治的な影響力を高めている中、西方では死闘が繰り広げられていた。


 以前、魏公・曹操が馬超ばちょうを追って安定に至ったものの、田銀と蘇伯が反したと聞き、軍を率いて還ることになった。


 それを参涼州軍事・楊阜ようふが曹操を止めた。


「馬超には韓信・英布の勇があり、甚だ羌・胡の心を得ております。もし大軍が還り、備えを設けなければ、隴上諸郡は国家のものではなくなってしまいます」


 楊阜は字を義山といい、若い頃、同郡の尹奉いんほう趙昂ちょうこうとともに名を馳せた人物で、 曹操と袁紹が争っていた頃、州牧・韋端いたんの命により従事の資格で許都に赴き、安定郡の長史に任命された。帰還した後、曹操の勝利を確信し、その事を地元の諸将に伝えて曹操支持に回るべきと主張した人である。


 その後、長史の任務が合わず辞職したが、韋端が太僕に任命され、その息子の韋康いこうが涼州刺史となると、別駕として召し出された。孝廉となり、丞相府より召された事もあったが、涼州側は上奏して留め置き、彼を参軍とした。


 このように長年、涼州で働いてきた人であるため、西方の情勢に詳しかった。だが、曹操は彼の意見には従わず、そのまま還ってしまった。


 果たして馬超が羌・胡の兵を率い、隴上の諸郡県を撃ち始めた。郡県は皆、馬超に応じていった。


 しかし冀城だけは州郡を奉じて(州刺史と郡太守を輔佐して)固守した。


 馬超は隴右の衆を全て兼併していき、それに合わせて張魯ちょうろも大将・楊昂ようこうを派遣して馬超を助けたため、合わせて一万余人の勢力になった。


 そのまま馬超が冀城を攻撃したが、正月から八月に至っても救兵が来なかった。


 涼州刺史・韋康は別駕・閻温えんおんを外に送り、長安に駐屯している夏侯淵かこうえんに急を告げさせることにした。


 冀城が数重に包囲されていたため、閻温は夜の間に水中を潜って外に出た。


 しかし翌日、馬超の兵が彼が脱出した形跡を見つけたため、馬超が人を送って追跡させ、閻温は捕えた。


 馬超は閻温を車に乗せて城下に至り、城中に、


「東方の救援はない」


 と伝えさるように脅した。閻温が同意したため、叫ばせると閻温は城に向かって大声でこう呼んだ。


「大軍は三日もせずに至る。努力せよ」


 城中の者は皆泣いて万歳を称えた。


 馬超は激怒しつつも久しく城を攻めても落とせなかったため、改めてゆっくり閻温を誘い、閻温が意思を変えることを期待した。


 しかし閻温は、


「主に仕えたら死ぬことはあっても二心を抱くことはない。それなのに貴様は長者に不義の言を発させようと欲するのか」


 と答えたため、馬超はついに閻温を殺した。


 一方、城内では、暫くしても外からの救援が来ないため、韋康と太守が投降を考え始めていた。それに対し、楊阜が号哭して諫め、


「私らは父兄子弟を率いて義によって互いに励まし、たとえ死んでも二心を抱かなかったのは、使君(州郡の長)を助けてこの城を守るためです。今、なぜすぐに成る功を棄てて、不義の名に陥ろうとされているのですか」


 と言った。それにここで投降してしまえば、閻温の死さえ無駄になってしまう。


「だが、これ以上は耐えきれんよ」


 韋康がそう言うと楊阜は更に止める。


「馬超は殺すだけの獣です。彼に人を思いやる心などありません。あなたは必ずや殺されてしまいます」


 しかし楊阜と太守はこれを聴かず、城門を開いて馬超を迎え入れた。


 馬超は入城すると刺史と太守を殺し、自ら征西将軍・領并州牧・督涼州軍事(涼州の軍事を監督する地位)を称した。


 その頃、曹操は夏侯淵を派遣して冀城を救わせようとしたが、到着する前に冀城は投降してしまった。

 夏侯淵が冀から二百余里の地に至ったところで、馬超が迎撃したため、夏侯淵軍は不利になった。


 この時、氐王・千万せんまんが反して馬超に応じ、興国に駐屯した。氐王・千万は略陽清水の氐種(氐族)である。その後代が仇池(地名)の楊氏になる。


 夏侯淵は軍を率いて還った。


 ちょうど楊阜が妻を喪ったため、妻を埋葬するため、馬超に休暇を求めた。それが許されると楊阜は外兄(父の姉妹の子で自分より年上の者)に当たる撫夷将軍・姜敍きょうしゅくが駐屯している歴城へ向かった。


 楊阜は姜敍とその母に会いに行き、むせび泣いて甚だ悲痛した。姜敍が問うた。


「何があったのだ?」

 と、姜敍が聞くと楊阜が言った。


「城を守っても完遂できず、主が亡くなっても死ねませんでした。また何の面目があって天下に生きていけるでしょうか。馬超は父に背いて(馬超が挙兵したために父・馬騰が殺された)主に叛し、州将を虐殺しました。どうして私だけの憂責(憂憤・自責)なのでしょうか。一州の士大夫が皆、その恥を蒙っています。あなたは兵を擁して権力を握っているのに、賊を討つ心がありません。これは趙盾が『君を弑した』と書かれた理由です。馬超は強いものの義がなくて釁(過失。罪)が多いため、容易に図れます」


 春秋時代、趙盾の親族である趙穿が晋の君主・霊公を殺した時、史官が「趙盾がその君を弑した」と史書に記した。趙盾は自分ではないと抗議したが、史官は「あなたは正卿でありながら賊を討とうとしないので、あなたの責任です」と答えた故事を元にあなたがここで立ち上がらなければ同じような汚名を負ってしまうと言ったのである。


 姜敍の母が憤慨して言った。


「咄(叱咤の声)、伯奕(姜敍の字)よ、韋使君(韋康)が難に遭ったのは汝の責任でもあります。義山(楊阜の字)だけの責任ではありません。人は誰が死なないのでしょう。忠義のために死ぬのならば、死に場所を得たことになります。あなたがすべきことはただ速やかに発するだけです。私を顧慮する必要はありません。私は汝のために自分のことは自分でします。余生をもって汝に迷惑をかけることはありません」


 こうして姜敍は同郡の人・趙昂、尹奉や武都の人・李俊りしゅんらと共に馬超を討つ謀をし、また、人を冀に送って安定の人・梁寛りょうかん、南安の人・趙衢ちょうこうと結び、内応させた。


 しかしながら趙昂には不安であった。なぜなら息子の趙月ちょうげつが馬超の人質となっていたためである。そこで趙昂は妻の王異(士異という説もある)に相談した。


 こういう謀において女性に相談するというのは謀に失敗する可能性を高めるということが多いが、彼女への相談ではそのようなことは起きないという確信が趙昂にはあった。


 趙昂が羌道県令にだった時、妻の王異は西県に住んでいた。この時、同郡の梁双りょうそうが反乱を起こして西城を攻め落とし、趙昂の男子二人を殺した。王異は梁双に乱暴を働かれる前に自刃しようとしたが、娘の趙英ちょうえい(当時六歳)を見て思い留まった。さらに、


「私がお前を見捨て死んでしまえば、お前は誰を頼りにすればよいのでしょう。西施も不潔な服を着れば人が鼻をつまむという。ましてや私は西施ではないのですから」


 と言って汚物を塗りつけた麻をまとい、物を食べずに痩せ細って醜く見せた。後に梁双が郡の長官と和解したため、捕虜となっていた王異は解放された。趙昂の出した迎えが来たため、娘と共に夫の任地へ向かった。


 王異は、その道中で娘に対し、


「婦人は正式な使者がなければ、死が迫っても部屋から出てはならないものです。それゆえ昭姜(貞姜)は溺死し、伯姫は焼け死にました。彼女たちの伝記を読む度、その貞節を立派に思ったものです。しかし、今の私は騒乱に遭いながら死ぬことができませんでした。今更、姑たちに顔を合わせられるでしょうか。私が恥を偲んで生き永らえたのは、ただお前が心配だったからです。父のいる宿舎はもうすぐです。私はお前と別れる事にしましょう」


 と言って、娘と別れた後、王異は自害しようとして毒を飲み、気絶した。しかしその時、丁度その界隈に解毒剤があり、口をこじ開けて薬を飲ませられたため、一命を取りとめた。このことが知られると彼女の名は知られるようになったという。


 また、楊阜が韋康の降伏に反対したものの聞き入れられなかった際のこと、趙昂は帰宅して王異にその事を語った。すると王異は、


「君主には己を諌める臣下がおり、臣下は非常時に専断が認められています。救援が近くまで来ていないとは言い切れないのです。兵を鼓舞して戦い続け、節義を全うしてから死にましょう。降伏はいけません」


 と言った。この言葉で降伏を考え直した趙昂は、韋康を引き止めようと再び戻ったが、既に韋康が馬超に降伏した後であった。


 このように王異の言動には正しさがあると考えている趙昂は頼もしい妻であり、相談相手にふさわしい人であると思っている。


「我々の謀はこのようであり、事は必ず万全だ。しかし月をどうするべきだろうか?」


 王異に息子が人質になっている件について相談すると彼女は厳しい声で答えた。


「君父の大恥を雪ぐのです。命を重視する必要はありません。一子ならなおさらです」


 断固として謀を実行するべきであるという意見である。


 また、この謀を聞いた王異は謀が実行される前に悟られないようにしなければいけないと考えた。そこで彼女は夫の信頼を勝ち取るため、馬超の妻・楊氏に近づいた。


 楊氏は王異の評判を聞き知っていたため、王異を宴に招いた。王異は楊氏に対し、


「昔、管仲は斉に行き功績を立てたため桓公は覇者となり、由余を引き入れたことで秦の穆公も覇者になりました。今は国が安定し始めたばかりで、このまま治まるか否かは優秀な人材を得ることで決まるのです。涼州の士馬こそ、中原の国と争うことができるのです。そのことを十分にお考え下さい」


 と言った。楊氏はこの言に深く感じ入り、王異との交流をさらに深めたため、馬超はすっかり趙昂を信用するようになった。


 こうして着々と馬超に知られることなく、彼らの謀が進んでいき、九月、楊阜と姜敍が兵を進めて鹵城に入った。それに合わせて趙昂と尹奉も祁山を占拠して馬超に反旗を翻した。


 それを聞いた馬超が激怒した。趙衢はこれを機に馬超を騙し、馬超自ら出撃しなければこの叛乱は討伐できないと進言した。これに従い、馬超が城を出ると、趙衢と梁寛は冀城の門を閉じ、馬超の妻子を全て殺した。


 馬超は進退とも拠点を失ったため、歴城を襲って姜敍の母を得た。


 姜敍の母が馬超を罵った。


「汝は父に背いた逆子、主を殺した桀賊(凶暴な賊)だ。天地がどうして久しく汝を許容できるでしょうか。それなのに早く死なずにいる。人に会わせる顔があるのですか」


 馬超は姜敍の母を殺し、趙昂の子・趙月も殺した。その後、楊阜らと戦った。


 楊阜は馬超と戦って体に五つの傷を追い、多くの親族も失いながらも執念によって馬超の兵を破った。馬超は南に奔って張魯を頼った。


 張魯は馬超を都講祭酒(都講祭酒は師君・張魯に次ぐ地位)に任命し、自分の娘を馬超の妻にしようとした。


 しかし閻圃えんほが張魯に、


「このような人は自分の親も愛せないのに、どうして人を愛せるでしょうか」


 と言ったため中止した。


 曹操は馬超を討った功を賞して十一人を封侯し、楊阜には関内侯の爵位を下賜した。




次回、曹操サイド

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