濡須口の戦い
213年
正月、曹操は濡須口に進軍した。歩騎四十万を号する大軍である。
曹操軍は孫権の江西の営を攻めて破り、都督・公孫陽を獲た。
孫権は兵七万を率いて曹操軍を防ぐことにし、曹操軍に水軍を向かわせた。先鋒の董襲の乗艦が侵攻する中、夜間の突風で彼の乗艦が横転しかかった。
赤壁の戦いでは自然の力に助けられたが、ここでは孫権側に牙を向いたのである。
部下達が脱出を勧めたが、董襲は、
「将軍足る者がここで脱出などできようか」
と、拒否し、撤退する者を斬ると厳命した。そしてそのまま乗艦は横転、転覆し、董襲は溺死してしまった。孫権はこのことを悲しみ彼を丁重に弔い、遺族に金品を与えた。
同じく先鋒を勤めていたのは徐盛である。彼の蒙衝(突撃船)も強風によって流され、諸将と共に敵中に孤立してしまった。
味方の誰もが、敵に取り囲まれたことを知り恐怖に震え上がる中、それに対して徐盛は自ら敵中に突撃した。絶望に捉われていた者たちも、これを見て敵に突撃をかけたため、敵は多くの損害を受け引き返した。このため、徐盛達は天候が回復した後に堂々と帰還することができた。
曹操が濡須に出た時、油船(油を塗った牛皮で覆われた船)を作って夜の間に中洲に渡った。
そこに孫権は水軍を使って囲み取り、三千余人を得た。曹操軍で没溺(戦没・溺死)した者も数千人いた。
その後も、孫権がしばしば戦いを挑んだが、曹操は堅く守って出て来なかった。そこで孫権は自ら曹操の陣営に行くため軽船に乗り、濡須口の曹操軍を攻めた。
曹操軍の諸将は戦いを挑みに来た者が迫っていると思い、攻撃しようとした。
しかし曹操は、
「これは孫権が自ら我が軍を見ようと欲したに違いない」
と言い、軍中に勅令して精厳(整然厳粛)にさせ、弓弩を妄りに発することを禁じた。
孫権は五六里進んでからこの曹操軍の様子を見て攻めるのは難しいと判断して旋回し、鼓吹(太鼓をたたいたり笛を吹くこと)しながら還った。
「今回はダメであったが、次こそは」
そう考えている孫権に孫瑜が反対した。
「あなたは我らの主、あなたが前線に立って万が一があってはいけません」
孫瑜がそう止めたため、孫権が自ら動くことは止めた。
次に孫権は甘寧に特別に酒と米を与えて、百人ほど集めさせた。甘寧は酒食を振舞い、曹操の陣営に夜半奇襲をかけることを提言した。
この時、渋る部下の都督に対し、甘寧は、
「お前は自分を何だと思っているのか。殿がお前を俺より大事だとでも思っているとでもいうのか。将軍である俺ですら死を覚悟しているのにお前一人が何故命を惜しむのか」
と煽り、兵士にまでも自らの酌で酒を振舞って隊を鼓舞し、決死隊として曹操軍に夜襲をかけた。敵兵は混乱し、動揺して引き下がったが、曹操軍全体を揺るがすほどの結果は残せなかった。
双方が対峙して一月余り経った。
曹操は孫権軍の舟船・武器・軍隊が整然厳粛としているのを見て、嘆息してこう言った。
「子を生むならば、孫仲謀(仲謀は孫権の字)のような子であるべきだ。劉景升(景升は劉表の字)の児子のようだったら豚犬に過ぎない」
孫権が曹操に書を送ってこう伝えた。
「春水(春の川水)が増えているため、あなたは速やかに去るべきです」
また、別紙にこう書いた。
「あなたが死ななければ、私は安寧を得られません」
曹操は諸将に、
「孫権が私を騙すことはない」
と言って撤兵した。
四月、曹操が鄴に帰還した。
以前、曹操が譙にいた時、長江沿岸の郡県が孫権に侵略されることを恐れ、人々を徴発して内地に移住させようと欲した。
そこで揚州別駕・蒋済に問うた。
「昔、私が袁本初(袁紹)と官渡で対峙した時、燕と白馬の民を遷したため、民は逃走することなく、賊も敢えて侵略できなかった。今、淮南の民を遷そうと欲するが如何だ?」
蒋済はこう答えた。
「当時は兵が弱く賊が強かったため、遷さなかったら必ず失うことになりました。しかし袁紹を破って以来、あなた様の威は天下を震わせています。民には二心がなく、人情とは故郷を想うものですので、実に移住を喜びません。必ず民を不安にさせることになると懼れます」
曹操は諫言に従わなかった。
その結果、民は逆に驚き不安になり、廬江から九江、蘄春、広陵に至る十余万戸が皆、長江を東に渡ってしまった。
こうして江西が空虚になり、合淝以南では皖城だけが残った。
こうして後に蒋済が使者の命を受けて鄴を訪ねると、曹操は蒋済を迎え入れて接見し、大笑して、
「本来はただ賊から避けさせようと欲しただけだったのだが、全てを駆けさせることになってしまった」
と言い、蒋済を丹陽太守に任命した。
五月、献帝が御史大夫・郗慮に符節を持たせて派遣し、曹操に策命を与えた。冀州十郡を曹操に封じて魏公にしたのである。丞相・領冀州牧はそのままである。
曹操の地位が臣下としての立場を超えつつあった。
次回は劉備サイド