荀彧
秣陵の山川は地形が優れているため、張紘は孫権に以前からここに治所を置くように勧めていた。
劉備が東に向かって秣陵を通った時も、孫権に秣陵を居とするように勧めた。
「秣陵は楚の武王が置いた場所で、名を金陵と言いました。その地勢は山丘に石頭(石。岩石)が連なっています。昔、始皇帝が東巡してこの県を経由した時、望気の者(気を観測する者)が『金陵の地形には王者の都邑の気がある』と言ったため、連岡(岩石が連なった岡)を掘って王者の気を断ち、秣陵に改名しました。今もその場所が残っているため都邑にするべきなのです」
そこで孫権は石頭城を築き、秣陵に治所を遷して建業に改名した。
孫権は秣陵に遷る時、こう宣言した。
「秣陵には小江が百余里もあり、大船を安定させることができる。私はちょうど水軍を整理編成しているので、移って拠点にする」
このように新たに拠点を移している中で、
「曹操が東に兵を進めようとしている」
と呂蒙が聞いた。そこで彼は孫権に進言して濡須水口を挟んで塢(営塞)を建てるように勧めた。
諸将は皆こう言った。
「岸に上がって賊を撃ち、足を洗って船に入るだけのことです。塢が何の役に立ちましょう」
しかし呂蒙はこう言った。
「軍事には勝敗があり、百戦百勝ということはありません。もしも邂逅(突然の遭遇)があり、敵の歩騎が我が軍を逼迫したら、水上・川辺に至る余裕もありません。どうして船に入ることができましょうか」
常に自分たちが有利な状況で戦ができるかはわからない。どのような状況であっても戦えるように備えをするべきであろう。
孫権は納得して濡須塢を築いた。
十月、確かに曹操は東進して孫権を撃とうとしていた。
この頃、献帝は詔を発して曹操に、「賛拝不名(入朝・謁見等の時、会をしきる官員から氏名を直接呼ばれないこと)」「入朝不趨(入朝時に小走りになる必要がないこと)」「剣履上殿(剣を帯びて履物を履いたまま上殿できること)」を命じ、蕭何の前例と同等にした。
以前、董卓も、王莽も、王朝を牛耳ていた人物たちと同じ流れであることは誰もがわかることであった。
それに迎合するか、反発するか。それぞれの運命に関わる選択の時が近づきつつあった。
そのような空気の中、董昭が曹操に言った。
「古に学んで五等の封爵を建てるべきです」
曹操は、
「五等を建てて設けるのは聖人であり、人臣が制定することではない。私がどうしてその責任に堪えられるか」
と答えたため、董昭はこう言った。
「古から今まで、人臣で、世を正すことにおいてあなた様ほど功績がある者はなく、今日の功がありながら、久しく人臣の地位にいた者もいませんでした。今、あなた様は徳に背いて慚愧することを恥じとし、名節を保つことを楽しんでいます。しかしいつまでも大臣の地位にいれば、他者に「曹操は野心を持っている」と疑わせることになりますので、誠に熟慮しないわけにはいきません」
董昭は、曹操が大功臣でありながら普通の臣下のままで居続ければ、身の危険を招く恐れがあるとして、自ら爵位を設けて基礎を固めるべきだと進言したのである。
更に董昭は列侯・諸将と討議し、丞相のまま爵位を国公に進め、九錫を全てそろえて曹操の殊勳を表彰するべきだと考えた。
「九錫」とは天子が功臣に下賜する器物等の特典のことで、車馬、衣服(尊貴を示す)、楽器(古代は音楽が教養の一つとされていた。楽器を下賜するのは、民の教化を命じたことを表す)、朱戸(赤い門。住居の中が整っており、他の者とは異なるということを示す)、納陛(殿上に登るために作られた貴人専用の階段。細かなことは不明であるが、殿上に自由に登る権利を得たということかもしれない)、虎賁百人(虎賁は禁衛の勇士)、鈇鉞(斧鉞。生殺の権限を表す)、弓矢(征伐の権限を表す)、秬鬯(美酒のこと。祭祀に使う)を指す。
董昭を中心として動き、この提案が朝廷で発言されると真っ向から反対した者がいた。荀彧である。
「曹公は本来、朝廷を正して国を安寧にさせるために義兵を興し、忠貞の誠を持って退譲の実を守ってこられました。人を愛する君子でいるならば、徳を守らなければなりません。国公になって九錫を受け入れるべきではありません」
朝廷にはざわつきが生まれた。曹操の覇道を支え続けてきた第一人者であり、多くの人物から尊敬を集めている荀彧が反対したその事実は大きな影響をもたらしていたのである。
曹操は目の前でこのようなことを言われて、不快になった。
この感情は多くの者に伝わり、曹操と荀彧が対立したとして漢王朝に未だ心寄せる者にはある種の期待を、曹操の元で長年、戦ってきた者たちには困惑を与えた。
この状況を静かに見つめているのは賈詡である。
「臣下としての義務を果たさないか……」
彼はそう呟いた。
曹操が孫権討伐を行う際、朝廷に上表して荀彧に譙で軍を慰労させるように請うた。荀彧は漢朝の侍中・尚書令であるため、朝廷に上表して請う必要があった。
曹操はこの機に荀彧を留め、官位を侍中・光禄大夫にして、符節を持って丞相の軍事に参与させた。
こうして曹操軍が濡須に向かった時、荀彧は病のため寿春に留まることになった。
「丞相より薬を持ってまいりました」
荀彧の元に賈詡が白い箱を持ってきてそう言った。
「丞相から……」
荀彧は受け取り、箱を開けると箱は空であった。
「あなたは臣下としての義務を果たされなかった。漢王朝の臣下としても、曹孟徳の臣下としても」
「どういう意味だ?」
「あなたは漢王朝の臣下としての義務を果たされるのであれば、あそこで発言なさるべきではなかった。それにより、漢王朝の臣下たちへの余計な警戒心をもたらさした。曹孟徳の臣下としてはあそこでは賛成をするべきであった。それにも関わらず、新体制への移行を邪魔し、動揺を与えた」
賈詡は淡々と述べていく。
「あなたはどちらの臣下としての立場において中途半端な態度をとられた。もはやあなたに臣下としての義務は果たしきれないでしょう」
彼は静かにそう言ってから空の箱を見る。
「しかし、あなたは長年、曹孟徳の元で、働きその功績は大きなものです。私は季孫氏となりましょう。あなたは叔孫氏となっていただきたい。それがあなたに対する私たちの尊重であると思っていただきたい」
最後にそう言うと薬を荀彧に渡して去っていった。
荀彧は薬を飲んで死んだ。
「これが一番、綺麗な終わり方であったと思います」
「そうか……」
曹操は賈詡から荀彧の死の報告を聞いてそう呟いた。
陳寿は荀彧の死について、「憂いによって死んだ)。この時五十歳で、諡号を敬侯という」と述べている。はしかし裴松之の注釈では、「太祖(曹操)が荀彧に食べ物を送り、それを開けてみると空の器だったため、(荀彧は)薬を飲んで死んだ」と書かれており、『後漢書』も同じように書かれている。
空の食器を与えられたというのは、荀彧に用が無くなったことを意味している。
『資治通鑑』の胡三省の注釈ではこれらの記述に関してこう述べている。
「曹操が荀彧の誅殺を隠した。陳寿(『三国志』)が曹操に殺されたことを書かず、『憂いによって死んだ』と言っているのは、闕疑(憶測を加えず疑問を残したままにしておくこと)であろう」
荀彧ほど、臣下としての忠義、誰に対して忠義足りえたのか。ということに関しての評価が別れ、議論になる人は歴史上には中々いないだろう。
ただ、彼は漢王朝としての臣下としての立場、曹操の臣下としての立場、どちらも捨てることもできず、選び切ることもできなかった。漢王朝に対しても曹操に対しても裏切ることも見捨てることもできなかったぐらいに優しすぎたのかもしれない。
次回は劉備サイド