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三国志  作者: 大田牛二
第五章 三国鼎立
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程昱

 212年


 関中での討伐を勧めようとしていた曹操そうそうの元に河間の民・田銀でんぎん蘇伯そはくが叛乱を起こし、幽州や冀州を扇動しているという報告が来た。


 曹操はこれにより、帰還することを決めた。


 一方、曹操の留守を守っている五官中郎将・曹丕そうひはこの叛乱を受けて自ら討伐しようと欲したが、功曹・常林じょうりんが止めた。


「北方の吏民は安を楽しみ、乱を嫌って服化(服従帰化)して既に久しいため、善を守る者が多く、田銀や蘇伯は犬羊が集まっただけですので、害を為すことはできません。今は大軍が遠くにおり、外に強敵がいて、将軍は鄴を鎮守するという大切な任務を与えられております。軽率に動いて遠くで行動すれば、たとえ克ったとしても勇武とは言えないでしょう」


 北方の混乱はそれほど大きなものにはならなず、曹丕に求められた役割を果たすのを第一にするべきであるという意見である。


 曹丕はこの意見を受けて将軍・賈信かしんを派遣して田銀らを討たせた。賈信は瞬く間に田銀らを滅した。残った賊千余人が投降を請うた。どうするべきかを賈信が曹丕へ判断を仰いだ。


 曹丕は議者を集めて、どういう判断が良いのか議論させた。


 議者が皆、こう言った。


「公(曹操)には旧法(以前定めた法)があり、包囲してから降った者は赦さないことになっています」


 この意見に鼻で笑うかの如く程昱ていいくが言った。


「それは混乱した時における一時的な規則だ。今、天下はほぼ定まっているため、誅してはならない。たとえ誅殺するとしても、先に公(曹操)に報告するべきだ」


 議者が皆、言った。


「軍事には専断することが認められています。指示を請う必要はありません」


 この発想は孫子の発想である。軍事の指揮官は君主からの命令であっても軍事中であれば拒否しても良いのである。


(孫子読みの孫子知らず)


 程昱は頭が痛いと思いながら言った。


「凡そ専断というのは、臨時の急があるからそうするのだ。今、この賊は賈信の手の中で制されている。私は将軍が専断するべきではないと考える」


 専断が許されるのは緊急性のある場合の話で、戦場にいる指揮官と後方にいる君主では情報伝達の差があることを踏まえて指揮官は判断しなければならないという戦場での情報というものを大切にしている孫子の発想である。


 しかしながら今回の場合では既に緊急性が無くなっているのだから君主の判断が第一優先にしなければならない。曹丕は程昱の意見に納得して曹操に報告した。


 曹操は鄴に帰還し、果たして曹操は彼らを誅殺しなかった。


 後に曹操は程昱の謀だと聞いて甚だ悦び、こう言った。


「君はただ軍計に明るいだけでなく、人の父子の関係も善く対処した」


 曹丕が勝手に投降した者を誅殺していれば、父であり、君主である曹操の意思を無視したとして父子の関係が悪化したはずであった。程昱がそれを防いだことを称賛したのである。


 さて、この時、曹操を喜ばせた人物はもうひとりいる。


 当時の慣例では、賊を破ったことを報告する文書では戦功を十倍にして報告することが多かった。しかし留守中の政務を管理していた国淵こくえんが首級を報告した時は、全て実数であった。


 曹操が理由を問うと、国淵はこう答えた。


「外寇を征討した時に、斬獲の数を多くするのは、そうすることで武功を大きくし、民に聞かせて震撼させたいと欲しているからです。しかしながら河間は封域(領域)の内にあり、田銀らは叛逆しました。確かに戦勝して功がありますが、私は心中でこれを恥じています。だから武功を大きくしなかったのです」


 曹操は大いに悦び、彼を魏郡太守に任命した。


 国淵は字は子尼といい、若い頃、鄭玄に師事していた人である。鄭玄は、


「国淵は優れた才能を有しており、国の大器となり得る人物だ」


 と評価したという。動乱が起きると国淵は邴原へいげん管寧かんねいらと共に遼東へ逃れた。


 彼は学問に熱心で古学を好み、遼東に滞在していた間は、常に山中の巌で学問を行い、士人から尊敬された。


 後に故郷へ戻ると曹操から司空掾属として招聘された。曹操が国淵に屯田の事務を担当させたところ、五年で糧食の備蓄について好成績をあげ、民衆も競って労働に勤しませた。


 朝議における議論では、常に真正面から直言を行なっていたが、退出後は私情に拘泥しなかった。また、謙虚と倹約を心掛け、大臣の位に昇進しても、粗衣粗食を守り、俸禄や恩賜は宗族に分け与えた。


 太僕まで昇進して在職のまま世を去ることになる。


 五月、曹操は衛尉・馬騰ばとうを誅殺し、三族を皆殺しにした。馬超ばちょうが曹操に叛したためである。


 さて、曹操が帰還している頃の関中の状況に目を移す。


 馬超らの余衆が藍田に駐屯したが、夏侯淵かこうえんがこれを撃って平定していた。


 鄜賊・梁興りょうこうが馮翊を侵したため、諸県は皆、恐懼して県の官府を郡府下に遷していった。


 議者が険阻な地に移るべきだと主張する中、左馮翊・鄭渾ていこんはこう言った。


「梁興らは破れて四散し、山谷に逃げ隠れしている連中だ。まだ従っている者もいるが、多くは脅されているだけである。今は広く降路を開き、威信を宣諭するべきだ。逆に険阻な地を保って自分を守るのは、弱い姿を示すだけだ」


 鄭渾は吏民を集めて城郭を修築し、守備を整え、賊を駆逐するために民を募り、財物や婦女を得たら十分の七を賞として与えることにした。


 民は大いに悦び、皆、賊を捕えることを願い出た。


 賊で妻子を失った者は皆、山谷から帰って投降を求めた。鄭渾は彼らに他の婦女を奪ってくるように義務づけてから、彼らの妻子を返した。


 その結果、梁興の勢力は内部で互いに寇盗(侵犯略奪)するようになり、党与が離散するようになっていった。続いて鄭渾は吏民の中で恩徳威信がある者を送り、山谷に分布して告諭させた。これにより山谷から出て帰順する者が相次いだ。


 そこで諸県の長吏をそれぞれ本来の治所に還らせ、人々を安定させていった。


 梁興らは懼れを抱き、余衆を率いて鄜城に集まった。曹操は夏侯淵を派遣し、鄭渾を助けて討伐させることにした。


 こうしてついに梁興を斬り、余党を全て平定した。因みに鄭渾は鄭泰の弟である。















次回、曹操と荀彧

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