潼関の戦い
211年
当時、張魯は漢中を拠点にしていた。
三月、曹操は司隸校尉・鍾繇を派遣して張魯を討たせようと考え、同時に征西護軍・夏侯淵らにも兵を率いて河東から出させ、鐘繇と合流させた。
倉曹属・高柔が諫めた。
「大軍が西に出たら、韓遂・馬超は自分が襲われると疑い、必ず互いに扇動します。まず三輔(関中。韓遂・馬超ら)を招集(招撫。帰順させること)するべきです。もし三輔を平らげることができれば、漢中は檄を伝えれば定められましょう」
しかし曹操はこれには従わなかった。
果たして関中諸将は鐘繇が自分達を襲おうとしていると疑い始めた。
特に馬超はそう思い、韓遂の元に向かった。
この時の韓遂は前年に雍州刺史の邯鄲商を殺して叛乱を起こした張猛討伐に出ており、その帰還途中で馬超は彼に会った。
馬超は韓遂に言った。
「鍾繇は私に韓遂殿を捕まえるよう命じました。彼らは信用できません」
嘘である。そのことは韓遂もわかっている。
「私は息子は曹操の元で人質となっている。お前の父もそうではないか。お前は私に反逆を唆しているがそれをやれば人質がどうなるかはわかっているはずだ」
「自分は父を棄ててあなたを父とします、あなたも子を棄てて自分を子と思って欲しい」
(そこまでの覚悟の上なのか……)
韓遂は迷いながらもついにはこれに同意した。
拠点に戻り、この話を拠点を任せていた閻行にした。
「なりません」
閻行は反対した。彼は曹操の元へ使者として送られ、そこで賓客としてもてなされ、曹操の上奏によって犍為太守に任命された。
この時の扱いの良さに感動した閻行は帰還すると、
「涼州は軍民ともに疲弊していますので、曹操に早く帰順するべきです」
と提言し、さらに続けて。
「私は実父を曹操に預けると決めました。韓遂殿も息子を人質として差し出し、帰順を打診してはどうでしょうか?」
と進言して韓遂が息子を人質として送るきっかけを行うなど、曹操との間を取り持っていた人である。そのため彼が反対するのは無理もなかった。
しかしながら結局は韓遂は彼の反対を無視して馬超に協力することにした。
こうして馬超、韓遂、侯選、程銀、楊秋、李堪、張横、梁興、成宜、馬玩の十部が皆反し、その兵は十万に上り、潼関を拠点に駐屯した。
この事態に曹操は安西将軍・曹仁を大将として派遣し、諸将を監督して馬超らを拒ませた。
但し、曹操は曹仁と諸将にこう勅令した。
「関西の兵は精悍であるため、営璧を堅くし、戦ってはならない」
また、曹操が令を発し、五官中郎将・曹丕を留めて鄴を守らせた。奮武将軍・程昱に曹丕の軍事を助けさせ、門下督・徐宣を左護軍にして鄴に留めて諸軍を統率させ、楽安の人・国淵を居府長史にして留守中の事務を統領させた。
ここまでの流れについて胡三省はこう述べている。
「曹操が関中を捨てて張魯を遠征したのは、虢を伐って虞を取る(春秋時代の故事)という計である。馬超・韓遂を討ちたかったが名分がないため、まず張魯の勢を討つと主張して馬超らの背反を速くさせ、それから馬超らに兵を加えたのであろう」
曹操を下手に持ち上げようとして、考えすぎに思える。わざとやるにしては運の要素が絡みすぎており、諸県の動揺のことを考えると博打に近いものになってしまう。
七月、曹操が自ら兵を率いて西行した。
議者の多くが言った。
「関西の兵は強く、長矛に習熟していますので、前鋒を精選しなければ当たることができません」
曹操はこう返した。
「戦(戦の決定権)は我にあり賊にあるのではない。賊は長矛に習熟しているが、私は彼らがそれを刺せないようにしてみせよう。諸君はただそれを観ていればいい」
八月、曹操が潼関に至った。馬超らと関を挟んで駐軍する。
「よく言うことを聞いて守ってくれた」
曹仁を労った曹操はさっそく激しく馬超らを攻撃した。
その間に曹操は黄河を渡ることを考え、徐晃を召して意見を求めた。徐晃はこう言った。
「公がここで精鋭を集めていますので、賊は別に兵を分けて蒲阪を守ろうとしていません。彼らに謀がないことが分かります。今、私に精兵を与え、蒲阪津を渡らせ、軍先(軍の先行部隊)として河西に置き、そうすることでその後ろを絶てば、賊を擒(虜)にできるかと思います」
曹操は頷き、秘かに徐晃、朱霊ら歩騎四千人を夜の間に蒲阪津から黄河を渡らせ、河西を占拠して営を築かせた。
閏八月、曹操が潼関から北に向かって黄河を渡ろうとした。兵が先に渡り、曹操はわずか虎士百余人と共に南岸に留まって後を断った。
全軍が渡り終える前に、そのことに気づいた馬超は歩騎一万余人を率いて曹操を攻めた。船に向かって急攻し、矢が雨のように降らせた。
そのため曹操は胡牀(折り畳みができる椅子)に座ったまま動けなかった。すると許褚が曹操を抱えて船に乗せた。その時、船工が流矢に中って死んだため、許褚は左手で馬鞍を挙げて曹操を庇い、右手で船の舵を取った。
この曹操の危機的状況に校尉・丁斐が牛馬を放って馬超らの兵を誘ったため、兵たちは乱れて牛馬を奪っていった。
その間に曹操は渡河できた。
曹操はなんとか死なずに住んだため大笑して言った。
「今日は小賊のために困窮するところだった」
と、同時に馬超が侮りがたい敵であるという認識をもった。
(戦における嗅覚と実力は本物だ。まともにやり合うのは難しい相手だな)
曹操は蒲阪から西河に渡り、河に沿って甬道を造りながら南に向かった。
馬超らは退いて渭口(渭水が黄河と合流する場所)で曹操を拒んだ。曹操は多数の疑兵を設け、秘かに舟に兵を乗せて渭水に入らせ、浮橋を造った。そして夜、兵を分けて渭南に営を構えさせた。
偽兵によって本陣には少数しかいないと思った馬超は夜に営を攻撃したが、そこに潜んでいた曹操の伏兵がこれを撃破した。
「くっ」
馬超は曹操が警戒心を強めていると思った。
(どうにか油断させたい)
彼はそう考え、渭南に駐屯すると書信を送って黄河以西を割くことで和を請うた。
「見え透いている」
曹操はすぐさま却下しますます守りを固めながら九月、曹操は進軍して全軍を渭水を渡らせた。
馬超はしばしば戦いを挑むものの、曹操は一切応じなかった。
頑なに地を割くことを請い、任子(朝廷に仕えさせる子弟。実際は人質)を送る許可を求めた。
「またか」
と、曹操はすぐに却下しようとしたが、
「お待ちください」
賈詡はそれを停めて、偽って同意するべきですと述べた。
曹操がその計策を問うと、賈詡は、
「彼らを離間させるだけです」
と答えたため、皆まで言わず曹操は任せることにした。
賈詡はまず、馬超の要望について話し合うが、韓遂をそちら側の使者として出すことを条件にした。
「私が行けば、良いのであれば行くことにしよう」
こうして韓遂は曹操と会見を行うことになった。
「あなた様は韓遂の父と同じ年に孝廉になられたそうですね」
「ああ、やつ自身とも洛陽と語り合ったこともある」
「ならば、会見の時、昔話のみに終始なさってください」
曹操は賈詡の言葉に頷き、韓遂と馬を並べて言葉を交わした時は、会話が軍事に及ぶことなく、京都の旧故(往事)だけを述べ、手を叩いて歓笑するのみであった。
この時、曹操を観に来た秦・胡(関中の兵や異民族)の者達が前後に重なって集まっていた。
曹操が笑って彼らに言った。
「汝等が観たいと欲するの私はどうだ。私も人と同じの過ぎんぞ。四目両口があるのではなく、ただ多智なだけだ」
二人の会見が終わってから、馬超等が韓遂に問うた。
「曹操は何を言っていましたか?」
韓遂は首を振った。
「何も言わなかった」
(本当だろうか?)
馬超は彼の言葉を疑った。
(韓遂ほどの男ももはや老いた)
馬超からすれば韓遂は守りに入るばかりになったという印象を以前から持っている。
(その彼が曹操と会話して何も語らないなどあろうはずが無い)
さて、そんな馬超の様子が手に取るようにわかるのか賈詡は曹操に韓遂へ書を送るように進言した。そしてその書の多くの個所に點竄(文書の添削・修正)を加えた。
曹操から書簡が届いたと聞いて、馬超がその書簡を見るとそのような状態であったため、馬超からすれば韓遂が書き直したように見えた。
「曹操は間違えて送ってきたのだろうか?」
(何を白々しいことを言っているのか)
馬超はますます韓遂を疑った。
「これで互いに猜疑し合っていますので、この後はあなた様ならば赤子の手を捻るかのようでしょう」
賈詡はそう言って後は曹操に任せることにした。
曹操は馬超と日を決めて会戦することにした。
「戦うのはやめておけ」
韓遂は曹操からこのような申し入れをしてきたということは曹操に勝てると確信していることになる。何も曹操の土俵で戦う必要は無い。
しかし韓遂と曹操の関係を疑っている馬超はそれに従わなかず決戦を行うことにした。
さて、決戦の日、すぐさま動いたのは曹操である。彼は朱霊の部隊を出して戦いを挑んだ。
馬超ら関中の諸将の中には疑心暗鬼が横行しているため動きが鈍くなっていた。
「脆いものだ」
曹操は虎豹騎を放って挟撃することにした。現在、虎豹騎を率いていた曹純は前年、病死してしまったため、曹操が全体の統括を行っている。
「よしおまえたち彼らを率いていけ」
曹操は曹休、曹真の二人を呼び彼らに虎豹騎の一部を預けて出撃させた。
曹休は字を文烈といい、曹操の族子である。
戦乱で郷里を離れ、早くに父を失った。父の埋葬を済ませた後、老母と共にかつて祖父が太守をしていた呉郡に渡った後、曹操が挙兵したと聞き、変名を使い荊州経由で故郷に帰還して曹操の下に赴いた。
曹操は側近たちに向かって、
「この子は我が家の千里の駒なり」
と言い、曹休を褒めた。その後、曹丕同様に曹操から可愛がられ育てられてきた人物である。
曹真は字を子丹といい、父は曹邵という。
父は曹操が挙兵した時に一族として呼応した。しかし、黄琬と悶着を起こして曹邵は殺害されてしまった。曹操は曹真が年少の身で父を失ったことを憐れみ、自らが引き取って他の子と同じように養い、曹丕と起居を共にさせた。
ある日、曹真は猟をしている時、虎に追われてしまったが、馬上から後ろ向きに矢を放ち、一撃で虎を倒してみせた。これを見た曹操はその勇敢さを褒めて従軍させるようになった。
次世代の才覚ある者たちが躍動し始めている。
曹操軍の挟撃により馬超たちは大破された。関中の諸将・成宜、李堪らは斬られた。
韓遂と馬超は涼州に奔り、楊秋は安定に奔った
こうして関中が平定された。
曹休が戦いが終わった後、曹操に問うた。
「初め、賊は潼関を守っており、渭北の道には備えがありませんでした。それなのに河東から出て馮翊を撃つのではなく、逆に潼関を包囲攻撃し、日が経ってから北に渡ったのは、何故ですか?」
「賊は潼関を守っていたが、もし私が河東に入ったら、賊は必ず退いて諸津を守っただろう。そうなったら西河を渡ることができなかった。だからこそ私は重兵を集めて潼関に向かったのだ。賊が全ての兵で南を守ったから、西河の備えが虚ろになった。そのため二将(徐晃、朱霊)が自由に西河を取ることができたのだ。その後、軍を率いて北に渡ったが、賊が私と西河を争うことができなかったのは、二将が既に駐軍していたからだ。連ねた車や樹木の柵で甬道を造って南に向かったのは、先に敵が勝てないよう安全を確保し、しかも我々の弱い姿を示したのだ。渭水を渡って堅塁を造ってから、敵が至っても我々が出撃しなかったのは、敵を驕らせるためだ。だから賊は営塁を造らずに割地を求めたのだ。私が言に順じて許したのは、その意に従うことで、彼らが安心して備えを設けなくさせるためだ。その間に士卒の力を蓄えたので、一旦にしてこれを撃つと、いわゆる『疾雷(突然の激しい雷)は耳を蓋う暇もない』という状況になったのである。戦略の変化とは、元から一つの方法で行われるものではない」
戦が始まる前、敵である関中諸将が合流する度に、曹操はいつも喜色を浮かべた。
馬超等が敗れてから曹真がその理由を問うと、曹操はこう言った。
「関中は長遠(遼遠)で、もし賊がそれぞれ険阻に依ったら、これを征すに一、二年を要しなければ平定できなかっただろう。しかし今、皆が来集したから、たとえその兵が多くても、互いに帰服することなく、軍には主となるに適した者もなく、一挙して滅ぼすことができた。功を為すのが容易になったため、私はそれを喜んだのだ」
胡三省はこの言葉からこう述べている。
「当時においては関西の兵が最も精強だったが、曹操に破れたのは法制が一つではなかったからだ」
十月、曹操が長安を出て北に向かい、楊秋を征討した。安定を包囲した。楊秋は曹操に降ったため曹操は楊秋の爵位を元に戻し、その地に留めて民を按撫させた。
この後、楊秋は黄初(魏の文帝の年号)年間に、討寇将軍に遷り、位が特進になって臨涇侯に封じられた。天寿を全うすることができた。
十二月、曹操が安定から還った。夏侯淵を留めて長安に駐屯させ、議郎・張既を京兆尹に任命した。
張既は流民を招いて懐柔し、県邑を復興させた。百姓が張既に帰心していった。
韓遂と馬超が叛した時、弘農、馮翊の多くの県邑が呼応したが、河東の民だけは異心を抱かなかった。
曹操が馬超らと渭水を挟んで駐軍した時、軍食は河東を頼りにした。それでも馬超らが破れてから、河東には残った蓄えがまだ二十余万斛もあった。そのため曹操は河東太守・杜畿の秩を増やして中二千石にした。
通常、太守の秩は二千石である。中二千石は二千石の上になる。
こういう評価ができるところが曹操の良いところである。
次回、劉備、益州へ