求賢令
周瑜は勝利し、曹仁は負けた。しかし、前者はなんとか勝ったというべきで、後者は仕方なく負けたという印象の方が強い。
一年もかけたにしては手間暇のかかる戦いであった。赤壁の戦いのような華麗さも何も無い戦いで、得られたものに対して果たして見合う勝利だったのか。
(もっと上手くできたはずだった……)
周瑜は苛立つ。しかも孫権の北方での戦線は失敗したという報告を受けている。想定していた結果を出さないことに軍の最高司令官として周瑜は責任を感じる。
孫権はそんな周瑜に対して、南郡太守を兼任させて江陵に駐屯して拠点にさせ、程普に江夏太守を兼任させて沙羡を郡の治所にさせ、呂範に彭沢太守を兼任させ、呂蒙に尋陽令を兼任させた。
失敗続きなだけに周瑜が成功したことが嬉しいという思いがあったのだろう。そんな孫権の優しさが周瑜の責任感を刺激する。
一方、劉備は鮮やかに荊州南部を手に入れることができた。更に周瑜が曹仁と戦っているのを尻目に、一年も地盤を固める時間さえ得ることができたのである。
劉備は上表して孫権を行車騎将軍・領徐州牧(車騎将軍代行・徐州牧兼任)にした。ちょうど荊州牧・劉琦が死んだため、劉琦と劉備の群臣が劉備を荊州牧に推した。推したというよりは孫権に遠まわしに上表してやったことへの返礼を要求しているようなものである。
この時代、互いに上表という形で推薦し合うというのが一種の礼儀となっている。
そこで、孫権が劉備に荊州牧を兼任させ、周瑜に南岸の地を分けて劉備に与えるように指示した。
南岸の地とは零陵、桂陽、武陵、長沙の四郡を指す。これは本来、劉備が実力で手に入れたものであるが遠まわしに孫権側が劉備に借したという形にしたのである。
諸葛亮は孫権に抜かりのなさを感じながらも逆に言えば、それだけの応酬をできるだけになったということになる。そのためそのまま劉備に物事を進めるように進言する。
劉備は油江口(「油口」ともいう。油水が長江に合流する場所)に営を築き、公安に改名した。ここが劉備の拠点となる。
これらの劉備の動きは孫権以上に周瑜の方が苛立たせる。
「あのような者に好き勝手させてしまうとは……」
周瑜がすぐに江陵を陥落させていれば、そもそも劉備に自由な行動を与えなければ、周瑜としてはそう思わずにはいられない。
周瑜という人は責任感が強く、その忠誠心は本物である。
この時、曹操が秘かに九江の人・蒋幹を派遣し、周瑜を離反させようとしていた。
蒋幹は才辨(才智と弁論の能力)によって江・淮の間で独歩していた人物である(「独歩」は並ぶ者がいないという意味。江・淮の人士で才辨が蒋幹に勝る者はいなかったということになる)。
蒋幹は布衣(庶民の服)・葛巾(葛布の頭巾)を身につけ、私行(私人としての行動)という名目で周瑜を訪ねた。
周瑜が出迎えて立ったまま蒋幹に言った。
「子翼(蒋幹の字)よ、ご苦労であったな。遠く江湖を渡って来たのは、曹氏のために説客になったのかね?」
周瑜はそのまま蒋幹を招き、共に営内を回って参観させたり、倉庫、軍資、器仗(武器)を巡視した。全て観終わってから、戻って酒宴を開き、その席で侍者や服飾・珍玩の物を見せた。
そこで周瑜が蒋幹に言った。
「大丈夫がこの世で生きる際、知己の主に遇い、外は君臣の義に託し、内は骨肉の恩を結び、言が行われて計が採用され(深く信用されるという意味)、禍福を共にしていたら、たとえ蘇・張(蘇秦・張儀)のような弁論に巧みな者が再び生まれたとしても、その意思を動かすことができるだろうか?」
蒋幹はただ笑うだけで最後まで何も言えなかった。
蒋幹は還ってから曹操に報告し、
「周瑜は雅量高致(度量が大きく情緒が高尚なこと)で、言辞では離間させることができません」
と称賛したという。
周瑜はこのような評価を得ることのできる人物であるが、彼自身は今回の状況を己の失態であるという認識を強く持っていた。
「なんとかしなければ……」
彼はそう呟いた。周瑜自身が己を追い詰めつつあることをこの時、誰も気付かなかった。
210年
当時、崔琰と毛玠が選挙を管理しており、品行を重視して清正の士を推挙していた。
そんな中、丞相掾・和洽が曹操に言った。
「天下の人は材徳(才能と品徳)がそれぞれ異なりますので、一節(一つの基準)によって取るべきではありません。度を過ぎた倹素は、自分の身に対するのなら問題ありませんが、それによって他者の行為まで正してしまえば、失うものが多くなります。今は朝廷の議において、官吏で新衣を着て好車(良い車)に乗る者がいたら、それを不清(清廉ではない)と言っています。外貌を飾らず、衣裘(四季の衣服)が敝壊(古くて痛んでいること)している者がいれば、それを廉潔と言っています。そのため、士大夫には故意にその衣服を汚して、その輿服(車服)をしまわせるようになっており、朝府の大吏でも、ある者は自ら壺飧(食物)を持って官署に入っています。教化を立てて風俗を観察する時、貴ぶべきは中庸にあることで、そうすれば継続することができるのです。今は一概に堪えがたい行動を尊重し、そうすることで異なる道の者を拘束していますが、強制してこれを為せば、必ずや疲瘁(欠陥。混乱)が生まれます。古の大教は、人情(人が普通にもつ感情。世情)に通じようと務めただけでした。凡そ激詭の行(過度に世情から離れた行為)とは隠偽(虚偽。隠れた姦邪)を許容することになるものです」
度の過ぎた清廉さを見せる官吏が増え続けている現状への警戒である。曹操はこの意見を称賛した。そして、曹操が令を下した。
「古より、受命および中興の君(開国と中興の君主)で、賢人君子を得て彼らと共に天下を治めなかった者がいたであろうか。賢を得るに及んで、閭巷(街道・郷里。民間)に出たことがないにも関わらず、どうして幸いにも賢人に遭遇できるのだ。賢人を得られないのは上にいる者が求める努力をしていないからだ。今、天下はなお定まっておらず、これは特に賢を求める急時である。孟公綽は趙・魏の老(家老。家臣の長)になったら余裕があるだけで、滕・薛の大夫になることはできなかった」
孟公綽とは春秋時代・魯の大夫で、趙・魏は春秋の大国・晋の卿のことで。滕・薛は小国である。大国には余裕があるため、趙・魏の家老という立場なら優れた品行が求められるだけであったが、小国は余裕がなくて政務が多忙だったため、孟公綽では務まらなかっただろうということである。補足して胡三省は孟公綽を、
「清廉で欲が少なかったが、才(能力)は欠けていた」
と、述べている。
「もしも必ず廉潔の士でなければ用いることができないとしたら、斉の桓公はどうして世に覇を称えられただろうか。今、天下には被褐懐玉(粗末な服を着て玉を懐に入れていること。外見は貧困でも優れた能力を持っていることの比喩)して渭濱で釣りをしている者(周の建国の功臣・呂尚を指す)はいないのか。また、盗嫂受金(嫂と姦通したり賄賂を受け取ること)してまだ魏無知に遇っていない者(西漢建国の功臣・陳平を指す。魏無知によって劉邦に推挙された)はいないのか。諸君は私を輔佐して仄陋(卑賎の者)でも明揚(推挙)せよ。才(能力)がありさえすれば推挙することにし、私は彼らを得て任用しよう」
これが所謂、「求賢令」である。曹操という人の人材登用方針を明確に示し、かつ曹操という人物の性質がよくわかるものである。
次回、劉備サイドと孫権サイドの話。