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三国志  作者: 大田牛二
序章 王朝はこうして衰退する

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郭泰

 164年


 二月、邟郷侯・黄瓊こうけいが世を去った。黄瓊を埋葬する時、四方遠近から名士六七千人が集まった。そのうちの一人に徐穉じょこんがいた。


 彼は以前、黄瓊が家で学問を教授していた時、これに従って大義(道理。または学問の要旨)を学んでいた人である。


 黄瓊が尊貴な位に登ってからは、関係を絶って交わらなくなったが、今年、黄瓊が死ぬと、徐穉は弔問に訪れ、酒を地に撒いて黄瓊を祀ってから哀哭して去った。そんな徐穉を知る者は誰もいなかったため、集まった諸名士が喪宰(喪を主宰する者)に問うと、喪宰はこう言った。


「以前、主を訪ねていた一書生です。いつも衣服は粗薄で、哭して悲哀するほど主を慕っていた方です。ですが、いつも姓と字を記さずに帰るので我々は知らないのです」


 すると人々の中の一人が、


「徐孺子に違いない(孺子は徐穉の字)」


 と言い、弁舌が得意な者を選んで後を追わせた。


 陳留の人・茅容かようが軽騎を駆けさせ、道中で徐穉に追いついた。


 茅容は酒や肉を買って徐穉と飲食した。


 茅容が国家の事を質問しても徐穉は答えなかったが、話題を変えて稼穡(農業)の事を質問すると答えた。


 茅容が帰ってからこれを諸人に話した。


 ある人が言った。


「孔子は『話をするべき相手と話をしなければ、人を失う)(『論語』の言葉)』と言った。それでは孺子(徐穉)は人を失ったと言える?」


 するとそれに対し、太原の人・郭泰かくたいが言った。


「それは違う。孺子の為人は清潔高廉であり、飢えても食物を人から得ることがなく、寒くても衣を得ることがない方である。それでも季偉(茅容の字)と酒を飲んで肉を食べたのは、既に季偉の賢を知っていたからだ。国事について答えなかったのは、智は及ぶことができても愚は及ぶことができないからだろう」


 最後一文の言葉はこれも『論語』の言葉が元になっている。


 かつて孔子が甯武子(衛の大夫)を評価してこう言った。


「甯武子は国に道があれば智となり、国に道がなければ愚となる。その知は及ぶことができるが、その愚は及ぶことができない」


 甯武子は政事が正しく行われている時は能力を発揮したが、政治が乱れた時は敢えて愚者のふりをして政事から遠ざかり、時機を待ったという意味である。そのため孔子は「甯武子の知(智。能力)は他の人も達することができるものであるが、愚(愚者のふりをして退く姿)は他の人には真似ができない」と評価したのである。


 つまり郭泰は徐穉を甯武子に譬えて、


「徐穉は甯武子と同じように賢人だから、今の乱れた世においては、農事は語っても国事に対しては愚の姿勢を貫いたのだろう。彼の知(語った事。農事)には我々も及ぶことができるが、彼の愚(語らなかったこと。政事に対する姿勢)には我々が及ぶことはできない」


 と言ったのである。


 この郭泰という人は博学で談論を得意としている人物として当時有名な人である。


 かつて洛陽で周遊した時、人々は郭泰のことは知られてなかったが、陳留の人・符融ふゆうが一見してその異才を称嘆し、河南尹・李膺りように紹介した。


 李膺が郭泰に会って言った。


「私が見てきた士は多いが、今まで郭林宗(林宗は郭泰の字)のような者はいなかった。その聡識(聡明で記憶力が優れていること)・通朗(道理に通じていること)、高雅(教養があって優雅なこと)・密博(周密かつ博学なこと)は、今の華夏(中華)において匹敵する者はいないだろう」


 李膺が郭泰を自分の友にしたため、郭泰の名が京師を震わせた。


 後に郭泰が郷里に還ることになえうろ衣冠(官員や名士)・諸儒が黄河まで送り、その車は数千輌を数えた。しかし李膺だけが郭泰と同じ舟で河を渡った。衆賓(集まった賓客)はその様子を眺めて神仙のようだと思った。


 郭泰は元々人を知る能力があり、士類(文人の総称)を奨訓(奨励・訓導)するのが好きだったため、郡国を周遊して優秀な人材に学問を勧めた。


 彼によって学問を行うことができた人物たちを述べる。


 先に徐穉を追いかけた茅容は若い頃は不遇で四十余歳まで田野を耕していた。彼は等輩(同輩。仲間)と樹木の下で雨を避けた時、皆は足を伸ばしたまま座って向き合ったが、茅容だけは正座してますます恭敬な姿勢をとった。


 たまたまそれを見た郭泰は茅容が常人ではないと思い、茅容の家で宿泊することを請うた。


 旦日(翌朝)、茅容が雞(鶏)を殺して饌(料理)を作った。郭泰は自分のために設けられた料理だと思ったが、茅容は鶏を半分に分けて母の食事とし、余った半分の鶏は収蔵した。茅容自身は草蔬(粗末な野菜)で料理を作って郭泰と食事を共にした。


 それに対し、郭泰はこう称えた。


「あなたの賢は常人のものではない。私なら三牲の具(親を養う料理)を減らしてでも賓旅(賓客)をもてなすが、あなたはこのようにした。私の友になってもらいたい」


 郭泰は立ち上がって茅容に揖礼し、学問を身につけるように勧めた。そのおかげで茅容は盛徳の人(徳行がある人)として知られるようになった。


 鉅鹿の人・孟敏もうびんが太原に客居していた。


 ある時、孟敏が担いでいた甑(炊事に使う瓦器)を地面に落としてしまったが、孟敏は振り向きもせずに去った。


 それを見た郭泰が理由を問うと、孟敏はこう答えた。


「甑は既に破損しましたので見ても意味がありません」


 郭泰は孟敏に分決(決断)の能力があると思って会話をした。その結果、孟敏の徳性(生まれ持った品性、道徳)を知り、游学するように勧めた。


 孟敏はそのおかげで当世に名が知られるようになった。


 陳留の人・申屠蟠しんとばんは家が貧しく、人に雇われて漆工として働いていた。


 鄢陵の人・庾乗ゆじょうは若い頃、県廷で働いて門士(門卒)になった。


 郭泰は二人を見て他の者とは異なると判断し、遊学を勧めた。果たして後に二人とも名士になった。


 他にも屠沽(酒売り)や卒伍(士卒)の出身で、郭泰の奨進(奨励と推薦)によって名を成した者は大勢いた。それほど有名になると彼の元には多くの者がやってくるようになる。


 陳国の童子・魏昭ぎしょうがやってきて郭泰に、


「経師には遇うのが容易ではございますが、人師に遇うのは難しいものです。郭泰の左右に仕えて灑掃(庭に水をまいたり掃除をすること)することを願います」


 と請うた。


 郭泰はこれに同意した。


 ある時、郭泰が体調を壊したため、魏昭に粥を作らせた。


 粥ができてから魏昭が郭泰に進めたが、郭泰は叱咤してこう言った。


「長者のために粥を作りながら長者に対して敬意を加えなければ、食べられなくなった」


 有名になった郭泰の元には彼を自分の出世に利用しようとする者も多く近づいてきた。そのことに辟易していた部分もあり、魏昭の態度を観るため敢えて難癖をつけたのである。


 郭泰は杯を地に投げ捨てた。


 魏昭が改めて粥を作って進めたが、郭泰はまた叱咤譴責した。


 同じことが三回繰り返されたが、魏昭は厭な顔を見せることはなく、何回も恭しく粥を作って運んだ。


 そこで郭泰が言った。


「私は始めは汝の面(顔)を見ていたが、今から後はあなたの心を知った」


 郭泰は魏昭を友にして善遇するようになった。








 郭泰の人を見抜くことでは、当時屈指の人物であると言える。


 陳留の人・左原さげんは郡の学生になったが、法を犯したため排斥された。


 郭泰が路上で左原に遇い、酒肴(酒食)を設けて慰めた。


「昔、顔涿聚は梁甫の巨盗で、段干木は晋の大駔(売買を仲介する人)であったがが、最後は斉の忠臣になり、魏の名賢となった。蘧瑗(蘧伯玉。衛の賢人)や顔回(孔子の高弟)でも過ちを無くすことはできなかったのだ。他の者ならば、なおさらである。慎んで恚恨(怨恨)せず、我が身を責めるだけだ」


 顔涿聚は梁父(梁甫)の大盗であったが、孔子に学び、後に斉に仕えて黎丘で晋と戦った時に死んだ人物である。段干木は晋で売買を仲介業を行っていたが、魏の文侯に仕えて賢人として名が知られてこれに仕えた。


 左原はこの言葉を受け入れて去った。これに対し、ある人が、


「郭泰は悪人との関係を絶たない」


 と言って非難した。それに郭泰はこう言った。


「不仁の人を甚だしく憎めば、乱を招く」


 これも『論語』の言葉で、


「不仁の人を嫌って追いつめても乱を招くだけであるため、憎むのではなく教化するべきだ」


 という教えである。


 後に左原が突然憤怒を抱いて賓客を集め、諸生(郡の学生)に報復しようとした。しかし当日、郭泰が学(郡の学校)にいたため、左原は前言を裏切ったことに慚愧して報復をあきらめ、その場を去った。


 後日、この事が明るみに出て人々は郭泰に謝服(感謝・敬服)するようになった。


 ある人が范滂はんぼうにこう問いかけたことがある。


「郭林宗とはどのような人でしょうか?」


 范滂はこのように答えた。


「隠居しても親につかえることを忘れず、貞節があっても世俗から隔絶せず、天子であっても彼を臣にできず、諸侯であっても彼を友にできない。私はその他の事は知らない」


『資治通鑑』の注釈を行った胡三省はこの言葉に対し郭泰のことを介子推や柳下恵のような人物であると述べている。


 郭泰は以前、「有道」の士として推挙されたが、応じなかった。


 同郡の宋沖そうちゅうはかねてから郭泰の徳に心服しており、漢元(漢建国)以来、匹敵できる者がいないと考えていたため、仕官を勧めたことがあった。


 郭泰はこう言った。


「私は夜に乾象(天象)を観て、昼に人事を察(観察)しているが、天が滅ぼそうとしているものは支えることができない。私は優游(のんびり気ままな様子)と年月を過ごすだけである」


 しかし郭泰は京師に行き来し、休まず人々を教導して学問に誘った。


 これに徐穉が書を送って郭泰を戒めた。


「大木が倒れる時、一本の縄で繋ぐことはできません。なぜ栖栖(不安で忙しくする様子)として安寧な場所でゆっくりしようとしないのでしょうか?」


 郭泰は道理を悟って、


「謹んでこの言を拝受し、師表(模範)とします」


 と言った。


 済陰の人・黄允こういんは雋才(俊才)で名が知られていた。


 郭泰が黄允に会って言った。


「卿の高才は卓絶していますので、偉器と成るに足りていると言えます。年が四十を過ぎれば、その声名は絶頂に達することでしょう。しかしながらその際に自ら深く匡持(自分を正してそれを維持すること)するべきです。そうしなければその声名を失うことになります」


 後に司徒・袁隗えんかいが従女(姪)のために壻を求めた。


 袁隗は黄允に会うと嘆息して、


「このような壻を得られれば、満足である」


 と言った。


 それを聞いた黄允は妻を廃して家に帰らせた。因みに黄允の妻は夏侯氏である。


 黄允の妻は宗親を大勢集めて別れを告げることを請うた。


 宗親が集まると、妻は人々の中で袂を振るい、黄允の隠慝(隠し事。人に言えない悪事)十五事を数え上げてから去った。


 黄允はこれが原因で名声が廃れてしまった。


 女性は大切にするものである。


 以前から黄允と漢中の人・晋文経しんぶんけいは共にその才智のおかげで遠近に名が知られていたが、徵辟(招聘)に応じなかった。


 二人は京師にいましたが、病を治しているという理由で賓客を通さなかった。公卿・大夫が門生を送って朝から日暮れまで病状を問い、郎吏が門前に座って混雑しても、やはり二人には会えなかった。


 三公が誰かを辟召(招聘)する時はいつも二人を訪ねて意見を求め、その臧否(良否の評価)に従って決定した。


 符融が李膺に言った。


「二子は行業(品行と功業)を聞いたことがないのに豪傑を自任しており、その結果、公卿に疾(病状)を問わせ、王臣(朝廷の臣。郎吏)を門に座らせています。私は彼らの小道(邪道)が義を破壊し、虚名が実体に合っていないことを恐れます。特に察(観察・考慮)するべきです」


 李膺は納得した。


 この後、二人の名論(名望)はしだいに衰え、賓徒(賓客・門徒)も徐々に減少した。


 二人は旬日の間(十日の間。恐らく符融が李膺に進言してからの十日間)に慚愧嘆息して逃げ去った。


 後に二人とも罪に坐して世間から棄てられた。


 洞察力に長けた郭泰が尊敬した人がいる。


 陳留の人・仇香きゅうかは至行(品行が卓越していること)であり、純嘿(純粋・寡黙)であったため、郷党で知る者はいなかった。


 そんな仇香は四十歳で蒲亭長になった。


 蒲亭に陳元という民がおり、母と二人だけで生活していた。


 ある時、母が仇香を訪ねて陳元の不孝を訴えた。


 仇香が驚いて言った。


「私が最近、陳元の家を通った時は、廬落(家屋。または家と庭)が整頓されていて耕耘(農業)も時に順じていました。彼は悪人ではなく、きっと教化が行き届いていないだけのことだと思います。あなたは寡婦として父がいない子を養い、身を苦にして老齢に臨んだのに、どうして一日の忿(怒り)によって歴年の勤(勤労辛苦)を棄てようとなさっているのですか。そもそも母が人の遺孤(夫が遺した子)を養って成済(成就)させられなければ、しかももし死者(亡夫)に知(知覚)があるとすれば、百歳の後に(あなたが死んでから)どうして亡者(亡夫)に会えることでしょうか」


 母は涕泣して立ちあがり去った。


 その後、仇香は自ら陳元の家を訪ね、禍福の言(禍福の故事、道理)を譬えに使って人倫・孝行について述べた。その結果、陳元は感悟して孝子になった


 考城令・王奐おうかんが仇香を主簿に任命した。彼は政治において厳猛を重視しており仇香が徳によって人を教化したと聞き、主簿にしたのである。


 王奐が仇香に言った。


「聞いたところによると、蒲亭にいた時、陳元を処罰せず教化したというが、鷹鸇の志が足りなかったのではないのか?」


「鷹鸇」は鷹や隼のような獰猛な鳥のことである。「鷹鸇の志」というのは厳しい政治を行う意志、勇気を意味する。


 仇香がこれにこう答えた。


「鷹鸇は鸞鳳に及ばないと考えていますので、そうしなかったのです」


 王奐は、


「枳棘(棘がある樹木)の林は鸞鳳が止まる所ではなく、百里(百里四方の地。「県」を意味する)は大賢の路ではない」


 と言うと、一月の奉(俸禄)を資金として仇香に与え、太学に入らせた。


 ある時、郭泰と符融が刺(名刺)を持って仇香を拝謁し、それを機に留宿(宿泊)した。


 翌朝、郭泰は起きると牀(寝床)から下りて仇香を拝し、


「あなたは私の師です。私の友ではありません」


 と言い、敬意を示した。


 仇香は学び終えてから郷里に帰った。


 たとえやることがない暇な時でも必ず衣服を正し、妻子は厳君(厳しい国君)に仕えるように仇香に接した。妻子に過ちがあれば、仇香が冠を脱いで自責し、妻子は庭で謝罪して過ちを反省した。仇香が冠を被ってから、妻子はやっと堂(正房。正室)に登ることができた。


 仇香は喜怒による声色の違いを見せたことはなく、徵辟(招聘)に応じることなく、後に家で死んだ。三子がいてそれぞれ文史の才があったが、中でも少子の仇玄きゅうげんが最も名を知られた。


 

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