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三国志  作者: 大田牛二
第四章 天下の命運
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第一次合肥攻防戦

 209年


 三月、曹操そうそう軍は赤壁から帰還した。軽舟を作り、水軍を治める中、ある報告を聞いていた。


「そうか……まだ陥落せずにいるのだな」


 前年から孫権そんけんが合肥城を攻めているが未だ陥落せずにいるのである。曹操はあの城の城主であった劉馥りゅうふくを思う。


 兵も物資も持たず、ただ一人、あそこに向かったあの男の後ろ姿を曹操は忘れたことはない。彼は既に世を去った。それでも彼が恩徳を示してきたあの城は城主を失ったにも関わらず、孫権を前にして陥落していない。


 しかし、今は合肥を救うために動くことができない。


「それでも、守らなければならない」


 曹操はなんとか張喜ちょうきに千人ばかりの騎兵を率いさせ、合肥に赴かせた。しかし、彼らはすぐには合肥にはつくことができなかった。理由としては彼らも疫病にかかっていたためである。


 このように曹操からの援軍が機能していない中にも関わらず、合肥城は依然として陥落せずにいた。それを苦々しく孫権は見つめる。


「なぜ、陥落できぬのか」


 城主不在の城。明らかに陥落するのが普通の城にも関わらず、年を跨いで未だに陥落せずにいる。


「墨子がいるとでもいうのか」


 戦国時代における難攻不落の代名詞となった墨子たちが守っているかのような頑強さに孫権は思わずそう呟く。


 合肥は確かに城主が不在という状況であったが、劉馥は合肥城の備えは完璧なものにしていた。篭城戦がいつ起きても良いように多くの物資を確保しておき、武器や城壁の整備もしっかりと備えられていた。


 また、篭城戦の時に兵や官吏がどう動くべきなのかも細かく指示してあった。合肥の人々はそれを忠実に守っているだけであった。それに城主の死に涙を流しており、その彼の死に乗じて攻めてきた孫権を深く憎んでいた。そのため絶対に孫権には降伏しないという意思をもって戦っていたのである。


 そんな彼らの粘りに孫権は苦戦を強いられたのである。


「ええい、もう我慢できん」


 合肥を陥落させることのできないことに苛立った孫権は軽騎を率いて自ら突撃しようとした。孫権は自ら指揮を取る戦の時は短気である。


 そんな彼を長史・張紘ちょうこうが諫めた。


「兵器とは凶器であり、戦とは危険なことです。今、麾下(将帥。孫権を指す)は盛壮の気を持って強暴な敵を軽視なさっていますので、三軍の兵で惧れて心配しない者はいません。たとえ敵の将を斬って旗を抜き、威が敵陣を震わせたとしても、これは偏将の任であり、主将の宜(主将として相応しいこと)ではありません。賁・育(孟賁・夏育。古代の勇士)の勇を抑え、霸王の計を抱くことを願います」


 孫権は中止した。


 そんな中、孫権の元にある報告がきた。なんと曹操の援軍四万がこちらに向かっているというのである。


 実はこれは揚州別駕・蒋済しょうせいの策である。


 蒋済は劉馥が生きている時に洛陽への使者として派遣され、帰還する途中で孫権による攻撃が始まってしまったため帰りたくとも帰れないという状況であった。そんな中、曹操が張喜を援軍として出したことを知った。しかしながらその兵数は千程度で、しかも疫病に苦しみながら行軍しているために到着まで時間がかかっていた。


「これでは合肥城の人々を救うことができないではないか」


 そこで彼は一計を思いついた。彼は張喜の書を得たふりをして歩騎四万が既に雩婁に至ったと宣言した。この時、彼は主簿を送って揚州刺史に張喜を迎え入れるように勧めたという。少し首を傾げる記述である。


 まず揚州刺史である劉馥は世を去っており、後任の温恢おんかいはこの時中央にいるはずで、任命を受けたのはこの戦いの後である。そのため彼が進言した揚州刺史とは誰なのかという疑問が残る。次に揚州刺史代行がいたと仮定した場合、また謎が出てくる。


 その揚州刺史代行がどこにいたのかということである。考えられるのは合肥城である。ここが揚州の治所であるためである。しかし、現在、合肥城は孫権の包囲を受けている。進言するとなると一度、蒋済は合肥城に入らないといけなく、それは困難であろう。


 ならば別の場所にという話になるとどこにいるのかわからない。


 この合肥周りの蒋済の動きは謎が多いというよりは必要な描写がされてなさすぎて、よくわからないものとなっている。陳寿は歴史上の出来事を大げさに書かないという良い部分があるのだが、そのために描写が簡略しすぎているところがところどころある。裴松之の注釈がなければ、後世に講談が作られることはなかっただろう。


 また、これに『資治通鑑』も同じような書き方であるのだから頭を抱えたくなる。


 ともかく蒋済は使者を三部に分けて書を持たせ、城中の守将に援軍が来たことを告げさせた。一部は城に入ることができたが、二部は孫権の兵に捕まった。このことは蒋済の思惑通りである。


 孫権はその内容(曹操軍の援軍が迫っていること)を信じた。ここまで陥落できない状況で曹操の援軍と戦うほど彼は無鉄砲ではなかったのである。


 孫権は急いで包囲(攻城の兵器や陣営)を焼いて退却した。


 これほどの時間をかけておきながら孫権はほとんど結果を出すことなく撤退することになったのである。孫権の悔しさは相当なものであっただろう。


「そうか陥落しなかったか」


 曹操はそう呟いた。劉馥の恩徳が守ってくれたそんな思いが曹操にはあった。


 七月、曹操が水軍を率いて渦水から淮水に入り、肥水に出て合肥に駐軍した。そこで曹操が令を発した。


「近来、軍がしばしば征行し、あるいは疫気に遇い、吏士が死亡して帰らず、家族が長期離別し、百姓は流離している。仁者が喜んでこのようにさせるだろうか。やむを得なかったのである。よって令を下す。死者の家族に基業(事業。家業)がなく、自存できない者に対して、県官は廩(食糧の供給)を絶ってはならない。長吏は存卹撫循(愛情をかけて慰安すること)して我が意に符合させよ」


 曹操が揚州郡県の長吏を置き、芍陂を開いて屯田を始めた。


 芍陂は巨大な溜池)である。曹操はこれを屯田に利用したのである。芍陂は寿春県の南八十里に位置し、陂(池)の周囲は約百二十里ある大きな溜池である。春秋時代、楚の名宰相・孫叔敖によって造られたという。


「ここにも恩徳故のものか」


 曹操はそう呟いた。


 孫叔敖もまた、民に優しかった人である。そうまるで劉馥のように。


「徳のなんと偉大なことか」


 曹操は民衆のための政治を行い、民にしたわれ続ける者たちのことを思いながらそう言った。


 劉馥の子・劉靖りゅうせい、孫の劉弘りゅうこうも多くの民衆に慕われた人物である。


 三代に渡り、民衆へ恩徳を示し続けた一族であった。



次回は江陵攻防戦

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