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三国志  作者: 大田牛二
第四章 天下の命運
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赤壁の戦い

最近、時間が取れない。

 周瑜しゅうゆは進軍して赤壁で曹操そうそうと遭遇した。


 この時、曹操の軍では既に疫病が発生していた。そんな中で周瑜の軍とぶつかった曹操は周瑜との戦いで勝てないと見るや兵を退いて江北に駐軍することにした。


 周瑜は南岸に陣を構えた。


「強敵だな……」


 曹操は水軍に慣れていないにも関わらず、慣れているこちらが勝ちきれなかった。また、曹操は周瑜の実力を認めたのか守りを固める方向で動いている。もしかすればこのまま撤退する可能性もある。


 しかし周瑜は曹操がこのまま撤退するのは困る。それが一時しのぎに過ぎないことを理解しているからである。一戦して曹操の実力が高いことはよくわかった。その彼によって長江だけでなく、北からも軍を編成されて数による長期戦へと持ち込まれてしまえば、不利になるのは孫権そんけん側である。


 周瑜としては現在、疫病が蔓延し、弱っている曹操軍に対して大打撃を与えたい。そのためにも撤退してもらうことは困る。


(曹操は世間からの風評に惑わされる人物では無いはずだ)


 百万と号している大軍を要していながら孫権を討伐できなかったという風評を受けたとしても曹操は勝てないと見れば、撤退できるはずだ。


 それだけの人物であるという評価を持っている周瑜はなんとしても撤退前に大打撃を与えたい。この「赤壁の戦い」において決着を急いでいるのは周瑜の方であるという面白い状況であった。


 僅かでも良い。曹操に撤退の二文字に躊躇する状況を作り出さなければならない。


 そんな中、黄蓋こうがいが周瑜の元を訪ねてきた。孫堅の代から仕えてきた宿将はこう言った。


「今、敵が多くて我々は少ないため、持久は困難です。曹操軍は船を連結させて前後が繋がっているため、焼いて走らせることができましょう」


 曹操軍は今まで水軍に慣れてこなかった兵も載せているため、船酔いする者も多かった。そのため船ができる限り揺れないよう船同士を連結させていたようである。そのため一つの船に火がつけば全体に燃え広がることになる。


 周瑜はこの進言を喜び、黄蓋と共に蒙衝戦艦十艘を選び、それらに燥荻(乾燥した荻草)・枯柴を載せ、その中に油を注ぎ、帷幕で覆って隠した。


 上に旌旗を立て、あらかじめ走舸を準備してその後ろに繋いだ。走舸とは足が速い舟のことである。戦艦十艘に火を点けた後、兵が帰るために走舸が準備されたのである。


 その後、黄蓋がまず書を曹操に送り、偽って投降を欲していると伝えた。


 これにより曹操に迷いが生まれた。


 曹操は一度、撤退して軍を整えたいと考え始めていた。そこに黄蓋の投稿の書簡が届いたのである。まさに好機というべきであり、これを利用すれば、周瑜を打ち破り一気に孫権を打ち破ることができるのではないか。


 この曹操の迷いは周瑜からすれば手に取るようにわかった。百万を号する大軍を利無しとして撤退ができる曹操であっても黄蓋の投稿という魅力的な申し入れを前にして撤退を躊躇するのは、軍を率いる者として当たり前の感情である。


 しかしそれによって稼げる時間は限られている。


(だが、天は我らに味方した)


 周瑜側から曹操側へと流れる東南の風が強く吹いたのである。


 水上戦において重要な要素の一つは風である。風をどう利用するのかが勝利の鍵となる。それだけに風をよむ技術を孫権の将兵は有している。


 東南の風を受けて黄蓋は十艦を最前列に出し、中江(川の中央)で帆を挙げた。他の船も全て順に前進していった。


 曹操軍の吏士は皆、営を出て、立ったままその様子を観た。そして、指をさして、


「黄蓋が降った」


 と喜んだ。この兵たちの反応は無理は無い。なにせ彼らは疫病に苦しんでいるその苦しみから早く開放されたいという思いが出てきたのであろう。


 黄蓋は曹操軍から二里余りの場所まで近づいたところで火を点けた。火は激しく燃え上がり、風も強く吹いているため船は矢のように進んだ。そのまま曹操軍の船団へと激突し、全て焼き尽くした。更に火が拡がって岸上の軍営にまで及んだ。


 暫くして炎と煙が天を覆った。人馬で焼死・溺死した者が甚だ多数に上っていった。


(勝った……)


 周瑜はこの光景を見て、勝利を確信した。あとはこの勝利をもっと決定的なもの。そう曹操の首を手に入れるだけである。


「さあ、続くぞ」


 周瑜らが軽鋭の兵を率いてその後に続いた。雷鳴のような戦鼓が大いに地を震わせ、曹操軍は周瑜軍によって潰滅してしまった。


 黄蓋はこの戦いの中で、流れ矢に当たって長江に落ちてしまった。なんとか救い上げられたものの、黄蓋とわからなかったために、負傷したまま厠に放置されてしまった。しかし、同僚の韓当かんとうが見つけ手当てさせたため、九死に一生を得た。


 曹操は軍を率いて華容道から歩いて逃走した。


 曹操は途中で泥濘ぬかるみに遭遇して道を進めなくなった。しかも大風も吹いていた。そこで全ての羸兵(弱兵)に命じ、草を背負って泥道を埋めさせた。そのおかげで騎馬はやっと通過できたが、羸兵は人馬に踏みつけられ、泥の中に陥り、非常に多数の死者が出た。


 だが、それでも曹操は撤退することに成功した。その時、曹操は大いに喜んだ。諸将がその理由を問うと、曹操はこう言った。


『劉備は吾儔(私の同類)だ。しかし計に気づくのが少し晩い。もしも早く火を放っていれば、我々は助かる者がいなかっただろう』


 この後、劉備はすぐに火を放った。


「遅すぎでは?」


 諸葛亮しょかつりょうがそう言うと劉備はこう返した。


「これでいいのさ」


『資治通鑑』は曹操が撤退に成功した後に曹操が喜んだという部分を削っている。どうも『資治通鑑』はこの辺りの描写に関して削ることが多い。


『赤壁の戦い』は『三国志』の意図をもって詳しい描写を削られているため、一大決戦にも関わらず、情報が少なく、あっさりとしたものしかない。


 ただこの「赤壁の戦い」は曹操、劉備、孫権。それぞれにもたらした影響は大きい。


 まず、曹操はこの大敗によって天下統一の勢いを失ってしまった。そのため戦略の見直しを行わならなくなり、まともに南方への手出しを行うことが難しなった。


 劉備は曹操という驚異に対して、ほぼ兵を失うことなく退けることに成功し、自らの勢力を飛翔させる時を得ることに成功することになる。


 この戦いの結果は孫権には大きな自信をもたらした。若い君主という立場で戦うことを主張した者が少ない中、反対を押し切って勝利したのである。君主としての自らの決断力に自信をもつことに成功した。ただし、彼はここで得た自信と現実とが段々と隔離していくことをこの時は知らない。


 それぞれがこの「赤壁の戦い」を通して得ることになる結果によって三国時代が生まれることになるのである。





次回は赤壁の戦い後の話。

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― 新着の感想 ―
[一言] 「『赤壁の戦い』は『三国志』の意図をもって詳しい描写を削られているため、一大決戦にも関わらず、情報が少なく、あっさりとしたものしかない。」 本当ですね。それに黄蓋がどういう理由付けで内通を申…
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