朱穆
163年
十月、桓帝が広成苑で校猟(狩猟の一種)し、その後、函谷関と上林苑を行幸した。
光禄勳・陳蕃が上書して諫めた。
「安平(安泰)の時でも遊畋(遊田。狩猟)には節があるべきです。今は三空の戹(厄。災難)があり、田野が空、朝廷が空、倉庫が空という状態なのでなおさらです。加えて兵戎(戦争)がまだ止まず、四方が離散しているため、陛下にとっては心を焦らせて顔に憂色を浮かべ、夜も寝ていられない時です。どうして旗を掲げて武を誇示し、車馬の景観に心を楽しませているのでしょうか。また、先頃は秋に雨が多く降ったので、最近やっと民が麦の種撒きを始めました。今、種撒きを奨励する時を無視して、令を発して駆禽・除路の役(禽獣を駆逐して道を開く労役)を与えているのは、賢聖による恤民の意(聖人が民を想う本意)ではございません」
この上書が提出されたが、桓帝は採用しなかった。
十二月、衛尉・周景を司空に任命した。
当時、宦官の勢力が旺盛だったため、周景と太尉・楊秉が上書した。
「内外の吏職の多くが相応しい人材ではありません。旧典では、中臣(宦官)の子弟は高位に就いて権勢を握ることができませんでした。しかし今はその枝葉(親族)や賓客が職署(官府)に布列(分布)し、あるいは年少の庸人(凡庸な人)でも守宰(太守や県令)を典拠(掌握)しているため、上下が忿患し、四方が愁毒(憂愁怨恨)しています。よって、旧章を遵用し、貪残(貪婪暴虐)を退け、災謗(天災と批難)を塞ぐべきです。司隸校尉、中二千石、城門・五営校尉、北軍中候に命じてそれぞれ管轄の部を実覈(実態の調査)させ、斥罷(排斥・罷免)すべき者がいれば、司隸校尉等が自ら三府(三公府)に状況を述べ、廉察(考察)に遺漏があったら相応しくない者がいなくなるまで引き続き報告させることを請います」
桓帝はこの上書に従った。
楊秉が牧(州刺史)・守(太守)に関する條奏(箇条書きにして上奏すること)を行い、青州刺史・羊亮ら五十余人が死刑に処されたり罷免されたため、天下で粛然としない者はいなかった。
桓帝が詔を発して皇甫規を招き、度遼将軍に任命した。
以前、張奐は梁冀の故吏(旧部下)だったため、免官のうえ禁錮に処された。旧交があった者は誰も敢えて張奐のために発言しようとしなかったが、皇甫規だけは張奐を推挙して前後七回にわたる上書をした。
その結果、張奐は武威太守に任命された。
皇甫規が度遼将軍になり、軍営に入って数カ月経ってから、また張奐を推薦する上書を行った。
「張奐は才能と智略が共に優れているため、元帥の位を正して衆望に従うべきです。もしもなお愚臣を軍事に充てるべきだと仰せられるのならば、冗官(散官。実務が無い官位)を乞い、張奐の副(副官)になることを願います」
朝廷はこの意見に従い、張奐が皇甫規に代わって度遼将軍になり、皇甫規は使匈奴中郎将になった。
西州の吏民が宮闕を囲んで元護羌校尉・段熲のために冤罪を訴えた。その数が甚だ多くなった。
ちょうど滇那等の諸種羌がますます盛んになり、涼州が滅びそうになったため、朝廷は再び段熲を護羌校尉に任命した。
尚書・朱穆が宦官の恣横(縦横専横)を憎んで上書した。
「漢の故事に基づくのであれば、中常侍は士人も参選(選抜の対象に入ること)していましたが、建武(光武帝)以後、ことごとく宦者を用いるようになり、延平(殤帝)以来、徐々に貴盛を増して、貂璫の飾を授けられ(「貂」は「貂の尾」、「璫」は「蝉の形をした装飾」で、どちらも冠につける)、常伯(侍中)の任に位置し、天朝の政事は全てその手を経ています。宦官の権は海内を傾け、寵貴が極まることなく、子弟親戚が並んで栄任(重任。栄誉な職務)を負い、放濫驕溢(放縦で節度がなく驕慢横柄なこと)で禁禦(禁止、制御)できる者が無く、天下を窮破(窮困)させ、小民を枯渇させています。愚臣が思うに、全て罷省(罷免・廃除)して往古を遵守・恢復させ、改めて海内から清淳の士で国体に明達した者を選んでその処(宦官や親族子弟がいた官位)を補うべきです。そうすれば兆庶黎萌(万民)が聖化を蒙ることができましょう」
桓帝はこの意見を採用しなかった。
後に朱穆が桓帝に謁見する機会があったため、口頭でこう述べた。
「私が聞くに、漢家の旧典では侍中と中常侍を各一人置いて尚書の事を看させ、黄門侍郎を一人置いて書奏を伝発させ(皇帝の命令や臣下の上奏文を伝達させ)、皆、姓族(大族)が用いられました。しかし和熹太后が女主として称制してから、公卿と接しなかったため、閹人(宦官)を常侍にして小黄門が両宮(皇帝と太后)の間で命を伝達したのです。この時以来、宦官の権が人主を傾け、天下を窮困させるようになったのです。宦官を全て罷免して還らせ、広く耆儒宿徳(徳がある老齢の儒者)を選んで共に政事に参与させるべきです」
桓帝は怒って応えなかった。しかし朱穆は伏したまま立ちあがろうとしなかった。
左右の者が「退出せよ」という皇帝の命令を伝えたため、久しくしてやっと小走りで退出した。
この後、宦官がしばしば理由を探し、詔と称して朱穆を詆毀(誹謗中傷)した。
朱穆は元から剛直だったため、間もなくして、志を得られないまま憤懣の中で疽(腫物)ができて死んでしまった。憤死である。
朱穆が死んだ時の年齢は六十四歳であった。
朱穆は数十年も官界にいたが、質素な生活を送っており、家には余財はなかった。公卿が共に朱穆の立節忠清(節操を立てて忠誠・清廉なこと)を称えたため、桓帝は策詔を発して益州太守の官位を追贈した。
朱穆の子・朱野は若い頃から名節があり、出仕して官が河南尹に至ることになる。
かつて朱穆の父・朱頡(朱暉の子)が死んだ時、朱穆と諸儒が古義に基いて「貞宣先生」という諡号を贈った。朱穆が死ぬと、蔡邕と門人がその業績から「文忠先生」という諡号を贈った。
本来、諡号とは皇帝に贈るものであり、下の者が作るものではない。しかしながら朱穆と蔡邕は衰世で臧否(善悪の評価)が立たない(衰退した世なので正しい評価が行われない)と判断したため、これを個人的に諡号について議論したとされている。




