孔融
曹操は張遼を長社に駐屯させた。劉表への備えと侵攻の準備のためである。
張遼が出発する時、軍中に造反を謀る者がおり、夜、営内を驚乱させて火を起こしたため、全軍が混乱に陥った。張遼が左右の者に言った。
「動くな。一営が全て反したのではない。必ず造反の者がおり、こうすることで人を驚動させたいだけだ」
張遼が軍中に令を発した。
「反していない者はその場に坐って動くな」
張遼自身は親兵数十人を率いて陣の中央に立った。
暫くして皆が安定し、首謀者は捕まって処刑された。
張遼は長社におり、于禁が潁陰に、楽進が陽翟に駐屯した。
しかし三将がそれぞれ自分の気持ちに任せて事を行ったため、協調できないことが多々あった。
曹操はそんな彼らに太子、司空主簿・趙儼に命じて同時に三軍の軍務に参与させた。事がある度に趙儼が訓諭したため、三者が互いに親睦するようになった。
南の備えができれば、次は西方の備えの強化を曹操は行った。
以前、前将軍・馬騰と鎮西将軍・韓遂は異姓兄弟の関係を結んだが、後に双方の部曲が互いに侵しあい、讎敵に変わった。
朝廷は司隸校尉・鍾繇と涼州刺史・韋端を派遣して和解させ、馬騰を召して槐里に駐屯させていた。
曹操が荊州を征討する前にそんな馬騰の武装を解かせるため、張既に命じて馬騰と話をさせた。張既が馬騰に部曲を解散して朝廷に帰還するよう説得した。
馬騰はこれに同意しましたが、後に考えを変えて躊躇した。この人は案外、ころころと考えを変えてその度に悩むなど優柔不断なところがある。
張既は馬騰が変事を為すことを恐れたため、諸県に書を送って物資を蓄えるように促し(馬騰が上京するための物資を準備させ)、二千石の太守に郊外まで出迎えさせた。馬騰はやむなく入朝するために東に向かった。
曹操は上表して馬騰を衛尉にした。
また、馬騰の子・馬超を偏将軍に任命し、その兵を統率させた。馬騰の家属(馬騰も含みます)は全て鄴に遷された。
西方の雄の一角を崩し、西方の備えを万全にした曹操は大きな処罰を行った。
太中大夫・孔融が棄市に処したのである。
孔融はその才望に恃み、しばしば曹操を嘲笑し、侮辱していた。また、孔融が発する言葉は過激で度を越えていることで、多くが乖忤(意見の衝突)を招いた。
曹操は孔融の名が天下に重んじられていたため、外見は容忍しつつも、内実は甚だ嫌っていた。
この頃、孔融が上書した。
「古の王畿の制に準じるべきです。千里の寰内(京城周辺千里以内の地域)には諸侯を封建しないものです」
これは京城周辺千里以内の地を漢朝が直接管理するべきだという意味で、実行されたら朝廷の権勢が拡大することになる。
(三桓を批難した孔子を気取っているのか)
曹操は孔融が議論する内容がしだいに広くなっていると疑い、ますます恐れて嫌った。彼の厄介なのは孔子の子孫という血縁の良さと名声である。
そんな孔融は郗慮と対立していた。郗慮は鄭玄の弟子で昔は孔融と仲が良かったが、段々と仲が悪くなった人物である。
郗慮は曹操の意思を感じ取ると孔融の罪を作り上げ、丞相軍謀祭酒・路粹にこう上奏させた。
「孔融は昔、北海におり、王室が静かではないのを見て、徒衆を招合し、背反を謀ろうと欲しました。後に孫権の使者と語り、朝廷を誹謗しました。また、以前は白衣の禰衡と共に跌蕩放言し、互いに称賛しました。禰衡が孔融に『仲尼(孔子)は死んでいない』と言うと、孔融は『顔回が再び生まれた』と答えました。大逆不道ですので、重誅(重刑・誅滅)を極めるべきです」
曹操は孔融を逮捕し、その妻子と共に全て処刑した。でっち上げに近い罪により、処罰するほどに曹操は孔融を嫌っていたことがわかる。
孔融の子供たちのうち、九歳の男子と七歳の女子が幼年の故に、目こぼしされ他家に預けられていた。
二人の子供が碁を打っている最中に父が逮捕されたが、二人とも無反応であったという。左右の者が、
「お父上が縛られたというのに、どうして平気でいるのかね?」
と聞いたところ、
「巣が壊されて、卵だけ割れずに残ることがあることがありましょうか。自分も覚悟しているのです」
と答えた。また、預けられた家の主人が肉のスープをくれた。兄がそれを飲んだのを見て、妹は、
「今度の災難、私たちも長くは生きられないというのに、よくも呑気に肉の味がわかるわね」
と言った。妹の言葉は孔子が古代音楽を聞いて三ヵ月間肉の味がわからなかった故事を含んでいる。それを聞いた兄はわっと泣き出して飲むのをやめた。
これを人伝いに聞いた曹操はとうとう二人を殺すことにした。賢すぎると思ったのだろう。二人は子供らしく父が逮捕された時に泣くべきであった。
捕り手が来た時、妹は兄に、
「もし死んでも物がわかるというのであれば、父様、母様に会えるわね。嬉しいことです」
と言った。子らは自分から首を差し伸べて斬られた。それを見て、痛ましがらぬ者はいなかったという。
京兆の人・脂習は孔融と仲が良く、孔融が過度に剛直であるため、必ずや世患(世間の禍患)に遭うことになる、といつも戒めていた。
孔融が死んでから、許の周辺では孔融の死体を回収しようとする者がいなかった。
しかし脂習は死体を見に行き、撫でてこう言った。
「文挙(孔融の字)が私を捨てて死んだ。私は生きる必要があるのか?」
曹操は脂習を逮捕して殺そうとしたが、暫くして釈放した。後に脂習は中大夫にまで登ることになる。
曹操の息子の曹丕は孔融の詩文を好み、いつも嘆息して、
「揚雄・班固にも劣らぬ」
と言った。そして、天下に寡って、孔融の文章を届け出るものがあれば、その都度黄金や絹を褒美にやったという。孔融の名誉回復を図ったのは曹操の息子である曹丕というのが実に皮肉が効いている。
孔融を処刑した曹操はついに荊州征伐を行うことを決定し、自ら軍を率いて出発した。
天下の形勢を大きく変えることになる戦いが始まろうとしていた。
次回から赤壁の戦いへと突入していきます。