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三国志  作者: 大田牛二
第四章 天下の命運
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丞相

 六月、朝廷は三公の官を廃止して再び丞相と御史大夫を置いた。そして曹操そうそうは丞相となった。


 漢の成立時、丞相、御史大夫、太尉を三公としていたが、哀帝の時代に大司馬、大司徒、大司空が三公になり、後漢以後は太尉、司徒、司空が三公になった。


 今回、丞相と御史が置かれたが、曹操が自ら丞相になり、事権(職権。権力)は一人に握られるようになったのである。


 曹操は冀州別駕従事・崔琰さいえんを丞相西曹掾に、司空東曹掾・毛玠もうかいを丞相東曹掾に、元城令・司馬朗しばろうを主簿に、その弟・司馬懿しばいを文学掾に、冀州主簿・盧毓ろとうを法曹議令史にした。


 いくつか初めて出てきた人物がいるため紹介する。盧毓は盧植の子である。十歳で父・盧植を失い、二人の兄も戦乱の中で失った。当時、袁紹と公孫瓚が争いを繰り広げていたため、食糧を確保できない状況だったが、盧毓は夫を亡くした嫂と兄の子を養いつつ生計を立てつつ学問に打ち込んだ。


 そんな彼にこんな話がある。


 戦乱の時代であったため、逃亡兵は厳罰に処され、妻子も連座して死刑に処せられることになっていた。そんな中、名を白という逃亡兵の妻は、婚姻して数日しか経ていなかったが、それでも死刑を求刑されることになった。この時、盧毓は『詩経』・『尚書』などの古典を引き、死刑は重すぎると反対した。曹操は盧毓の主張に感嘆し逃亡兵の妻を許した。


 司馬朗は字は伯達といい、彼の父は司馬防しばぼうである。


 司馬防は質実剛健な性格で、寛いでいるときも威厳を崩さなかったという。愛読書は『漢書』の名臣列伝で諳んじることができたという。『史記』や『左伝』を愛読書にあげる人は多いが、『漢書』を愛読書にあげる人は珍しい。


 州郡に取り立てられ、洛陽県令・京兆尹を歴任し、老年になると騎都尉に転任となった。村里に住まい自分の生き方を守って門を閉ざす生活を送った。彼の有名なところは息子たちとの関係である。彼には息子が八人いたがその息子らとの関係は厳格であった。息子たちが成人した後であっても、言いつけがなければ部屋に入ることも、座したり発言することも許されなかったほどである。


 尚書右丞であった頃、司馬防は、孝廉に挙げられていた若き日の曹操を、洛陽北部都尉に起用したことがあった。 後に曹操が魏王にまで昇った際、鄴に司馬防を呼び寄せてともに飲食を楽しんだことがあった。曹操は司馬防に、今でも自分を尉に推挙するかと聞いたところ、司馬防はこう答えた。


「昔、王を推挙したときは、その官職がちょうどよかったのです」


 曹操はこの答えに大笑いしたという。


 そんな司馬防に厳しく育てられたのが司馬郎である。


 彼が九歳になった時、父の友人が父の字を呼んだ時、司馬朗はその人に対して言った。


「他家の親を軽率に呼ぶ人はご自身の親も軽視しているのと同じことです」


 その父の友人はあまりの恥で顔を上げられなかった。


 彼が十二歳になった時、経典の暗記で見事に及第して、童子郎となった。しかし、ある人が司馬朗に対して、


「君は、十二歳の割には随分と大きい体をしている。本当は十二歳ではないのではないか?」


 と問い詰めた。しかし、彼は、


「我が家は先祖代々、体格の大柄の家系ですし、私は若輩者ですが、生来出世心を持っておりません」


 と返した。幼少の頃からよくできた人である。


 洛陽が董卓に占拠された時、治書御史を勤めた父・司馬防は、司馬郎に対して家族を引き連れて故郷に戻るように命じた。ところがある者が董卓に向かって、


「司馬朗は郷里に戻ろうとしています」


 と讒訴した。そのために司馬朗は逮捕され、董卓の前に曳き出された。董卓は彼に対して、


「君は先年に亡くなった私の息子と同年である。何故、私を見放そうというのか?」


 董卓の息子と同い年など司馬郎からすれば知ったことではないだろうが、司馬朗はこう答えた。


「今の世の中は混乱に極めております。私も郷里もこのままでは退廃する恐れがあり、いずれ民は飢えで亡くなるでしょう」


 堂々とした態度を示しながら答えた司馬朗を董卓は評価して彼を許した。


 しかし、司馬朗は董卓の身の破滅を直感したので、董卓の腹心らに賄賂を渡して、逸早く一族を引き連れて郷里に逃げた。


 やがて曹操が彼を召し寄せて司空掾属とし、成皋の県令などの地方官吏を歴任した。一時、病により辞職したが病が治ると復帰し、地方官吏としての仕事を続けた。


 司馬朗は領民に寛大な政策を執る善政を敷き、そのため領民から慕われた。このような功績を曹操に認められ、元城の県令を経て、後に中央に戻されて丞相主簿に任じられることになったのである。


 217年に夏侯惇かこうとんに従軍して、臧覇ぞうはらと共に孫権そんけんの征伐に従軍した際、そこで疫病による風邪が蔓延し、彼を含めて多くの兵士が風邪をこじらせた。司馬朗は兵士達に薬を全て分け与え、自分は飲まなかったために病死した。四十七という若さであった。彼の訃報を聞いた多くの人々は涙を流して、彼を偲んだ。


 ある時に崔琰は、


「君の才は弟の司馬懿に及ぶところではない」


 と司馬朗に語ったが、司馬朗は崔琰の言葉に全く気を悪くする様子もなく、笑ってそれに同意して、弟の司馬懿の才能を自慢した。


 司馬懿はそんな兄が死んだ時、 こう述べている。


「私は人格者としては、亡き兄に及ばなかった」


 さて、司馬懿である。司馬郎の弟で、字を仲達という。


 曹操に201年の時に召されたが、これを断ったため曹操の怒りを買ったため渋々曹操に仕えた人である。感情が表に出さない人物で常に淡々と仕事をこなす人で、はっきり言えば才能はあるが地味という人であった。そんな彼が後に魏王朝を牛耳ることになるのだから面白いことである。


 崔琰と毛玠が並んで選挙を管理した。彼らが推挙して用いた者は皆、清正の士で、当時において名声が盛んでも、品行が本分を守っていない者(品行が悪い者。原文「行不由本者」)は、いつまでも官界に進むことができなかったという。


 誠実な者を抜擢して華偽(身を飾って虚偽な者)を退け、沖遜(謙虚な者)を進めて阿党(媚び諂う者)を抑えた。


 そのため、天下の士は皆、廉節に励むようになり、貴寵の臣でも輿服(車服)が度を越えることなく、長吏で家に還った者は、垢で顔が汚れて衣服が破れ、一人で柴車(粗末な車)に乗っていた。軍吏が官府に入る時は、朝服を着てはだしで歩いた。


 上にいる官吏が廉潔になったため、俗(廉潔な気風)が下に移った。これを聞いた曹操は嘆息して、


「人を用いてこのようであり、自分で自分を正すようにさせた。私がまた何をする必要があるだろうか」


 と言った。


次回も曹操サイドの話。

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