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三国志  作者: 大田牛二
第四章 天下の命運
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杜畿

 河内の人・張晟ちょうせいは兵を一万余人要しており、崤・澠の間(崤山・澠池一帯)を侵していた。


 弘農の人・張琰ちょうえんが兵を起こして張晟に応じた。


 この頃、河東太守・王邑おうゆうが朝廷に召されていた。


 郡掾・衛固えいこおよび中郎将・范先はんせんらが司隸校尉・鍾繇しょうようを訪ねて王邑を留めるように請うた。


 しかし鐘繇は同意しようとはしなかった。


 衛固らは王邑を留めることを名(朝廷に従わない理由)としたが、内実は高幹と通謀していた。


 曹操そうそう荀彧じゅんいくに言った。


「関西諸将は、外見は服しているが、内実は二心がある。張晟は殽・澠を寇乱して南は劉表りゅうひょうに通じており、衛固らはこれに乗じて深い害を為そうとしている。当今の河東は天下の要地だ」


 高幹が并州を拠点にしており、馬騰ばとう韓遂かんすいらは関中を拠点にしていたため、双方が交わる場合は使者が全て河東を通った。そのため要地と述べているのである。


「君は私のために賢才を挙げてこれを鎮めてもらいたい」


 これに荀彧はこう言った。


「西平太守・杜畿ときは、勇は難に当たるに足り、智は変に応じるに足りております」


 杜畿、字は伯侯という。前漢の杜延年の子孫であると言われている。幼少のころに父が亡くなり、以後、継母に苛められて育ったが、その継母に対して実母の様に尽くしたことで、非常な孝行者として評判を得たことでその名が知られるようになった。


 二十歳の時に郡の功曹となり、空席だった鄭県令を代行した。数百を越す未決の囚人達がいたが、杜畿は着任早々裁判に自ら赴き、その全てを公正適切に審議し判決を下した。


 孝廉に推挙されるとさらに漢中府の丞(次官)に任命された。しかし漢中で張魯ちょうろが挙兵したため、官を捨てて一度荊州に移り住み、建安年間になって帰郷した。


 京兆尹の張時ちょうじは旧知であったため、杜畿を再び功曹に採り立てた。しかし張時は、杜畿の性格が大雑把であるため功曹には不適格だと思っていた。一方の杜畿もひそかに自分が功曹の器などではなく、太守の器であると思っていた。


 その後、杜畿は荀彧に曹操へ推薦されることになった。荀彧が彼のことを知った時の話がある。


 ある時、杜畿が侍中の耿紀こうきに会いに許昌へ行き、彼の家で一晩中話し合ったことがあった。耿紀の家は荀彧の家と棟続きで隣接しており、図らずもその話の内容を聞いた荀彧は、杜畿の才略に惚れ込み、自ら会見したという。


 この荀彧の推薦により彼は曹操に仕えた。曹操はまず杜畿を自分の司直(司空司直)にした。さらにそのあとで護羌校尉とし、西平太守に任命した上で、節を持たせ西域へ派遣していた。


 またもや荀彧の推薦により、曹操は杜畿を河東太守にした。


 この頃、鍾繇は王邑に符(河東太守の符)を提出するように催促していき、ついに王邑は印綬を佩し、直接、河北から許を訪ねて自ら朝廷に帰順した。


 だが、衛固らが兵、数千人を送って陝津(黄河の渡し場)を絶たせたため、杜畿は数カ月経っても、渡河できなくなった。


 そこで曹操は夏侯惇かこうとんを派遣して衛固らを討たせようとした。


 夏侯惇が来ることを知った杜畿は言った。


「河東には三万戸があり、皆が乱を為そうと欲しているのではない。今、兵がこれに激しく迫ってしまえば、善を為そうとしている者も主がいないため、必ず懼れて衛固に従ってしまう。衛固らの勢力が一つになってしまえば、これを討って勝てなければ彼らが難を為して止むことがなくなり、これを討って勝てたとしても一郡の民を害すことになる。そもそも衛固らはまだ明らかに王命を絶ったのではなく、外は故君(王邑)を請うことを名義としているため、新君(杜畿自身)を害すはずがない。私は単車で直接行ってその不意に出よう。衛固の為人は、計は多くても決断力が無いため、必ず偽って私を受け入れる。私が郡に一月住むことができれば、計によってこれを制御するに足りるだろう」


 杜畿は間道を選んで郖津から渡河した。


 范先は杜畿を殺して衆人に威を示そうと欲したが、とりあえず杜畿の去就を観察することにした。まず、門下で主簿以下三十余人を惨殺した。


 しかし杜畿の挙動は普段と変わらず平然としていた。そこで衛固が言った。


「これを殺しても杜畿には損なうことがなく、我々が徒らに悪名を招くだけだ。それに、彼は我々に制されている」


 衛固らは杜畿を奉じて河東太守にした。


 杜畿が衛固と范先に言った。


「衛氏、范氏は河東の望であり、私はそれに頼って功を成すしかないと考えている。しかし君臣には定義がある。成敗(成功と失敗。福と禍)はこれを同じくし、大事は共に平議(評議。議論)するべきであろう」


 杜畿は衛固を都督・行丞事・領功曹に任命した。


 本来、都督は兵を掌握し、丞は太守に次ぐ地位である。功曹は部下の功労を査定して人事を行うため、郡権を全て衛固に与えたことになる。


 范先には将校吏兵三千余人を全て監督させた。


 衛固らはこれに喜び、表面上は杜畿に仕えたが、内心は杜畿を軽んじて無視するようになった。


 衛固が大いに兵を徴兵しようとすると杜畿はこれを患いて衛固を説得した。


「今、大いに兵を発してしまえば、人心が必ず動揺する。ゆっくりと貲(財貨。賃金)によって募兵した方がいい」


 衛固はこれに納得して従った。その結果、甚だ少ない兵しか得られなかった。


 杜畿がまた衛固らを諭して言った。


「人の情とは家を顧みるものですので、諸将掾史を順に還って休息させるべきだ。危急があってからこれを召しても問題なかろう」


 衛固らは衆心に逆らうのを嫌ってこの言にも従った。


 これは善人を外に出して秘かに杜畿を援ける状況を作り、悪人に関しては分散されることで、それぞれ家に還るようにしたのである。


 ちょうど白騎が東垣を攻めた。


「白騎」とは張白騎という名前の賊であり、張晟を長としている。合わせるように高幹も濩沢に入った。


 杜畿は諸県が既に自分に附いていると判断し、郡城を出た。単身で数十騎を率い、堅壁(堅固な塁壁)に入って守りを固めた。


 すると、吏民の多くが城を挙げて杜畿を助けた。杜畿は数十日で四千余人を得た。


 衛固らは高幹、張晟と共に杜畿を攻めたが、攻略できず、諸県を略奪しても得る物がなかった。


 この状況の中、曹操は議郎・張既ちょうきを派遣し、西に向かって関中諸将・馬騰らを招かせた。馬騰らは皆、兵を率いて合流し、張晟らを撃って破った。


 衛固、張琰らは首を斬られたが、残りの党与は全て赦された。


 こうして杜畿が河東を治めることになった。


 杜畿は務めて寛恵を重視し、民に訴訟があれば、義理を述べ、帰って深く考えさせた。


 父老が皆、互いに自分の子弟を厳しく譴責したため、敢えて訴訟する者がいなくなったという。


 更に杜畿は農業を奨励し、畜牧を課した(割り当てて義務付けした)。百姓の家家が裕福になった。


 その後、学校を興し、孝弟の者を挙げ、軍事を修め、武備を講じた。これによって河東がついに安定するようになった。


 杜畿が河東にいた十六年は常に天下で最も優れていると評価され、胡三省は、


「曹操は河東の物資によって関中を平定した」


 と述べるほど豊かにしたという。


 この杜畿を見つめる者がいる。


「あれが……我が祖先の後継者となる者の祖父か……」


 左慈さじはそう呟いた。



次回も曹操サイドの話。

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