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三国志  作者: 大田牛二
第四章 天下の命運
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徐氏

 丹陽の大都督・嬀覧ぎらん、郡丞・戴員たいうんが太守・孫翊そんしょう孫権そんけんの弟)を殺した。


 将軍・孫河そんかが京城に駐屯しており、情報を聞いて宛陵に駆けつけたが、やはり嬀覧と戴員に殺された。


 嬀覧と戴員は盛憲せいけんの党に属していた人物である。


 孫権が元呉郡太守・盛憲を殺した時、盛憲の元孝廉・嬀覧と戴員は逃亡して山中に隠れていた。孫翊は丹陽太守になってから礼を用いて二人を招き、嬀覧を大都督に、戴員を郡丞にした。


 盛憲は字を孝章といい、心が純正で度量が大きく、孝廉に挙げられて尚書郎になった人物である。やがて呉郡太守に任命されましたが、病のため官を去った。


 その後、孫策が呉と会稽を平定して英豪を誅殺した。盛憲もかねてから高名があったため、孫策は深く嫌ったが、程普ていふが孫策に許昭を攻めるように勧めた時、孫策は、


「許昭は旧君・盛憲に対して義があり、旧友・厳白虎に対して誠がある。これは丈夫の心である」


 と言って放置した。そのおかげで盛憲も救われた。


 少府・孔融こうゆうは盛憲と仲が良かったため、盛憲が禍から逃れられなくなることを憂い、曹操そうそうに書を送って推挙した。これが名士のかばい合い方というのがよくわかるところである。


 そこで曹操が盛憲を招いて騎都尉に任命しようとした。ところが、勅命が到着する前に、盛憲は孫権に殺害されてしまった。


 盛憲の子・盛匡せいきょうは魏(曹操)に奔り、後に位が征東司馬に上ることになる。因みに盛憲が殺された詳しい時、理由は不明である。


 こうやって書くと嬀覧と戴員が旧君の仇を取るための行動に見えるが実際は違う。孫翊は粗暴な性格で、部下に暴力を振るっていたため、これに反感をもって彼を殺したに過ぎない。


 孫翊らを殺した嬀覧と戴員は人を派遣して揚州刺史・劉馥りゅうふくを迎え入れ、歴陽に住ませ、丹陽を挙げて劉馥に応じた。


 嬀覧は軍府の中に住むようになり、孫翊の妻・徐氏じょしに迫って娶ろうとした。


 徐氏が偽って言った。


「晦日が来るのを待ち、祭祀を設けて喪服を除ぎ、その後に命を聴くことを乞います」


 嬀覧はこれに同意した。


 徐氏は秘かに親しい者を派遣し、孫翊が親近にしていた旧将・孫高そんこう傅嬰ふえいらに言葉を伝えて共に嬀覧を除こうとした。


 孫高と傅嬰は涙を流して許諾し、孫翊の時代に侍養していた者(孫翊に仕えて厚く遇されていた者)二十余人を秘かに呼び招いて盟を誓い、共謀した。


 晦日が来ると、祭祀が設けられた。徐氏は哭泣して哀痛を尽くし、祭祀が終わってから、徐氏は喪服を除き、香を焚いて沐浴した。そこから漏れ出す話し声や笑い声がとても嬉しそうであった。


 これを聞いた大小(府内の上下の者)が悲傷する様子となり、このようにしている徐氏を恨んだ。


 嬀覧はこの様子を秘かに監視しており、疑意(猜疑の心)を抱くことはなかった。


 徐氏が孫高と傅嬰を呼んで戸内に配置し、人を送って嬀覧を招き入れた。


 徐氏が戸を出て嬀覧を拝し、嬀覧が徐氏を拝した瞬間、徐氏が大声で叫んだ。


「二君よ、起つ時です」


 孫高と傅嬰が現れて共に嬀覧を殺した。他の者達もすぐに外で戴員を殺した。


 徐氏は喪服に戻り、嬀覧と戴員の首を使って孫翊の墓を祀った。


 この一件は軍を挙げて震撼させた。


 孫権が乱を聞いて椒丘から帰還した。丹陽に至って嬀覧、戴員の余党をことごとく族誅していった。


 孫高と傅嬰を抜擢して牙門将にし、その他の者にも差をつけて賞賜を与えた。


 孫河の子・孫韶そんしょうは十七歳という若さであったが、孫河の余衆を集めて京城に駐屯していた。


 孫権は軍を率いて呉に帰り、夜間、京城に至って営を構えた。そこで孫韶を試すために攻撃して驚かせようとした。


 すると孫韶の兵が全て城壁に登り、伝令を伝えて警備した。喚声が地を動かし、多数の矢が城外の人を射た。


 孫権が人を送って諭すと、やっと止んだ。


 翌日、孫権が孫韶に会い、大いに気に入り、彼を承烈校尉に任命して孫河の部曲を統率させた。


 そもそも夜間に試すために攻撃するなど君主のやるべき行為では無い。しかも罪も無い兵の命を散らしてもいる。孫権に欠点があることがここからわかる。


 当時、孫権が官員を大勢集めて会を開いた。その席で沈友しんゆうはこの時の行為をもって孫権を批難した。


 沈友は字を子正といい、呉郡の人である。


 沈友が十一歳の時、華歆かきんが各地を巡行して風俗を調べ、沈友に会って普通ではないと感じた。そこで華歆が沈友に呼びかけた。


「沈郎(郎は若者)、車に乗って語ることができるか?」


 沈友はためらってから断ってこう言った。


「君子が好を結ぶ時は、礼に基いて宴を開くものです。今は仁義が衰退し、聖道が漸壊(徐々に崩壊すること)しています。先生が銜命(奉命。命を受けること)したのは、先王の教えを補修して風俗を整理するためなのに、軽々しく威儀を棄てるのは、薪を背負って火を消しに行くようなもので、燃え盛る炎をますます大きくしてしまうのではありませんか?」


 華歆は恥じ入って言った。


「桓・霊(桓帝・霊帝)以来、英才は多かったが、幼童でこのような者はまだいなかった」


 沈友は二十歳で博学になり、多くのことに精通して文辞を書くことに長けていた。併せて武事も好み、『孫子兵法』に注釈をした。


 また、弁論を得意としており、いつも沈友が至った場所では衆人が皆黙ってしまい、反論する者がいなかった。


 誰もが沈友の「筆の妙」「舌の妙」「刀の妙」を語り、この三者はどれも人々を超越していた。


 その名声を知った孫権は礼を用いて沈友を招いた。


 沈友は孫権の招きに応じ、王霸の略や当時の急務とすることを論じた。孫権は容儀を正して沈友を敬った。沈友は荊州を併合すべきとする計を述べて、孫権に採用された。魯粛ろしゅくに近い考えの人がこんなところにもいたのである。


 沈友は厳粛な姿勢で朝廷に立ち、人物や政治に対する論評が厳格であった。そのため凡庸な臣に謗られ、謀反を誣告されるようになってしまった。


 孫権も最後は沈友を用いることができなくなると思い始めた。


 そんな時、宴の場で堂々と沈友は孫権を批難したのである。


 激怒した孫権は人に命じて連れ出させ、


「人々が、あなたが謀反しようとしていると言った」


 と告げた。沈友は禍から脱することができないと思い、


「陛下が許にいるのに無君の心(主君を無視する心)がある者が謀反していないいうことがわかりますか。漢帝が許にいるのに、それに仕えようとしない孫権こそ叛臣ではございませんか?」


 孫権は沈友を殺した。この時、二十九歳という若さであったという。



次回は曹操サイドの話。

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