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三国志  作者: 大田牛二
第四章 天下の命運
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牽招

 鄴を陥落させた曹操そうそうは袁紹の墓に臨んで祭祀を行い、哀哭して涙を流した。その後、袁紹の妻を慰労して家人の宝物を返し、様々な絹や綿を下賜して食糧を供給した。


 かつて反董卓連合を成した際、袁紹が曹操にこう問いかけたことがあった。


「もしも大事が成功しなかった場合、どの方面を拠点にできるだろうか」


 胡三省はこの言葉から、


「袁紹は兵を起こした時から勤王の心がなく、割拠の志があった」


 と述べている。曹操は逆に問うた。


「あなたの意見はどうですか?」


 袁紹はこう答えた。


「私は、南は河に拠り、北は燕・代を阻み、戎狄の衆を兼ね、南に向かって天下を争おう。そうすればあるいは成功できるだろう」


 曹操はこう言った。


「私は天下の智力に任せ、道によってこれを守ります。そうすればできないことはありません」


 更にこう続けた。


「湯・武(商の湯王と周の武王)が王となった時、拠点を一つの地に固定していたのではありません。もし険固を資産としたら、機に応じて変化することができないでしょう」


 袁紹は裕福な土地を得ることを優先し、曹操は人を得ることを優先したという部分の会話である。


 九月、曹操が令を下した。


「河北は袁氏の難に遭った。よって今年の租賦を免除する」


 また、豪強による土地の兼併を制限する法を厳重にしたため、百姓が喜悦した。


 以下、その令の内容である。


「国があり、家がある者は、少ないことを患いず不平等なことを患い、貧しいことを患いず不安定なことを患いるものだ。袁氏の治は、豪強に専横放縦させ、親戚に兼并させた。下民は貧弱なのに、租賦を代わりに出し(権力者の代わりに貧民が租税を負担した)、家財を売り出しても、命に応じるには足りなかった。審配の宗族は罪人を隠匿して逃亡者の主になるに至ったものだ。このような状況で百姓を親附させて戦士を強盛にしようと望み欲しても、どうしてそうできるだろうか。よって一畝から四升の田租を徴収し、一戸から絹二匹と綿二斤を出させるのみとする。その他は勝手に徴発してはならない。郡国の守相は明確にこれを検察し、強民に隠匿させたり、弱民に兼賦(二倍の税を納めること)させてはならない」


 献帝が詔によって曹操を冀州牧兼任にした。曹操は兗州牧を辞して返還した。


 胡三省はこう書いている。


「当時、政令は曹操から出ていた。任命を受け入れた場合は実際に受け入れたことになるが、辞退した場合は本当の辞退ではないだろう」


 以前、袁尚が従事・牽招けんしょうを派遣し、上党で軍糧を監督させた。彼は字は子経といい、十代で同郷の楽隠がくいんに師事してその下で学び、楽隠が何苗の長史となると、牽招もこれに随従した。


 洛陽の動乱の中で何苗と楽隠が殺されたため、他の門下生と共に楽隠の棺を守って帰郷しようとした。しかしその途中で賊に襲われ、他の門下生らは逃亡してしまった。牽招が棺に取りすがり、見逃してくれと泣いて頼んだ。賊はその義気を認め牽招を見逃した。これにより牽招は名を知られるようになったという。


 因みに彼は若い頃の劉備りゅうびと交友があったという。変なところに変なつながりがあるものである。


 そんな牽招が還る前に袁尚が中山に逃走したため、牽招は并州刺史・高幹こうかんを説得して、并州に袁尚を迎え入れ、力を併せて変化を観ようとした。


 しかし高幹が従わなかったため、牽招は危険だと考え、東に向かって曹操を訪ねた。


 曹操は牽招を再び冀州従事にした。


 また、曹操は崔琰さいえんを招聘して別駕にした。曹操は崔琰に言った。


「昨日、戸籍を考察したところ、三十万の衆を得ることができることがわかった。冀州は大州であるな」


 すると崔琰はこう返した。


「今は九州が幅裂(裂けた布のように分裂すること)しており、二袁兄弟が自ら干戈を用いましたので、冀方の民衆は原野に骨を曝しています。まだ王師が風俗(民主の生活)を慰問して窮地から救ったとは聞いたことがないにも関わらず、甲兵を計算してこれだけを優先しています。これがどうして鄙州(私の州。冀州)の士女が明公に望んでいることでしょうか」


 曹操は容貌を正して謝った。この一言だけでも崔琰は讃えられるべき人である。


 このように袁氏の元配下で優遇されたものがいる一方、このような者もいる。


 許攸きょゆうは自らの功績を自負して驕慢になっていた。


 ある時、衆人が座っている中で曹操の幼名を呼び、


「阿瞞(曹操の幼名)、あなたは私がいなかったら冀州を得られなかった」


 と言った。曹操は笑って、


「汝の言の通りだ」


 と言ったが、内心では激怒し、後に許攸を殺してしまった。少し謙虚であるだけでも一生の幸福を得ることができたものを、驕慢であることは自らの命を縮めるものである。


 高幹が并州を挙げて曹操に降った。曹操は改めて高幹を并州刺史にした。


 さて、曹操が鄴を包囲している中、袁譚えんたんはまた背反して甘陵、安平、勃海、河間を攻略した。


 更に、曹操に破れて中山に還った袁尚を攻撃した。袁尚は敗れて故安に奔り、袁熙えんきに従った。


 袁譚は袁尚の兵を全て収め、兵を還して龍湊に駐屯した。


 曹操は袁譚に書を送って約束に背いたことを譴責し、婚姻関係を絶って袁譚の娘を還した。その後、兵を進めて袁譚を攻めた。


 十二月、曹操が其門(地名)に駐軍した。


 袁譚は懼れて平原から抜け出し、南皮に走って守りを固めた。清河に臨んで駐屯した。


 曹操は平原に入って諸県を平定していった。この間、余計な横槍が入らないように曹操はしていた。


 かつて曹操は上表して公孫度こうそんどを武威将軍に任命し、永寧郷侯に封じた。しかし公孫度はこう言った。


「私は遼東で王として君臨している。何が永寧だ」


 しかし公孫度は印綬を武庫にしまった。


 本年、公孫度が死に、子の公孫康こうそんこうが位を継ぎ、弟の公孫恭こうそんきょうを永寧郷侯に封じた。


 そのため北の彼はこちらに兵は向けてこないと思いながら曹操は牽招を烏桓の元へ派遣することにした。かつて彼は袁氏のために烏桓を管理したことがあったためである。


 派遣された牽招は柳城を訪ねて烏桓を撫慰した。


 ちょうど烏桓峭王が五千騎を整えて袁譚を助けようとした。


 また、公孫康も使者・韓忠かんちゅうを派遣して峭王に単于の印綬を授けていた。そこで峭王は群長(各部落の長)を集めて大会を開いていた。韓忠も同席している。


 峭王が牽招に問うた。


「昔、袁公が『天子の命を受けて私を単于にする』と言った。今、曹公がまた『改めて天子に報告して、私を真の単于にする』と言った。遼東もまた印綬を持って来た。このようであるが、誰が正しいのだろうか?

 」


 すると牽招は答えた。


「昔は袁公が承制(皇帝の代わりに命を出すこと)していたため、任命することができたのです。しかしその後になって天子の命に背いたため、曹公がこれに代わり、『天子に報告して改めて真の単于にする』と言ったのです。遼東の小郡がどうして勝手に任命を称せるでしょうか」


 これを聞いた憤慨した韓忠が言った。


「我が遼東は滄海の東にあって兵百余万を擁しており、また、扶餘、濊貊が従っている。当今の形勢においては、強者が上となる。なぜ曹操だけが正しいと言えるのだ」


 牽招が韓忠を叱責した。


「曹公は允恭(信があって恭勤なこと)明哲で、天子を補佐しており、叛逆する者を討伐して帰服した者を懐柔し、四海を寧静にさせた。汝ら君臣は頑嚚(頑迷愚昧で姦悪なこと)で、今は険遠に恃んで王命に背違し、勝手に任命しようと欲して神器(天子の権力)を侮って弄んでいる。まさに屠戮されるべきであるのに、なぜ敢えて曹公を軽んじて誹謗するのか」


 牽招は韓忠の頭をつかんで地に押さえつけ、刀を抜いて斬ろうとした。


 峭王が驚き怖れて裸足で牽招を抱きかかえ、韓忠を救うために命乞いした。左右の者も色を失うほどであった。牽招はやっと席に戻った。


 その後、牽招が峭王らのために成敗の效(成果、結果)や誰に禍福が帰しているかを説いた。


 皆、席を下りて跪伏し、謹んで敕教(朝廷の命令と訓戒)を受け入れた。峭王は遼東の使者に別れを告げて、準備した騎兵を解散させた。


次回は孫権サイドの話。

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