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三国志  作者: 大田牛二
第四章 天下の命運
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審配

 十月、曹操そうそうは黎陽に至った。


 袁尚えんしょうは曹操が北に向かって渡河すると聞き、平原の包囲を解いて鄴に還った。


 袁尚の将・呂曠りょこう高翔こうしょうが叛して曹操に帰順した。


 袁譚えんたんは袁尚による包囲が解かれた時、秘かに将軍の印綬を呂曠に授けていた。しかし呂曠は受け取った印を曹操に送っていた。


 曹操は苦笑した。


「私は元々袁譚に小計があることを知っていた。私に袁尚を攻めさせれば、その間に民を奪って兵を集めることができ、袁尚が破れる時には、自分が強くなって我々の疲弊に乗じられるようになると考えたのだ。しかし袁尚が破れたら我々が強盛になるのだから、どの疲弊に乗じることができるといのか」


 曹操は袁譚の本心から講和しているのではないと思いながら子の曹整そうせいに袁譚の娘を娶らせて袁譚を安心させてから、軍を率いて還った。


 204年


 正月、曹操が河を渡り、淇水を止めて水を白溝に入れ、糧道を通した。袁尚を攻撃するために川の流れを無理やり変えたのである。こういう力技できるのが中国の戦史である。


 二月、袁尚が再び平原の袁譚を攻めた。将・審配しんぱい蘇由そゆうを留めて鄴を守らせた。


 曹操は軍を進めて洹水に至った。蘇由が曹操に内応しようと欲したが、謀が漏れたため、出奔して曹操に帰順した。


 曹操が鄴まで進み、土山や地道を造って攻撃した。しかしそれでも堅牢な鄴を攻略するのは難しいと思い、曹操は周辺を攻略して孤立させることにした。


 袁尚が任命した武安長・尹楷いんかいが毛城に駐屯しており、上党の糧道を通していた。


 四月、曹操は曹洪そうこうを留めて鄴を攻撃させ、自ら兵を率いて尹楷を撃った。曹操が尹楷を破って戻り、続けて袁尚の将で沮授の子である沮鵠そこくが守る邯鄲を攻撃し、これを陥落させた。


 易陽令・韓範かんはん、渉長・梁岐りょうきが県を挙げて曹操に降った。


 徐晃じょこうが曹操に言った。


「二袁はまだ破れておらず、諸城でまだ降っていない者は耳を傾けて情勢を聴いています。二県を表彰して諸城に示すべきです」


「汝の言や良し」


 曹操はこれに従い、韓範と梁岐に関内侯の爵位を下賜した。


 黒山賊の将・張燕ちょうえんが使者を送って曹操に援けを求めたため、曹操は張燕を平北将軍にした。


 五月、曹操が土山や地道を破壊し、濠を掘って城を囲んだ。周囲四十里に及んだ。


 曹操は初めは濠を浅く掘らせて越えられるように見せた。


 審配はそれを眺め見て濠が浅いのを見て安心したため笑って兵を出してこれを邪魔しなかった。


 ところが曹操は一夜で濠を深くしてみせた。広さと深さが二丈あり、そこに漳水の水を引いて注ぎ込み、鄴を水攻めにした。これにより、鄴の内外が遮断され、城中の餓死者が半数を超えた。


 七月、袁尚が兵一万余人を率いて帰還し、鄴を助けようとした。到着する前に審配に城外の動静を知らせたいと思い、先行して主簿・李孚りふを派遣して城内に入らせることにした。


 李孚は木を切って刑杖を作り、それを馬の左右に繋ぎ付け、自身は平上幘(武官の冠)を被り、三騎だけを率いて、夕方に鄴下に向かった。


 自ら都督と称して北の包囲陣を通り、表(曹操軍の陣内に立てられた標識、現代で言えば車の標識みたいなもの)に沿って東に向かい、進みながら所々で城を包囲している将士を叱責して周り、罪の軽重に基いて刑罰を行っていった。


 その後、曹操の営前を通って南の包囲陣に至ると、章門(鄴城には七つの門があり、正南を章門、または中陽門という)の方を向き、再び包囲している兵を叱責怒号して縄で繋いだ。


 その隙に包囲を開き、城下に駆けて城壁の上の者に呼びかけた。


 城壁の上の者が縄で引き上げたため、李孚は城内に入ることができた。豪胆な人である。


 審配らは李孚に会って悲喜し、鼓譟(太鼓を叩いて喚声を上げること)して万歳を唱えた。


 城を包囲している者が曹操に状況を報告すると、曹操は苦笑するとこう言った。


「彼は入ることができただけではない。これから再び出ることもできるだろう」


 李孚は外の包囲が更に厳しくなっており、再び来た時のような危険を冒すことはできないだろうと考えた。そこで審配に進言し、穀物の消費を減らすために城中の老弱の者を全て外に出すように請うた。


 夜、数千人を選んで皆に白旗を持たせ、三門(鄴城南面の三門を鳳陽門、中陽門、広陽門という)から同時に外に出して曹操軍に投降させた。


 李孚はまた三騎だけを従え、降人の服を作り、人々に従って夜の間に外に出て、包囲を突破して去ることができた。見事な人である。


 袁尚の兵が来た。


 曹操軍の諸将は皆、


「帰還する兵は家に帰るために必死に戦います。避けるべきです」


 と言った。曹操はこう言った。


「袁尚が大道から来たら避けるべきだが、もしも西山に沿って来るようならば、彼は虜になるだけだ」


 胡三省が解説しているため載せる。


 もし大道から来れば、人々は拠点を救おうという気持ちを抱き、勝敗を顧みず必死の志を持つ。しかし山に沿って来れば、戦ってから前進も退却もできるため、人々は険阻な地形に頼って自分を守ろうとする心を持ち、力を併せて命を懸けようとする意志は生まれない。


 袁尚はここは決死の覚悟で曹操と戦わなければならないが、曹操は彼が父譲りの甘さがあると思っているため、後者を選ぶだろうと考えた。


 果たして袁尚は西山に沿って来た。東に向かって陽平亭に至り、鄴から十七里離れた場所で滏水に臨んで営を構えた。


 偵察のために派遣された数部の者が前後して到着し、皆、こう言った。


「袁尚は間違いなく西道から来ています。既に邯鄲にいます」


 曹操は大いに喜び、諸将を集めてこう言った。


「私は既に冀州を得た。諸君にはそれが分かるか?」


 皆が、


「わかりません」


 と答えると、曹操は、


「諸君はもうすぐそれを見ることになる」


 と言った。


 夜、袁尚が火を挙げて城中に示した。城中も火を挙げて応じた。それを見た審配は兵を城北に出し、袁尚と内外で向かい合って包囲を崩そうとした。


 しかし曹操に逆撃され、審配は敗れて城内に還り、袁尚も破れて逃走し、曲漳(漳水の曲がった場所)に依って営を構えた。


 曹操が袁尚を包囲した。


 曹操の包囲網が固まる前に、袁尚が懼れて投降を求めるため陰夔いんき陳琳ちんりんを使者として派遣した。


「はっ袁紹だったらこのようなことは言わなかっただろう」


 曹操は同意せず、包囲を更に厳しくした。袁尚は夜の間に遁走して祁山を守った。


 曹操が再び兵を進めて追撃し、袁尚を包囲した。


 すると、袁尚の将・馬延ばえん張顗ちょうてつらが戦いに臨んで投降した。袁尚の兵衆が崩壊した。


 袁尚は中山に奔った。


「逃げ足の速いことだ」


 曹操は袁尚の輜重を全て獲得し、袁尚の印綬、節鉞および衣物を得た。袁尚の降人(曹操に投降した者)を使ってそれらを城中に示したため、城中が意気消沈した。


 しかし審配が士卒に令を下してこう言った。


「城を堅く守り、命を懸けて戦え。曹操軍は疲労しており、幽州(袁熙)がもうすぐ来る。なぜ主がいないことを憂いるのか」


 胡三省は、


「審配はこうして衆心を安んじた。忠勇ということができる」


 と評している。


 曹操が外に出て包囲陣を巡行した時、審配が弩を隠して曹操を射た。


「ふん」


 護衛の許褚きょちょによってその矢は防がれたが、危うく矢が曹操に命中するところであった。


「忠烈であり、執念の人だな」


 曹操はそう呟く中、東門校尉を務める審榮しんえいから書簡が届いた。自分が守る東門を開くというのである。


「この者は審配の兄の子であったが、あの者の忠烈は受け継がれていなかったようだな」


 夜、審榮が、自分が守る東門を開いて曹操の兵を中に入れた。


 審配は城中で抵抗して戦ったが、敗れて曹操の兵に生け捕りにされた。


 辛評しんひょうの家族が鄴の獄に繋がれていいたため、辛毗しんぴが駆けて獄に向かい、釈放させようとした。しかし全て審配に殺されていた。


 曹操の兵が審配を縛って帳下に来た。


 辛毗は審配を迎えると馬鞭でその頭を撃ち、罵ってこう言った。


「奴、汝は今日真に死ぬことになった」


 審配が顧みて言った。


「狗輩、まさに汝らのせいで我が冀州が破れることになった。汝を殺せなかったことを恨む。そもそも汝が私の生死を左右できるようか」


 審配の生死を決めるのは曹操であって辛毗ではないのだ。


 暫くして、曹操が審配を引見して言った。


「過日、私が包囲網を巡行した時、なぜあれほど弩が多かったのだ」


 毅然と審配は言い放った。


「少なかったことを後悔している」


 曹操は言った。


「あなたは袁氏に対して忠を尽くしたため、あのようにしなければならなかったのだろう」


 曹操は心中で審配を活かしたいと思った。しかし審配は意気が壮烈で、最後まで橈辞(屈服する言葉)がなく、辛毗らの号哭も止まなかった。


 曹操はついに審配を斬ることにした。


 冀州の人・張子謙ちょうしけんは先に曹操に投降していた。以前から審配と仲が悪かったため、笑って審配に言った。


「正南(審配の字)よ。汝は私と較べてどうだ?」


 審配が厳しい声で言った。


「汝は降虜となり、審配は忠臣となった。たとえ死んでも、どうして汝が生きていることを羨むことができようか」


 審配は刑に臨んだ時、武器を持つ者に叱責して審配を北向きにさせ、


「我が君は北にいる」


 と言った。袁尚が北に走ったからである。


 胡三省はこう述べた。


「袁紹は士にへりくだったが、命をかけて忠節を尽くすことができたのは審配ただ一人だけだった」


 審配には多くの問題があったが、忠義心はあった。


 こうして鄴が平定された。


次回も曹操の話。

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