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三国志  作者: 大田牛二
第四章 天下の命運
145/372

袁氏の兄弟喧嘩

なんかすごい長くなった。

 203年


 二月、曹操そうそうが黎陽を攻め、袁譚えんたん袁尚えんしょうと城下で戦った。袁譚と袁尚は敗走して鄴に還った。


 四月、曹操は追撃して鄴に至り、麦を収穫した。


 諸将は勝ちに乗じて攻撃しようと欲する中、郭嘉かくかはこう言った。


「袁紹はこの二子を愛したため、後継者を選べなかった。今、二人は権力が等しく、それぞれに党與がある。我々が急げば彼らは互いに保ち、我々が緩めたら彼らに争う心が生まれるだろう。南の劉表りゅうひょうに向かって変化を待った方がいい。変化が現れ、その後に撃てば、一挙して定めることができるぞ」


 曹操は頷き、これに従った。


 五月、曹操が許に還りました。将・賈信かしんを留めて黎陽に駐屯させた。


 曹操が令を下した。


「司馬法にはこうある『将軍は綏に死ぬ(「綏」は退却の意味。将軍は退却したら死罪に処された、という意味)。趙括の母が息子が敗戦しても自分は連座しないことを乞うたのは、古の将というのは、軍が外で敗れれば、家族も内で罪を受けたからである。将に命じて征行させた時から、功を賞すだけで罪を罰しないのは、国の制度ではない。よって、諸将を出征させたら、敗軍の者は罪に坐し、失利の者は官爵を免じることにする」


 裴松之はこれに注釈として「庚申の令」も紹介しているため載せる。


「議者(議論する者。意見する者)のある者は、軍吏に対して、功能があったとしても徳行が郡国を任せる人選に堪えられないとしている。いわゆる『共に道に向かうことはできても、共に図ることはできない』というものだ」


『論語』の『共に学ぶことができても、共に道に向かうことができるとは限らない。共に道に向かうことができても、共に立つことができるとは限らない(共に道を守れるとは限らない)。共に立つことができても、共に権ることができるとは限らない(共に事象に精通して臨機応変に対処できるとは限らない)』からの引用である。


「しかし管仲はこう言っている。『賢者をその能力によって食べさせることができれば、君主が尊くなる。闘士をその功績によって食べさせることができれば、士卒が死を軽んじる。この二者が国に設けられれば、天下が治まる』無能の人、不闘の士が並んで禄賞を受け取り、そのような状況で功を立てて国を興した者がいるとは聞いたことがない。だからこそ明君とは無功の臣に官を与えず、不戦の士に賞を与えないのだ。治平(太平の世)は徳行を尊ぶが、乱世は功能(功績・能力)を賞すものだ。論者の言はまるで管を使って虎を窺い見るようなものではないか(見識が狭いことの喩え)」


 曹操が鄴を去って南に移動してから、案の定、袁譚と袁尚は冀州を争うようになった。


 当初、袁譚は袁尚と協力して曹操と戦おうと考えており、こう言っていた。


「私の鎧甲が精良ではないので、以前、曹操に敗れることになった。今、曹操軍は退き、曹操の兵は帰郷の心を抱いている。黄河を渡り終る前に兵を出して襲えば、大潰させることができる。この策を失ってはならない」


 しかし袁尚は猜疑し、彼の兵を増やさず、鎧甲も新しい物に換えなかった。


 袁譚が激怒すると、これを機に郭図かくと辛評しんひょうは袁譚に言った。


「先公(袁紹)に将軍を青州へ出させ、兄の後嗣とさせたのは、全て審配しんぱいの謀です」


 袁譚は兵を率いて袁尚を攻め、鄴城門外で戦った。しかし袁譚が敗れ、兵を率いて南皮に還った。


 別駕・王脩おうしゅうが吏民を率いて青州から袁譚を助けに来た。


 王脩はかつて孔融こうゆうに仕えて高密県令として実績を示した人物である。だが、このとき孝廉に推挙されたが、都に上ることは無かったという。


 次いで膠東県令に任じられた際、当時、有力豪族だった公沙盧こうさろは防備を固め租税を払おうとしなかった。これを知った王修はたった数騎の共を連れて、まっすぐ公沙盧の家の門に入るとそのまま公沙盧兄弟を斬った。


 王修は忠義心のある人で、孔融が困難に直面してる時に必ず駆けつけ、助けたという。


 孔融が袁譚に青州を追われた後、王修は青州刺史となった袁譚に招聘され、治中従事に任命された。しかし、青州別駕の劉献りゅうけんが王修を嫉視・排斥したことなどもあって、袁譚はなかなか王修を使いこなせなかった。


 その後、王修は袁譚の父・袁紹から直々に召し寄せられ、即墨侯国の令に任命された。これを経て再び袁譚の下に戻った後、王修は青州別駕に任命された。袁譚は王修を大いに信頼していたため、彼が駆けつけたことを喜んだ。


 袁譚が改めて鄴に向かって袁尚を攻めようとしたため、王脩が言った。


「兄弟とは左右の手のようなものです。例えば、人が敵と闘おうとした時、自分の右手を断って『私が必ず勝つ』と言ったとしたら、これは正しいでしょうか。兄弟を棄てて親しまなければ、天下の誰が親しむのでしょう。彼ら讒言する人(郭図と辛評)は骨肉を離間させることで一朝の利を求めていますので、耳を塞いで聴かないことを願います。もし佞臣数人を斬って再び互いに親睦し、そうすることで四方を治めれば、天下に横行(縦横に駆けめぐること)することができます」


 しかし袁譚は諫言に従わなかった。


 この状況を受けて、袁譚の将・劉詢りゅうじゅんが漯陰で挙兵して袁譚に叛した。諸城が皆、劉詢に呼応した。


 袁譚が嘆いた。


「今、州を挙げて皆叛した。私の不徳によるものなのか」


 よくわかっているものである。


 王脩が言った。


「東莱太守・管統は海表(沿海の僻地)にいますが、この人は反すことなく、必ずや救援に来るでしょう」


 十余日後、管統が妻子を棄てて袁譚の下に赴いてきた。妻子は袁尚軍に殺された。喜んだ袁譚は管統を改めて楽安太守にした。


 八月、曹操は劉表りゅうひょうを征討すると言って、西平に駐軍した。


 これを知った袁尚は自ら兵を率いて南皮の袁譚を攻め、大破した。ここまで見ていると戦の才能は弟の袁尚のが上のようである。


 袁譚は平原に奔り、城にこもって守りを固めた。


 しかし袁尚が城を包囲して激しく攻撃した。


 この状況に劉表が書を送って袁譚を諫めた。


「君子は難を避けても讎国に向かわず、交わりを絶っても悪口は述べないものだ。それなのに先人(袁紹)の讎を忘れ、親戚の友好を棄て、万世が戒めとすることと為り、同盟の恥を残すとは、もし冀州(袁尚)に不弟の傲(弟として相応しくない傲慢な行為)があったとしても、仁君(袁譚)は志を降して自分の身を辱め、大事の完成を急務とするべきだ。事が定まった後、天下にその曲直(袁譚と袁尚の是非)を評論させれば、それも高義となるのではないか」


 劉表は袁尚にも書を送った。


「金・木・水・火は剛柔によって相済(協調して互いに成長すること)し、その後、その和を克ち取って民に用いられるようになる」


 少しわかりづらいため解説する。


 五行説では、金(金属)は木に克つが、柯(斧の柄。木製)を持って木を伐るため、木がなかったら金が木を伐るという利が成立しない。水は火に克つが、火が水の下にあって共存しなければ水による烹飪(料理。調理)の功が成立しない。このように金・木・水・火は相生相克の関係にあるものの、調和することで民の役に立っているということである。


「青州(袁譚)は天性の峭急(厳格・性急)で是非を判断できない。仁君(袁尚)は度数(度量)が弘広で、綽然(余裕がある様子)として余りあるので、大によって小を包み、優によって劣を許容し、先に曹操を除いて先公の恨を終わらせるべきだ。事が定まった後に曲直を議すという計も善いではないか。もしも迷って正しい道に返らなければ、胡・夷にも譏誚(批難、嘲笑)の言が生まれるでしょう。ましてや我々同盟の者が君の戦いのために尽力できるだろうか。これは韓盧と東郭が自ら先に窮し、田父に獲られることになったのと同じである」


 韓子盧(韓盧)とは天下の俊犬で、東郭狻(東郭)とは天下の狡兔のことである。韓子盧が東郭狻を追って駆けまわしたがが、前後して兔も犬も疲労のため倒れてしまった。それを見た田父が労苦を必要とせず両方を獲たという故事のことが元の言葉である。


 しかし袁譚も袁尚も劉表の諫言に従わなかった。


 袁尚に包囲されている中、袁譚に郭図が進言した。


「曹操と同盟を結び、曹操と袁尚が戦っている隙に勢力を拡大するべきです。袁尚が敗北すればその残党を吸収でき、曹操は遠征軍で兵糧が続かず一度帰還するでしょうから、そうなれば曹操と対峙できます」


 袁譚は少し迷ったが、郭図の推薦を受けた辛評の弟・辛毗しんぴを派遣して曹操を訪ねさせ、投降を乞うことにした。合わせて救援を求めた。


 辛毗は若い頃、陳羣ちんぐん杜襲としゅう趙儼ちょうせんと並ぶほどの名声を有していた人物である。兄が袁紹に仕えたため袁紹に仕えた。


 辛毗が西平に至って曹操に会い、袁譚の意を伝えた。


 諸将は皆、袁譚を疑い、群下の多くの者が、


「劉表は強盛ですので先にこれを平定するべきです。袁譚と袁尚は憂いるに足りません」


 と言ったが荀攸じゅんゆうがこう言った。


「天下はまさに有事の時ですが、劉表は坐して江・漢の間を保っているだけですので、四方の志(四方を制す志)がないと知ることができます。袁氏は四州の地に拠り、帯甲が数十万もおり、袁紹は寛厚によって衆心を得ていました。もしも二子を和睦させてその成業を守らせるようなことがあれば、天下の難が終息しなくなります。また、今は兄弟が遘悪(憎しみ合あって対立すること)しており、両立できない形勢です。もし片方が片方を併合することになれば、力が一つになり、力が一つになったら図るのが困難になります。劉表を討伐するのではなく、この乱に乗じて袁氏を取れば天下が定まります。この時を失ってはなりません」


 曹操は荀攸の意見に従い、諸将に向かって曹操はこう言った。


「私が呂布を攻めた時、劉表は侵攻しなかった。官渡の役でも袁紹を救わなかった。これは自守保身の賊であり、後回しにすればいい。袁譚と袁尚は狡猾ですので、その乱に乗じるべきだ。たとえ袁譚が詐術を用いて最後は手を束ねることがないとしても、我々に袁尚を破らせて、我々がその地を全て収めれば、利は自ずから多くなる」


 曹操は袁譚の使者の言葉をまるっきり信用してはいなかった。そのため数日後、曹操は辛毗の前で、考えを変えて。先に荊州を平定し、袁譚と袁尚は共倒れにさせようとしようとする方針を述べた。


 この時、孫権そんけんが曹操に合わせるように西に向かって黄祖こうそを伐ち、水軍を破るなどの行動を起こしていたというのも曹操が劉表攻めを継続しようと思った理由でもある。


 辛毗は曹操の顔色を観察して変化があったことを知り、郭嘉に話した。郭嘉は彼の言葉を聞いて、曹操に会わせることにした曹操が辛毗に問うた。


「袁譚は必ず信じることができ、袁尚には必ず克てるというのか?」


 辛毗が答えた。


「明公が信用できるかどうかを問う必要はありません。ただ形勢を論じるだけです。袁氏が本より兄弟で相伐しているのは、他者がその隙に乗じることを考えず、天下が自分によって定められると考えているからです」


 袁氏兄弟は元々他者が乗じることを考えず、青州と冀州を一つにしたら形勢に乗じて天下を定められるということだけを考えていたため、互いに争っているだけであると彼は断言したのである。


「今、一旦にして明公に救いを求めたので、明公に救いを求めたことから、袁譚が困窮したと分かります。また、顕甫(袁尚の字)が顕思(袁譚の字)の困窮を見ても取れないのは、その力が尽きているからです。軍隊が外で敗れ、謀臣が内で誅され(逢紀、田豊らを指す)、兄弟が讒䦧(対立して批難しあうこと)し、国が分かれて二つになり、連年戦伐して介冑に蟣蝨しらみが生まれ、加えて旱蝗と餓饉が並んで訪れ、上においては天災が応じ、下においては人事が困窮し、愚者も智者も皆、土崩瓦解していることを知っています。これは天が袁尚を亡ぼす時です。今、鄴に向かって攻撃したとして、もし袁尚が鄴に還って救おうとしなければ、鄴は自らを守ることができず、袁尚が還って救ったとしても袁譚が後ろを追います。明公の威を持って困窮した敵に応じ、疲敝した寇を撃てば、迅風が秋の葉を振り落とすのと同じでことでしょう」


 ここで曹操はちらりと郭嘉を見ると郭嘉は静かに頷く。


「天が袁尚を明公に与えているのに、明公がこれを取らずに荊州を伐っても、荊州は豊楽(富裕・安楽)ですので、国には隙がありません。仲虺(商王・成湯の賢臣)はこう申しています。『政治が乱れている国を取り、亡ぼうとしている国に進攻する』今は二袁が遠略に務めず、内部で互いに図っているため、乱といえます。住民には食が無く、行者(道を行く者)には糧がないので、亡と言えます。人々は朝に夜の事を考えることができず(「その日ぐらし」の意味)、民の命が継続できないのに、あなた様はこれを安定させず、後年まで待とうとしています。他年にもし豊作になり、しかも袁氏が自ら亡を知ってその徳を改め修めたら、用兵の機会を失うことになります。今、請救(救援を請うこと)を機会に困窮した民衆を慰撫すれば、これ以上の利はありません。そもそも四方の寇で袁氏より大きなものはいません。河北を平定すれば六軍が盛んになり、天下が震えましょう」


 曹操は彼の言葉を受けて、袁譚との講和に同意した。


 胡三省はこの時の辛毗の言葉からこう述べている。


「辛毗の言を観ると、袁譚のために救援を請うたのではなく、曹操に河北を取るように勧めている」


 そのとおりである。彼は袁譚のためではなく、曹操に河北を得てもらいたいと考えていた。もはや袁氏に天運が離れていると考えていたのである。


 だからこそ郭嘉は彼の言葉を聞くように曹操に促したのである。


「河北を得ろと天は告げているということさ」


 こうして曹操は軍を還して河北へと向かった。





 曹操に合わせて動いていた孫権は黄祖の城を攻略できず、曹操が退却していき、しかも山越が再び動き始めたため引き返していた。


 孫権が豫章を通った時、征虜中郎将・呂範りょはんに鄱陽を平定させ、盪寇中郎将・程普ていふに楽安を討たせ、建昌都尉・太史慈たいしじに海昏を治めさせ、別部司馬・黄蓋こうがい韓当かんとう周泰しゅうたい呂蒙りょもうらに劇県(統治が困難な県のこと。山越の要地に当たる県を指す)の令長を担当させ、山越を討たせて全て平定した。


 周泰はここまで書いてこなかったため書くことにする。字は幼平といい、孫策が江東侵攻を行っている際に蒋欽しゅうきんと共に孫策に仕えた。


 孫権は周泰を見て、大いに気に入り孫策から自分の配下に貰い受けた。


 かつて孫策が六県の山越征伐に赴き、孫権が丹陽の宣城に住んでいる際、以前、孫策は江東を平定すると袁胤を逐った。袁術は孫策を深く怨み、陰かに間者を遣って印綬を丹陽の宗帥である陵陽の祖郎らに与え、山越を煽動して大いに手勢を合せ、共に孫策勢力を攻囲させた。兵士が少なく油断しきっていたところを山越の反乱軍に急に襲われて孫権は命の危険にさらされることになった。


 このとき周泰は勇気を持って味方を鼓舞し、全身に十二箇所の傷を負いながらも、身を挺して孫権を護りきった。負傷してしばらく体が動かせなくなったものの、動けるようになると孫策から感謝され、回復後に春穀の県長に任命されるなど、孫策からも孫権からも信頼された人物である。


 孫権がそのようにしている中、建安、漢興、南平の民が乱を為し、それぞれ一万余人の衆を集めた。


 孫権は南部都尉・賀斉がさいに兵を進めて討伐させることにした。


 賀斉、字は公苗という。


 かつて孫策が王朗おうろうを追放し会稽郡を治めるようになると、賀斉は孫策から孝廉に推挙されたことから孫策に仕えた。王朗軍の残党の商升しょうしょうが孫策に反旗を翻した際、孫策は永寧県長であった韓晏かんあんという人物を南部都尉に任命し討伐にあたらせ、その後任として賀斉を県長に任命した。


 後に韓晏が商升に敗北すると、孫策は賀斉を南部都尉に任命した。すると商升が賀斉の声望に恐れをなし、盟約を結ぶことを申し出てきた。実は賀斉は非常に派手好きな事で有名であった。常に上質で豪華な武具を着飾って戦に赴くように努めており、自身だけではなく配下の軍装も豪奢に飾りつけ、遠目に見るだけで彼の軍と分かるほどであった。それでありながら戦は堅実でありながら柔軟で強かった。


 兵装の良さを見た商升はとても勝つことはできないと思ったのである。


 賀斉は彼からの申し入れにより、手紙を送り降参を勧めた。商升が降伏するつもりであったが、内紛が起こったため殺害されてしまい、主戦派が主導権を握ることになった。しかし賀斉は兵士が少ないことを理由に、討伐をせず様子を見ることにした。


 まもなく、主戦派の内部でも対立が生じたため、賀斉は山越を唆し、対立を内部抗争にまで発展させた。反乱軍の力が弱まったところを見定めた賀斉は軍を動かし、一度の戦いでこれを破り降参させていったという。


 さて、話を戻す。


 賀斉は命令を受けると建安、漢興、南平これらを全て平定し、再び県邑を建てて兵一万人を選出していった。


 孫権は賀斉を平東校尉に任命した。


 この賀斉という人物は知名度こそ低いが、対山越など江東の地で起きる叛乱をことごとく鎮圧していくなど、江東統治における武力の担い手として孫権を支えることになる人物で、とても重要な人物の一人である。










次回は曹操と袁氏の戦い。

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