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三国志  作者: 大田牛二
第四章 天下の命運
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李典

 この頃、曹操そうそうは書を下して孫権そんけんに任子を要求していた。


「任子」とは子弟を朝廷に送って仕官させることであるが、実際は人質のことである。


 孫権が群僚を集めて会議した。しかし張昭ちょうしょう秦松しんしょうらは躊躇して決断できなかった。献帝けんていを擁立している曹操に対して、漢王朝の勤王を表明するならば送るべきであるが、送れば次の要求は更に困難なものを送ってくる可能性がある。


 そこで孫権は周瑜しゅうゆを招き、呉夫人(孫権の母)の前で決議させた。周瑜が言った。


「昔、楚が周から初封された時は百里の地に満ちませんでした。しかし後継者が賢能であったため、土地を拡げて境を開き、ついに荊・揚を占拠し、代々業を伝えて福を延ばし、九百余年に及びました。今、将軍は父兄の遺産を継承し、六郡(会稽、呉、丹陽、豫章、廬陵、廬江を指す)の衆を兼ね、兵は精鋭で食糧も多く、将士は命に従って尽力し、鋳山(山を採掘すること)して銅と為し、海を煮て塩と為し、境内は富裕で、人心が安定しています。何に逼迫されて人質を送ろうとするのでしょうか。質が一度入れてしまえば、曹氏との関係を密接にしなければならず、互いに密接になったら、命によって召された時、行かないわけにはいかず、こうして人に制されることになります。その時に得られるのは多くても一侯印、僕従十余人、車数乗、馬数匹に過ぎません。どうして南面して孤(王侯の自称)と称すのと同じでいられるでしょうか。人質を派遣せず、ゆっくり変化を観た方がいいでしょう。もし曹氏が義を行うことで天下を正せるのならば、それを見極めてから将軍が仕えても晚くはありません。もし曹操が暴乱を為そうと図れば、彼は自ら亡んで余裕がなくなります。どうして人を害すことができましょうか」


 これに呉夫人が言った。


「公瑾(周瑜の字)の議が正論です。公瑾と伯符(孫策の字)は同年で、一月小さいだけなので、私は自分の子のように視ています。権は兄事しなさい」


 この年、孫権の母・呉夫人は世を去ったことを思えば、これが遺言となったと言えるかもしれない。


 孫権はこの議により、曹操へ人質を送らなかった。













 劉表りゅうひょう劉備りゅうびに北侵させた。劉備は葉に至った。


 曹操は夏侯惇かこうとん于禁うきんらを送って劉備を防ぐことにした。


 両軍が対峙してから久しくして、劉備は伏兵を設けてからある朝、営を焼いて遁走するふりをした。夏侯惇らはこれを追撃した。


 裨将軍・李典りてんがこれを止めた。彼は字を曼成という。曹操の諸将の中では新参というべき人である。元々彼が率いている兵は伯父である李乾りけんのものであった。


 李乾は曹操の挙兵から参加した人物であったが、兗州での張邈の叛乱の中、曹操支持を訴え続けたため薛蘭と李封に殺されてしまった。彼の子の李整りせいが兵を受け継ぎ、薛蘭と李封を殺し仇討ちをした後、兗州の功績により青州刺史となったが、間もなく亡くなったため、李典が兵を受け継ぐことになった。


 李典は若いころ学問を好み、軍事は好きではなかったという。ある先生の元で、『春秋左氏伝』をはじめ多くの書物に親しんだ。曹操はそれを好ましく思い、試しに人民を統治する職につけた。このことから元々彼は文官としての登用であったが、一族の兵を率いることになったため武官になることになった。


 官渡の戦いでは、李典は一族と部下を引き連れ、食料や絹などを曹操軍に輸送し供給し続けるなど物資の確保に尽力した。袁紹が敗れるとこの功績により裨将軍に任命され、東平国の安民に駐屯した。


 曹操が黎陽の袁譚えんたん袁尚えんしょうを攻撃した際、李典は程昱ていいくとともに船で兵糧を輸送を行っており、袁尚は魏郡太守の高蕃こうはんに命じて水路を遮断させた。


 曹操はあらかじめ、


「船が通れないならば、陸路を行くように」


 と命じていたが、李典は、


「高蕃の軍は鎧をつけた兵が少なく、水に頼りきって油断をしているため攻撃すれば必ず勝てます。軍は朝廷に統御されず、国家の利益になるならば、専断は許されるでしょう。速やかに攻撃すべきです」


 と主張した。程昱はこれに同意し、共に高蕃へ急襲をかけて打ち破り、水路を回復させた。


 このように武将としても功績を挙げていたが、夏侯惇からは新参であるという目で見られていた。そのため、


「賊は理由もないのに退きました。埋伏があるはずです。南道は窄狭で草木が深いため、追ってはなりません」


 と、意見を述べたにも関わらず、夏侯惇らは諫言を聞かず、李典に留守をさせて劉備の後を追った。


 果たして夏侯惇らは劉備の伏兵により、大敗した。だが、李典が助けに来るのを見ると劉備は退いた。


 勝利したにも関わらず、劉備の表情は優れなかった。


「曹操は来なかった……」


 曹操と戦わなければいけない。劉備はそう考えていた。彼は自分が曹操と相対することで己が存在できていることをしっかりと理解していたと言えるかもしれない。


 しかしながら曹操からすれば劉備は目障りではあっても北の袁氏との戦いも抱えており、彼ばかりに関わってはいられない。それに所詮、劉備の勢力は小勢力である。自分がわざわざ戦う必要は無いのである。


 劉備には曹操が警戒するほどの勢力も理想も信念も感じてはいない。はっきり言えば、曹操からすれば同じ土俵にはいないのである。


 しかし劉備は彼こそが自分よりも格上、対等な存在である。彼と戦うことこそが自分が自分らしく、なりたい自分になるには彼と戦わなければならない。


「どうすれば彼と戦うことができるのであろうか」


 簡単に言ってしまえば、曹操が驚異に思えるほどの存在となれば良いのである。しかし劉備にはその方法が思いつかなかった。


「だからこそ、あの男には地に伏す竜が必要なのだろう」


 黄色い服の男はそう呟く。


「例え、それで失うものが多くあったとしてもな」










 


次回は袁氏の兄弟喧嘩。

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