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三国志  作者: 大田牛二
第四章 天下の命運
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河東戦線

 袁紹えんしょう曹操そうそうに敗れてから各地で小規模ではあるが叛乱が起き、それを鎮圧する中、憤懣し、発病して血を吐くようになった。その結果、五月、袁紹は死んだ


 袁紹には三人の子がいる。袁譚えんたん袁熙えんき袁尚えんしょうの三人である。


 袁紹の後妻・劉氏は少子・袁尚を愛しており、しばしば袁紹の前で称賛するなど後継ぎにするように工作しており、袁紹も袁尚のことをとても可愛がっていたこともあり、袁紹は袁尚を後継者にしようと欲した。


 だが、まだ明言はせず、袁譚に兄(袁紹の兄。袁譚の伯父)の後を継がせることにし、また、袁譚を外に出して青州刺史に任命した。


 実のところこの兄の後を継がせたというものの、兄とは誰を指しているのかは不明である。少なくとも二人の兄が袁紹にはいるはずである。


 これに沮授が諫めていた。


「世の人々はこう称しています。『万人が兔を逐い、一人がそれを獲れば、貪欲な者も全て止まる。分け前が決まったからである』譚は長子ですので、後継者になるべきです。それなのに排斥して外に住ませたら、禍がここから始まるでしょう」


 分配が明確ならば、争いは起きないが、明確でないうちは争いが起きるという意味の故事を引用して諌めた言葉に対して袁紹は言った。


「私は諸子それぞれを一州に拠らせ、その能力を視ようと欲しているのだ」


 こうして中子・袁熙が幽州刺史に、外甥(袁紹の姉妹の子)・高幹こうかんが并州刺史に任命された。


 袁紹の側近というべき逢紀ほうき審配しんぱいは以前から袁譚に嫌われており、同じ側近の辛評しんひょう郭図かくとは袁譚に附いていたため、審配、逢紀との間に対立が生まれいた。


 袁紹が死ぬと、衆人は袁譚が年長なので擁立しようと欲した。曹操という強敵を抱えている以上は年少の者を長にしたくないというのと袁紹が後継者を明言せずに死んだということも理由である。


 しかし審配らは袁譚が立ってから辛評らに害されることを恐れ、袁紹の遺命と偽って袁尚を後嗣にしてしまった。


 袁譚は青州から帰還しても袁紹の後を継げなかったため、自ら車騎将軍を称して黎陽に駐屯した。袁紹が挙兵した時、車騎将軍を自称したため、袁譚もそれに倣うことで後継者足るにふさわしいのは自分であるという意思を示したのである。


 袁尚は袁譚に少数の兵を与え、逢紀を送って袁譚に従わせ、彼の怒りを解こうとした。


 袁譚が兵を増やすように要求したが、審配らは議論の結果、兵を与えなかった。これに怒った袁譚は逢紀を殺した。


 逢紀は以前、審配のことを助けた恩人にも関わらず、これでは死に追いやったようなものである。審配は恩を仇で返したと言われても仕方ない。


 九月、袁紹の死を知った曹操は渡河して袁譚を攻めた。袁譚は袁尚に急を告げた。


 袁尚は審配を留めて鄴を守らせ、自ら兵を率いて袁譚を助け、共に曹操を防ごうとした。だが、袁譚と袁尚は連戦してしばしば敗れたため、退いて守りを固めた。


 袁尚は自分が任命した河東太守・郭援かくえんを派遣し、高幹や匈奴南単于・呼廚泉こきゅうせんと共に河東を攻撃させることにした。また、関中諸将・馬騰ばとうらに使者を送って同盟するように誘った。馬騰らは秘かに同意した。


 ここまでの外交力を発揮したのは誰であろうか。袁尚が主導的にやったというのであれば、確かに彼は袁紹が愛するだけの才覚があったのかもしれない。


 郭援が通った城邑は全て下っていく中、河東の郡吏・賈逵かきが絳を守っていた。賈逵は字を梁道といい、名家の生まれであるが、両親が幼い頃に亡くなってしまったため幼い頃から貧乏暮らしを余儀なくされた。それでも彼は学問に打ち込み努力を怠らなかったため、彼の祖父はこう言った。


「大人になれば将軍になれるだろう」


 そんな彼が守る絳を郭援は激しく攻撃した。


 城が落ちようとした時、父老が郭援と交渉を始めた。そこまで珍しい光景では無い。中国では土地事に父老という地元の顔役がおり、彼らの信用を得ることが政治を行うことにも大事なぐらいに彼らの協力は統治においては大事である。


 父老たちは賈逵を害さないならば、投降すると約束した。基本的に父老というものは住んでいる土地のことを第一に考えるものであるが、ここで賈逵の命の保証を条件に据えたことから彼の政治が彼らの信用を得るだけのものであることがわかる。


 郭援はこれに同意した。


 これにより絳は降伏した。郭援は賈逵を自分の将にしようと欲し、武器で脅した。しかし賈逵は同意しようとしなかった。


 左右の者が賈逵を引きつれて叩頭させようとすると、賈逵が叱咤した。


「国家の長吏で賊のために叩頭する者がいるか」


 少し面白い言葉である。なぜならば、賈逵は郡吏であって長吏(県の高官)ではないのである。しかし絳県を守っていたため、自分を県の長吏といったのであろう。


 郭援は怒って賈逵を斬ろうとした。しかしある者が賈逵の上に伏せて助けようとした。絳の吏民も賈逵が殺されると聞くと皆、城壁に登って、


「約束に背いて我々の賢君を殺すのならば、我々も共に死ぬだけであるぞ」


 と叫んだ。この声は大地を揺らした。


 これに驚いた郭援は賈逵を殺すのをやめたが、壺関で幽囚して土窖(穀物等を貯蔵する地下倉庫)の中に入れ、車輪で蓋をした。


 賈逵が守衛に言った。


「この辺には壮士がいないのか。義士をこの中で死なせるのか」


 ちょうど祝公道しゅくこうどうという者がおり、ちょうどこの言葉を聞いた。


 祝公道は夜になってから土窖に行って秘かに賈逵を連れ出し、刑具を外して去らせた。祝公道は姓名を語らなかった。それでも名は残っているのが歴史の不思議さである。


 曹操は河東の状況の司隸校尉・鍾繇しょうように命じて平陽にいる呼廚泉を包囲させた。


 鐘繇が平陽を攻略する前に、南単于の援軍としてこちらに向かっていた馬騰が到着した。


 鐘繇は新豊令・張既ちょうきを送り、馬騰に利害を語って説得させることにした。


 彼は字は徳容といい、容姿と動作が優れ、文章作成が上手であったと評判であった。そんな彼を郡の功曹であった游殷ゆういんは、まだ十代の張既を評価し方官の器だと評した。また家に招いて賓客として待遇し、宴席が終わると子の游楚ゆうその将来を頼んだという人物である。


 馬騰が躊躇して決断できなかったため、傅幹ふかんが馬騰に説いた。


「古人にはこのような言葉があります。『徳に順じる者は栄え、徳に逆らう者は亡びる(新城の三老・董公が劉邦に語った言葉)』曹公は天子を奉じて暴乱を誅し、法が明らかで政が治まっており、上下が命に従って尽力していたので、徳に順じていると言えます。袁氏はその強大な力に恃み、王命を背棄し、匈奴を馳せさせて中国を虐げていますので、徳に逆らっていると言えます。今、将軍は既に徳がある者に仕えながら、秘かに両端(どちらにも附かない態度)を抱き、坐して成敗を観ようと欲しています。私は成敗が既に定まってから、曹操が辞(皇帝の命)を奉じて罪を責め、将軍が真っ先に誅首(誅殺されるべき悪人)となることを恐れます」


 馬騰は懼れを抱くと続けて傅幹は言った。


「智者とは禍を転じて福と為すものです。今、曹公は袁氏と対峙しており、高幹や郭援が共に河東を攻めています。たとえ曹公に万全の計があったとしても、河東の危機を無くすことは難しいでしょう。将軍が誠に兵を率いて郭援を討てるならば、河東の兵が内から撃って馬騰の兵が外から撃ちます。これならば必ず勝つことができましょう。これは将軍の一挙によって袁氏の腕を断ち、一方の危急を解くことになりますので、曹公は必ず将軍を重く感謝し、将軍の功名は並ぶ者が無くなりましょう」


 馬騰は進言に従って子の馬超ばちょうを派遣し、兵一万余人を率いて鐘繇に合流させた。


 諸将は郭援の兵が盛んだったため、平陽の包囲を解いて去ろうとした。


 しかし鍾繇はこう言った。


「袁氏はまさに強盛であり、郭援が来たことによって馬騰らが秘かに袁氏と通じた。まだ全てが叛していないのは、私の威名を顧慮しているからである。それなのにもしも平陽を棄てて去ってしまったら、劣勢であることを示すことになりますので、各地の民は誰もが寇讎と化してしまうでしょう。たとえ我々が帰ろうと欲しても、司隸の治所に到達することができるだろうか。これは戦う前に自ら敗れることである。そもそも、郭援は頑固で勝ちを好み、必ず我が軍を軽視している。もし汾水を渡って営を構えようとすれば、渡り終る前に撃てば大勝できる」


 果たして郭援は直接進軍して汾水を渡ろうとした。


「止めた方が良いと思うなあ」


 匈奴からの援軍である劉豹りゅうひょうが郭援にそう進言したが、郭援は止めても従わなかった。


「貴様らの長をみすみす死なせようというのか軟弱なことよ」


 郭援はそう言って見下したまま川を渡り始めた。渡り始めてから半分に及ばない時、鐘繇は一斉、攻撃をもってこれを大破した。


「あーあ、こうなった」


 劉豹は呆れるように呟きながら撤退していった。


「まあ興味の無い戦いだったし良いさ」


 戦が終わってから、衆人が皆、


「郭援は死んだがその首は得られなかった」


 と言った。実は、郭援は鐘繇の甥に当たる人物である。


 晚になってから、馬超の校尉・龐徳ほうとくが鞬(弓矢を入れる袋)の中から一つの頭を出した。鐘繇はそれを見て哀哭した。


「申し訳無い」


 龐徳が鐘繇に謝ると、鐘繇はこう言った。


「郭援は確かに私の甥だが、国賊である。あなたがなぜ謝る必要があるのか」


 この後、南単于も鐘繇に投降した。


次回は劉備と孫権ともしかしたら曹操サイドも書くかな?

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