李術
曹操と袁紹が戦っている中、廬江太守・李術が揚州刺史・厳象を攻めて殺した。
一方が前年、孫策が太守に任命した廬江太守でもう一方が曹操が任命していた揚州刺史である。つまり李術の行動が孫策の意思によるものであるならば、孫策は曹操と好を結んでいたにも関わらず、反旗を翻したということになるが、その辺の意思に関しては記述は無い。
ともかく李術はその後、廬江の人・梅乾、雷緒、陳蘭らを煽り、江淮間でそれぞれ数万の衆を集めさせた。
この動きは袁紹と対峙している曹操にとっては後方を乱されることになる。そこで彼は上表して沛国の人・劉馥を揚州刺史に任命した。
劉馥は戦乱を避け揚州に避難していたが、建安年間の初めに、袁術の部将である戚寄・秦翊を説き伏せ、軍勢を率いて共に曹操に帰順した人物である。この時、曹操は大いに喜び、劉馥を司徒掾としたが、ほぼ無名というべき人物であった。
更に当時、揚州には九江郡しか残っておらず、劉馥のために兵を割くこともできなかった。そのため陽州刺史として職務を果たすことは困難であると言えた。それにも関わらず、曹操はこれを行えるのは彼だけであるとし、彼を送った。
劉馥は単馬で合肥の空城に向かい、治所を建立した。
兵のいない劉馥は梅乾、雷緒らを招いて懐柔していった。ここで彼らに貢献させ、数年の間で恩化が大いに行き届かせ、帰順した流民は万を数えさせてることになるのだから彼の手腕の凄まじさがわかる。
更に広く屯田を行い、溜池や灌漑らを行って水利を整えていった。一種の堤防を作ったのだろう。
そのおかげで官民に蓄えができ、諸生(儒者、学生)が集まり、学校を建てた。余裕ができた分で、城塁を高くし、多くの木石を積み、戦守の備えを整えた。
これによって難攻不落の名城・合肥城が出来上がるのである。これに孫権は大いに苦しむことになる。
袁紹に勝利した時になって曹操は孫策の死を聞いた。李術の行動もあったため、彼は孫策の喪に乗じて討伐しようと欲した。
孫権がまだ人心を掌握していない段階でここで曹操の討伐を受けていた場合、歴史は大きく変わったかもしれない。但しそのような戦力は今の曹操にはなかったはずであるため数年後の話ではあろうと思われる。
それを変えたのは侍御史・張紘である。彼は以前、孫策からの使者として許都に向かってから曹操と孫策の外交のため留まっていた。彼は曹操を諫めた。
「人の喪に乗じるのは、既に古義ではありません。そのうえもしも克てなければ、讎を成して友好を棄てることになります。逆にこれを機に厚く遇した方がいいでしょう」
曹操は上表して孫権を討虜将軍に任命し、会稽太守を兼任させることにした。
孫権は会稽太守になりましたが、呉に駐屯し、顧雍を丞に任命して会稽郡に送って文書の事を代行させた。
顧雍は字を元歎といい。若い頃、蔡邕が呉郡に来た際、その下で琴と学問の伝授を受けた。心を集中させ乱されることがなく、頭の回転が速かったため、蔡邕にその非凡さを気に入られ、将来大成するだろうとの評価を受けたという人物である。
後に呉の名臣にして丞相にまでなる男である。
曹操は張紘に孫権を輔佐させて孫権の内附(朝廷に帰順すること)を促そうとした。そこで張紘を会稽東部都尉に任命した。
張紘が呉に到ると、太夫人(呉夫人。孫権の母)は孫権がまだ若かったため、張紘と張昭が共同して孫権を輔佐するように委ねた。
孫権は張紘を会稽郡に派遣した。
張紘が曹操の任命を受けていたため、その意志はこの地に留まらないと嫌疑する者もいたが、孫権は意に介さなかった。彼の誠実さを知っているためである。
太夫人が揚武都尉・董襲を招いた。彼は身の丈が八尺もあり、並外れた武力の持ち主で、孫策が会稽に来たとき、高遷亭で出迎えられた際、孫策から立派さを認められ、役所に入ったとき門下賊曹に任命された。
山陰において、一千人余の徒党を率いていた賊の頭目の黄龍羅と周勃(呉の名将の一人である周勃とは別人)の討伐に孫策が向かうとその戦いで董襲は二人の首を自分の手で斬るという功績を上げた。
凱旋後に別部司馬に任ぜられ、数千の兵を与えられた。後に揚武校尉となり、孫策の下で皖城攻撃に参加、さらに劉勲討伐や黄祖征伐に従軍するなど、武将として孫策に信頼されていた人物である。
そんな彼の彼女は問うた。
「江東は保つことができるでしょうか?」
董襲は胸を張りながら答えた。
「江東には山川の固があり、しかも孫策様の恩徳が民にあって孫権様が継承されました。大小の官員が命に従って尽力し、張昭が衆事を掌握し、私らが爪牙となっています。これは地の利・人の和がそろっている時ですので、万に一つも憂いることはありません」
こんな中、魯粛は北に還ろうとした。孫策にあまり用いられなかったことから孫策に対してあまり良い評価を持っていなかったためさっさと去ろうとしたというのがあるが、孫策が死んだことを受けて北へ還ろうとするということはある程度の義理をもっていたということもわかる。
そんな彼の才能を知っている周瑜は魯粛を止め、これを機に魯粛を孫権に勧めてこう言った。
「魯粛の才は当世の主を輔佐するのに相応しく、このような者を広く求めて功業を為すべきです」
周瑜を信頼している孫権はすぐ魯粛に会って談論し、満足して悦び、他の賓客が退いてからも魯粛だけを残し、榻(「榻」は本来は寝床のことだが、ここでは食事をする机のことだと思われる)を合わせて向かい合って酒を飲んだ。
孫権が問うた。
「今、漢室が傾いて危うくなっており、私は桓・文(斉の桓公・晋の文公)の功を建てたいと思っている。君はどのようにして輔佐するつもりだろうか?」
すると魯粛はこう答えた。
「昔、高帝が義帝を尊んで仕えようと欲したのにそうできなかったのは、項羽が害したからです。今の曹操は昔の項羽のようなものです。将軍がどうして桓・文になれましょうか。私が心中で量るに、漢室は復興することができず、曹操もすぐに除くことはできません。将軍のために計るならば、ただ江東を保守して天下の争乱を観るだけです。もし曹操の多務に乗じて黄祖を廃除し、進んで劉表を伐ち、長江流域を全て占拠して領有すれば、これが王業となります」
ここまではっきりと漢王朝は滅びると断言するだけでなく、長江流域を支配して、北の曹操に当たるべしと天下の構想を彼は語った。彼の才覚の凄まじさがここに見れると言えるだろう。
これに対して孫権は、
「今、一地方で尽力しているのは、漢を輔佐することを望んでいるだけだ。この言は及ぶところではない」
と述べた。これは半分は本音であるが、もう半分は彼の言葉に孫権は会心し、彼の才覚を認めた。
一方、張昭は魯粛がまだ若くて粗疏(粗略。注意深くないこと)だとみなして批判した。少なくとも張昭はまだ漢王朝が完全に滅亡するとは考えてはいなかったというのもある。
しかし孫権はますます魯粛を貴重し、儲偫(貯蓄。財物)を賞賜した。そのおかげで魯粛は以前のように豊かになることができたという。
孫権は諸小将を調べ、兵が少なくて用薄の者(「用薄の者」とは「費用・経費が少ない者」または「用いることが少ない者。能力がない者」)を選んで合併することにした。
そんな中、別部司馬・呂蒙の軍容が鮮整(鮮明整然)としており、士卒が熟練していたため、孫権は大いに悦んで兵を増やし、呂蒙を寵任するようになった。
呂蒙は字を子明という。彼が世に出てきたのは彼の姉の夫である鄧当が孫策の部将として山越討伐に従事しており、彼は十五歳のときに、賊の討伐に出向いた鄧当の軍にこっそりついて行った。鄧当は呂蒙の存在に気付き叱ったが、呂蒙は家に戻ろうとはせず、討伐に従った。
鄧当は家に帰ると呂蒙の母親にそのことを知らせた。呂蒙の母親は激怒したが、呂蒙は貧しさから抜け出すためには、危険を冒して功績を立てねばならないと反論した。すると呂蒙の母親は呂蒙の心を哀れみ、それ以上何も言わなかった。
後、鄧当に仕えていた役人で年の若い呂蒙を馬鹿にする者がいた。呂蒙は怒ってその役人を斬り殺し、同郷の者を頼って逃亡したが、後に校尉の袁雄を頼って自首してきた。この事件が孫策の耳に入り、孫策は呂蒙に面会を求め、その非凡さを見抜き、側近に取り立てた。
数年後に鄧当が死去すると、張昭の推薦で、呂蒙が鄧当の任務を引き継ぎ、別部司馬に任じられてその軍を率いることになっていた。
因みに孫権が彼の軍を見て、評価したが実は呂蒙が孫権が視察に来ることを事前に知っており、それに合わせて部下たちに赤い服を着させて閲兵式を行ったことで孫権の注目を浴びるようにしていたのである。
この頃の彼は貧乏故に鬱屈とした感情があり、出世したいという強すぎる思いが前かがみになってしまっているところがあった。
功曹・駱統が孫権にこのような進言を行った。賢人を尊重して士人と接し、勤めて損益(自分の得失に関わる意見)を求めること、饗賜(酒宴・賞賜)の日は個別に接見して燥湿(住居の状況)を問い、親密な情意を加えることで、発言を誘ってその志趣(意向)を察すること等である。
孫権は全て採用した。因みに駱統は駱俊の子である。
廬陵太守・孫輔は孫権が江東を保てないのではないかと恐れ、秘かに人に書を持たせて派遣し、曹操を招こうとした。
しかし行人(派遣された者)は孫権が曹操との関係を維持するために自分が派遣されたと勘違いしておりこのことを報告した。孫権は全くと言って知らないことであったが、表情に出さずに労った後、張昭を連れて孫輔の元へ向かった。そこでこの件について問いただすと孫輔がとぼけたため孫権は激怒し、彼の親近の者を全て斬ってその部曲を分け、孫輔を遷して呉の東部に置いた。
彼は数年後に亡くなるが彼の子は用いられている。恩情というべきである。
さて、孫権が人事を一新していく中、曹操との関係をぶち壊しにするような行動を取った李術への対応に移った。李術は孫権に仕えようとせず、多数の亡叛(逃亡離反)した者を受け入れていた。
孫権はできる限り穏便に済まそうと、李術の元へ書を送って亡叛した者を求めたが、李術はこう答えた。
「徳があれば帰順され、徳がなければ背叛される。返還には応じない」
孫権は激怒してこの状況を曹操に報告した。
「厳刺史(厳象)は昔、公(曹操)によって用いられ、また、州の挙将でもありましたが(「挙将」は「挙主」ともいい、人材を推挙した者。孫権はかつて州刺史によって茂才に挙げられました。この刺史が厳象であった)、李術が凶悪で、漢制を軽んじて侵しており、刺史・厳象を殺害してその無道をほしいままにしています。速やかに誅滅して、醜類を懲らしめるべきです。今これを討とうと欲するのは、進めば国朝のために巨悪を掃除し、退いても挙将のために恩讎に報いることになるため、これは天下の達義(公然の道理)であって朝から夜まで心底から願うことです。しかし李術は必ず誅を懼れ、また詭弁によって救援を求めましょう。明公は阿衡(伊尹。重臣)の任におり、海内に嘱望されています。征伐の事を実行するように勅令して、再び李術の言を聴き入れないことを願います」
孫権はこれを機に兵を挙げて皖城で李術を攻撃した。
李術は門を閉じて守りを堅め、曹操に救援を求めたが、曹操は援軍を出さなかった。曹操としても孫権とわざわざ事を構えたくはなく、李術の動きに孫権による意思でなく、李術が孫権と対立する分にはこちらにちょっかいをかけないという部分においてもありがたいのである。
李術の防衛戦は壮絶を極め、糧食が欠乏し尽くし、婦女は泥を丸めて呑みこむ者もいたという。しかしながらその果てに孫権は皖城を皆殺しにし、李術の首を斬って晒した。李術の部曲三万余人が孫権の支配下に移された。
『蒼天航路』での劉馥の話はめっちゃ好きです。
次回は色んなところの話。