戦後の袁氏の配下
新元号になりましたね。『万葉集』からの出典でびっくりしました。
官渡の戦いの後、曹操は朝廷に上書した。
「大将軍・鄴侯・袁紹は以前、冀州牧・韓馥と共に故大司馬・劉虞を立て、金璽を彫刻し、任県長・畢瑜を派遣して劉虞を訪ねさせ、命運を説きました。また、袁紹は私に書を送ってこう言いました。『鄄城は都にできる。今の天子の他に擁立されるべき者がいるはずだ』と、袁紹は勝手に金銀の印を鋳造し、孝廉・計吏(地方の状況を朝廷に報告する官吏)は皆、袁紹を訪ねに行きました。従弟の済陰太守・袁敘は袁紹に書を送ってこう言いました。『今、海内が崩壊し、天意は実に我が家にあります。神応(神霊の感応)には徵があり、それは尊兄にあるはずです。袁術の臣下(恐らく袁敘自身を指す)が袁術を即位させようと欲しましたが、袁術は『年においては袁紹が長じており、位においては北兄が重い』と言い、璽を袁紹に送ろうとしました。しかしちょうど曹操に道を断たれました』袁紹の宗族は代々国の重恩を受けてきたにも関わらず、凶逆無道がこれほどまでになりました。そこですぐに兵馬を整えて官渡で戦ったところ、聖朝の威に乗じて袁紹の大将・淳于瓊ら八人の首を斬ることができ、ついに袁紹軍が大破潰滅して、袁紹と子の袁譚は軽身で逃走しました。斬首は合わせて七万余級、獲得した輜重・財物は巨億に上ります」
沮授は渡河して逃走した袁紹に追いつけず、曹操軍に捕えられた。その際、沮授は大声で叫んだ。
「私は降ったのではない。捕えられたのだ」
曹操は沮授との間に旧交があったため、自ら迎え入れてこう言った。
「それぞれのいる場所が異なったことで、離れたところにいることになったが、図らずも、今日、捕えることになってしまった」
沮授は言った。
「袁紹が失策して自ら敗走を招くことになった。私は知も力も共に窮したので、捕えられて当然だ」
「本初(袁紹の字)は謀がなく、あなたの計を用いなかった。今、天下は喪乱してまだ定まっていない。まさに君と共にこれを図るつもりだ」
沮授は首を振った。
「叔父も弟らの命は袁氏に懸かっている。もし公の威霊を蒙れるのならば、速く死ぬことが福となる」
曹操が嘆いて言った。
「私があなたを早く得ていれば、天下は憂慮するに足らなかった」
諦めきれない曹操は沮授を釈放して厚遇したが、暫くして沮授が袁氏の下に逃げ帰ろうと謀ったため、殺害することになった。沮授の才能は袁紹陣営の中において屈指のものであった。惜しいことであった。
曹操が袁紹の書を回収した。その中から許下の者および曹操の軍中の者が出した書を得たが、全て焼き捨ててこう言った。
「袁紹が強盛だった時、私でも自分を保つことができなかった。衆人ならなおさらである」
かつて光武帝も同じ処置をしたことを真似た行為であることは曹操が歴史の教訓を活かせる人であることからわかる。
胡三省はこう述べている。
「英雄が事を処置する様子は、たとえ時代が離れていても一致するものである」
歴史からの教訓を活かす行為であっても英雄の行為とはこのようなのである。
冀州諸郡の多くが城邑を挙げて曹操に降っていった。
袁紹は逃走して黎陽北岸に至り、将軍・蒋義渠の営に入った。
袁紹が蒋義渠の手を握って言った。
「私はこの首を委ねよう」
蒋義渠は自分の帳から離れて袁紹に譲り、そこから号令を宣布させた。袁紹がいると聞いた衆人がまた徐々に帰服した。
田豊は袁紹の出兵に反対したため、捕えられていた。ある人が田豊に言った。
「あなたは必ず重んじられることでしょう」
袁紹が彼の出兵に反対して敗北したのである。袁紹は反省して彼を用いるだろうということである。しかし田豊は首を振った。
「公は外貌は寛大であるが、内心は嫉妬深く、私の忠心を明白にできなかった。しかも私はしばしば直言によって逆らってきた。もしも勝って喜べば、まだ私を救うことができただろう。しかし今は戦に敗れて憤懣しているため、内忌(内心の嫉妬や猜疑)が発することになる。私に生きる望みはない」
その頃、袁紹の軍士が皆、胸を叩いて泣きながら言った。
「もしも田豊がここにいれば、間違いなく失敗に到ることはなかっただろう」
袁紹が逢紀に言った。
「冀州の諸人は我が軍が敗れたと聞き、皆、私のことを念じている。ただ田別駕だけは以前、私を諫止して皆と同じではなかった。私もこれを慚愧している」
逢紀はそれに対してこう言った。
「田豊は将軍が退いたと聞いて、手を叩いて大笑し、その言が的中したと喜んでいます」
激怒した袁紹は僚属に、
「私は田豊の言を用いなかったため、果たして笑われることになってしまった」
と言い、田豊を殺した。
以前、曹操は田豊が従軍していないと聞くと喜んで、
「袁紹は必ず敗れる」
と言い、袁紹が遁走すると、曹操はまたこう言った。
「もしも袁紹に田豊の計を用いさせていれば、どうなっていたか分からない」
前者は違和感を感じるが後者の言葉は曹操がぎりぎりの戦いをしていたことを表していると言える。
審配の二人の子が曹操に捕えられた。
袁紹の将・孟岱が袁紹に言った。
「審配は高位にいて専政しており、その族は大きく兵も強く、しかも二子が南にいるため、必ずや反計を抱いています」
郭図と辛評もこの考えに賛成した。
そこで袁紹は孟岱を監軍に任命し、審配に代わって鄴を守らせることにした。
護軍・逢紀は以前から審配と和していなかったが、袁紹が意見を求めると逢紀はこう言った。
「審配は天性の烈直で、いつも古人の節を慕っています。二子が南にいるからといって不義を為すことはありません。公が疑わないことを願います」
袁紹は逢紀が審配と対立していることを知っているため、
「汝は彼を嫌っているのではないのか?」
と言った。逢紀はこう答えた。
「以前彼と争ったのは私情によるものです。今述べているのは国事です」
袁紹は納得して審配を廃さなかった。
この後、審配は逢紀と親しくなった。美談に見えるが胡三省はこう皮肉っている。
「逢紀は審配のために進言できたが、田豊の死を救おうとしなかった。果たして国事のためだろうか?」
次回は孫権サイドの話。