李通
曹操が袁紹と官渡で対峙している時、袁紹は曹操の後方を脅かすための策を行った。
汝南の黄巾・劉辟らが曹操に叛して袁紹に応じた。
袁紹は劉備が自ら打ち込んだため彼を派遣し、劉辟を助けさせ、許都の近くを侵略させ、郡県の多くをこれに呼応させていった。
それにより劉備は汝・潁一帯を攻略していった。
許以南の吏民が不安になり、曹操がこれを患った。すると曹仁が曹操に言った。
「汝・潁一帯は大軍(曹操の本軍)に目前の急があるので救うことができない形勢だと思っています。そこに劉備が強兵で臨んだため、彼らの背叛は当然のことです。しかし劉備は新たに袁紹の兵を指揮したばかりで、まだうまく使うことができないので、これを撃てば破ることができます」
曹操はその通りだと曹仁を派遣し、騎兵を指揮して劉備を撃たせた。
劉備は破れて逃走した。
曹仁はその勢いのまま劉辟の屯(営)を破り、背反した諸県を全て再び帰順させて還った。
劉備が帰還して袁紹の営に到った。しかし心中で袁紹から離れることを欲した。なにせ自分たちの元には顔良を殺した関羽が戻ってきていたのである。
そこで袁紹を説得して南の劉表と連合するように勧めた。
曹操の後方を乱したい袁紹は劉備を派遣し、劉備自身の兵を率いさせて、再び汝南に到らせた。
劉備はそこで賊(朝廷に従わない勢力)の龔都らと合流し、数千人の勢力となった。曹操は将・蔡楊を送って劉備を撃たせたが、蔡楊は劉備に負けて殺された。
袁紹は更に使者を送って陽安都尉・李通を征南将軍に任命し、こちらに靡かせようとした。劉表も秘かに李通を招いた。
しかし李通はどちらも拒絶した。
周囲の者が李通と話をして袁紹に従うように勧めた。すると李通は剣に手を置いて叱咤した。
「曹公は明哲であるため必ずや天下を定める。袁紹は強盛とはいえ、最後はその虜になるだろう。私は命を懸けて裏切らないことを誓わん」
李通はそのまま袁紹の使者の元に行くとこれを斬り、印綬を曹操に送った。
その後、李通は急いで戸調(各戸が納める綿絹等の租税)を徴収した。
この行動に朗陵長・趙儼が李通に会って言った。
「今は諸郡が並んで叛しており、ただ陽安だけが帰順しているのに、更に綿絹の徴収を催促してしまえば、小人は喜んで乱を為しましょう。相応しくないのではありませんか?」
李通はこう答えた。
「公(曹操)と袁紹が対峙して甚だ危急であり、左右の郡県もこのように背叛している。もしも綿絹を調達しなければ、見聞きした者は必ず私が傍観して状況の変化を待っていると言うだろう」
曹操への忠義を示すための行動であるということである。
それに対して趙儼が言った。
「誠にあなたが思慮している通りでもあります。しかし軽重を量るべきです。少し租税を緩めれば、あなたのためにこの患いを解いてみましょう」
忠義を示す行為は素晴らしいが民の怒りを逆に買ってしまう可能性がある。そのことをすれば、別の問題を起こしてしまう。
趙儼が荀彧に書を送った。
「今、陽安郡の百姓は困窮しており、鄰城が並んで叛したため、崩壊しやすくなっています。これは一方面の安危の時です。しかもこの郡の人々は忠節を守り持ち、危険な状況にいても二心を抱いていないため、国家は慰撫を垂らすべきだと考えます。ところが逆に更に急いで綿絹を徴収しています。これでどうして善を勧めることができましょうか」
荀彧がこの内容を曹操に報告した。その結果、全ての綿絹が民に返却された。これにより陽安の上下の者が歓喜して郡内が安定した。
その後。李通は群賊・瞿恭らを攻撃して全て破り、淮・汝の地が平定していった。
当時、曹操が新科(新しい法令)を制定して州郡に下した。そのため頗る厳粛が増していた。しかも先ほどのように綿絹の徴収も厳しくなっていた。
長広太守・何夔が曹操に言った。
「先王は近畿の賦税は多く、辺境は少なくし、三典の刑を制定して治乱を平らにしました」
三典の刑とは新しい国には軽典(軽い刑法)を使い、太平な国には中典を使い、乱れた国には重典を使うというものである。
「私の愚見では、この長広郡は遠域・新国の典に則るべきです。民間の小事は長吏を使って臨機応変に処理させ、上は正法に背かず、下は百姓の心に順じさせるべきです。そうすれば三年で民がその業に安んじるので、その後、共通の法を用いることができます」
曹操はこの意見に従った。
袁紹が兵を進めて陽武を守った。
沮授が袁紹に進言した。
「我が軍は数が多いものの、剛強果敢さにおいて南に及びません。しかし南郡は穀物が少なく、資儲(物資の蓄え)が北に及びません。南は速戦に幸があり、北は持久戦に利があります。ゆっくり持久して日月を延ばすべきです」
袁紹はこれに従わなかった。彼が求めていたのはわかりやすくかつ圧倒的な勝利こそが目的だったからである。
八月、袁紹が営を少し前に進めて官渡に臨み、沙塠(小さい砂丘)を利用して駐屯した。東西の長さが数十里に及んだ。
曹操も営を分けて袁紹軍と対峙した。それでも明らかに曹操軍と袁紹軍では兵数に差があった。
曹操は兵を出して袁紹と戦ったが、勝てず、引き返して営壁を堅めた。
「やはりそう簡単には勝てぬはな」
一方、袁紹は高櫓(「櫓」は屋根がない楼)を建てて土山を築き、曹操の営内に矢を射た。雨のように矢が降り注ぎ、曹操の営内では皆、楯をかぶって行動し、兵たちは大いに懼れた。
そのため曹操は霹靂車を造った。「霹靂車」は「投石車」「発石車」のことで、石を発する時の音が激しくて地を震わせたため、「霹靂車」と名付けられたのである。
石を発して袁紹の楼を攻撃し、楼を全て破壊した。
袁紹は地道を掘って曹操を攻撃した。かつて公孫瓚との戦いで使った手である。しかし曹操もすぐに営の内側に長塹(長い堀)を造って拒んだためこの攻撃は失敗した。
袁紹軍の攻撃を的確に防ぐ曹操軍であったが、袁紹軍よりも兵が少なく食糧に関してはほぼ尽きていた。士卒は疲弊窮乏し、百姓は税の徴収に困苦し、多くの者が叛して袁紹に帰すようになっていた。
これを患いた曹操は荀彧に書を送り、許に還って袁紹を誘い出したいという意見を議した。
しかし荀彧はこれに反対した。
「袁紹は全軍を官渡に集めて公と勝敗を決しようと欲しているのです。公は至弱によって至強に当たっているため、もしも制すことができなければ、必ずや乗じられることになります。これは天下の大機(天下を得るかどうかの肝心な時)です。そもそも袁紹は布衣の雄に過ぎず、人を集めることはできても用いることはできません。公には神武・明哲があり、しかも大順によって天子を輔佐しているため、どうして成功できないでしょう。今、穀食は少なくなりましたが、楚・漢が滎陽・成皋の間で対峙していた時ほどではありません。当時、劉・項とも先に退こうとしなかったのは、先に退いた方が劣勢になると分かっていたからです。公は十分の一の衆によって、境界線を定めてこれを守り、その袁紹の喉を押さえて前に進めなくさせ、既に半年になります。袁紹の実情が明らかになり、勢いが尽きれば、必ず変化が起きます。その時こそ奇策を用いる時なので、失ってはなりません」
曹操はこれに従い、営壁を堅めて保持した。
そんな中、袁紹軍の穀物を運ぶ車数千乗が官渡に到った。
荀攸が曹操に言った。
「袁紹の運車が朝夕に到着します。その将・韓猛は勇猛ですが敵を軽んじているため、撃てば破ることができましょう」
曹操が問うた。
「誰を送るべきだ?」
「徐晃が相応しいでしょう」
この推薦を受けて曹操は偏将軍・徐晃と史渙を送って韓猛を迎撃させた。徐晃らは韓猛を破って走らせ、その輜重を焼いた。
それでもこの被害は袁紹が有している勢力からすれば、まだまだ小さなものである。
(決定的な一撃を与えなければならない)
その決定的な一撃を与える状況はいつになれば来るのか曹操は焦りつつも自らを律し続けた。そんな彼に少しずつであったが、その好機が近づきつつあった。
次回も曹操VS袁紹の戦い。