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三国志  作者: 大田牛二
第四章 天下の命運
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白馬の戦い

 曹操そうそうは軍を官渡に還した。


 結局、曹操が劉備を討伐している間、袁紹えんしょうは兵を出さなかった。だが、曹操が官渡に戻ってからやっと袁紹は許攻撃について討議した。


 田豊でんぼうが言った。


「曹操は既に劉備を破りましたので、許の地が空虚のままであるはずがありません。しかも曹操は用兵を善くし、変化に法則がないため、たとえ兵が少ないとしても軽んじてはなりません。今は久しく対峙するべきです。将軍は山河の固に拠り、四州の衆を擁し、外は英雄と結び、内は農戦(農業と戦備)を修め、その後、精鋭を選び、分けて奇兵と為し、虚に乗じて迭出(繰り返し出撃すること)することで河南を攪乱し、敵が右を救えば、その左を撃ち、左を救えば、その右を撃てば、敵を奔命によって疲れさせ、民が安業できなくなり、我々が疲労する前に彼らが既に困窮し、三年に及ばず坐して克つことができましょう。今、廟勝の策(朝廷で定める必勝の策)を棄て、一戦において成敗を決しようとして、もしも志の通りにならなければ、後悔しても及びません」


 河北の豊かな物資、兵をもって曹操とはまともに戦わず、長期戦をもって勝つという策である。しかし袁紹はこれに従わなかった。


 袁紹は曹操のことを見下しており、彼の戦巧者として全く評価してない。ある意味、彼の中での曹操の能力は反董卓連合で敗戦した曹操で止まってしまっていると言えるかもしれない。


 もしくはこの時、袁紹の想定よりも悪い状況が起きてしまっていたのかもしれない。


 では、その悪い状況というのは何かと考えると実は袁紹の後方に厄介なやつがいた。鮮于輔せんうほである。彼は河北全域が袁紹の手に落ちる中、親曹操派を謡い、袁紹に従属せずにいる人物である。


 袁紹は彼に対して武力ではなく、説得をもって何とかしようとしていた。理由としては軍を下手に派遣して討伐しようとすると北の異民族を刺激する可能性があるためである。袁紹は北の異民族に対しては宥和政策を取っている。


 その説得に当たらせたのは北の異民族に対して鮮于輔と同じほどの名声を有している閻柔えんじゅうを送っていた。しかしながらはっきり言って袁紹は人選を間違えたと言っていいだろう。


 閻柔は確かに北の異民族に慕われた人であるが、彼自身の性質は慈愛の人ではなく、任侠精神の人である。弱気を助け、気の合う仲間のために命を賭ける。それがこの人の本質であり、虐げられている北の異民族の気の合う仲間のために彼らと共に戦ったのである。


 そんな彼にとって鮮于輔は好意的な人物であり、彼と話すうちにますます彼のことを気に入ってしまった。なにせ鮮于輔は河北で袁紹に逆らい続ける確かな覚悟と信念の持ち主なのである。そんな男を助けたいと思うのが閻柔という男であった。


 その結果、閻柔は鮮于輔に協力するようになった。北の異民族に慕われている二大巨星が反袁紹派になってしまったのである。袁紹としては自分の勢力の後方に脅かす危険性が強くなってしまったことになる。


 また、この者たちの厄介なのは下手に排除しようとすると北の異民族の反感を買うということである。そのため彼らを黙らせるためにも曹操から圧倒的な勝利をもって穏便な形で従属させていきたいというのが袁紹の考えだったのだろう。


 しかし田豊はなおも強く諫めて袁紹に逆らった。彼からすれば閻柔、鮮于輔に自分たちを打ち破る力は無いため、そこまで警戒するべきでは無いと考えていたのである。本当に警戒すべきは曹操であり、彼との戦いは慎重にやらなければならないとしたのである。


 しかし袁紹は彼の意見を退け、それどころか衆人の士気を喪わせているという理由で、田豊に刑具をつけて牢に繋いだ。


 その後、袁紹は檄を州郡に送り、曹操の罪悪を数え上げて譴責した。


 二月、袁紹が黎陽に進軍して黄河を渡る準備を始めた。


 沮授そじゅが出征に臨んで宗族を集め、資財を分け与えてこう言った。


「勢いがあれば威を加えられない場所はないが、勢いを失えば、一身を保つこともできない。哀しいことだ」


 弟の沮宗そそうが言った。


「曹操の士馬は我が軍に敵いません。兄上は何を懼れているのですか?」


 沮授はこう答えた。


「敵には曹操の明略があり、しかも天子を擁して資本としている。我々は伯珪(公孫瓉の字)には克ったが、実は兵が疲敝しており、主は驕慢で諸将は貪婪な者ばかり。軍の敗北はこの一挙にある。揚雄はこう言ったものだ。『戦国時代の六国が混戦したのは、秦のために周を弱くしたのである』これは今のことを言っているのだろう」


 曹操のために勝てる状況を袁紹自らが作ってしまっているという。それにも関わらず、勝てるはずが無いというのが沮授の意見である。特に袁紹は相手を完全に見下してしまっているのが問題で、曹操に何ができようかと思っている。


 そのことがよくわかる状況がさっそく見られた。


 曹操の振威将軍・程昱ていいくは七百の兵で鄄城を守っていた。


 曹操が程昱の兵を二千人増やそうとしたが、程昱は同意せず、こう言った。


「袁紹は十万の衆を擁しており、向かう所に前を遮る者がいない思っています。今、私の少ない兵を見れば、必ず軽視して攻めて来ません。しかしもしもここの兵を増やせば、袁紹軍が通れば、攻めないわけにはいかず、攻めたら必ず克ち、徒に勢力を損なうことになります。公が必要以上に心配しないことを願います」


 果たして、袁紹は沮授が攻めるように進言していても程昱の兵が少ないと聞いて鄄城に向かわなかった。


「白起でさえ相手の全力に対しては真正面からぶつからなかったものだ。それにも関わらず、私たちのようなものがそうしなくてどうするのか」


 沮授はそう言って嘆いた。


 このことを知った曹操は賈詡かくに言った。


「程昱の胆は賁・育(孟賁と夏育。古代の勇士)を越えている」


 曹操の勝因となる要素の一つとして曹操が必要以上に兵力を分散せずに袁紹の本軍に対して精兵を対峙させることができたというのがある。


 袁紹は郭図かくと淳于瓊じゅううけい顔良がんりょうを派遣し、白馬で東郡太守・劉延りゅうえんを攻撃させた。


 沮授が袁紹に、


「顔良の性格は促狭(度量が小さいこと)です。驍勇とはいえ、彼一人に任せることはできません」


 と言ったが、袁紹は聴き入れなかった。


 四月、曹操は劉延を救うために北に向かった。荀攸じゅんゆうが進言した。


「今は兵が少なく袁紹軍に敵わないため、彼らの勢いを分けさせなければなりません。公が延津(南岸)に至り、兵を渡河させてその後ろに向かおうとすれば、袁紹は必ず西に向かってこれに応じることでしょう。その後、軽兵が白馬を襲い、その不備を突けば、顔良を虜にできます」


 顔良の軍を攻撃して撃破する前に袁紹の本軍から援軍が来ると兵数で負けている以上、被害が大きくなる可能性がある。曹操はこれに従った。


 袁紹は曹操の兵が渡河すると聞くと、曹操を邀撃するため、すぐに兵を分けて西に向かった。そこで曹操は軍を率いて急行し、白馬に向かった。


 曹操軍が白馬から十余里の地まで接近した時、顔良が気づいて大いに驚き、迎撃しに来た。


 曹操は張遼ちょうりょうと降伏したばかりの関羽かんうを先鋒にして顔良を撃たせることにした。


 関羽は顔良の麾蓋(大将が乗る戎車(戦車)の旗と傘)を眺め見ると、張遼に行ってくると言うと悠々と馬に乗って顔良軍の中を進んでいった。


 関羽を目視した顔良は劉備が袁紹の元にいることから、彼を快く迎えようとしたが、関羽は彼が近づいてきたところで彼の首を斬って帰還した。


 曹操は関羽の為人を勇壮とみなして称賛していたが、しかしながら関羽の心意には久しく留まる意思がないことを察していたため、張遼を派遣して心情を問わせていた。


 関羽はその時、嘆息して言った。


「私は曹公が私を厚く遇していることを極めて知っています。しかし私は劉将軍の恩を受け、共に死ぬことを誓いましたので、その誓いに背くわけにはいきません。私はいつまでもここには留まらず、功績を立てて曹公に報いたら去りましょう」


 張遼は関羽の言葉を曹操に報告した。曹操はこれを義とみなして評価していたが、今回の顔良を斬り殺したことを聞くと彼が今度こそ去るだろうと思った。そのため関羽を後方に下がらせ、袁紹の元に劉備がいることを知られないようにしたのである。


 顔良を失った袁紹軍は対抗できる者がなく、白馬の包囲が解かれた。


 曹操は燕県と白馬県の民を遷し、黄河に沿って西に向かわせた。


 この結果を受けて袁紹は黄河を南に渡って曹操軍を追撃しようとした。すると沮授が諫めた。


「勝負の変化は慎重に把握しなければなりません。今は延津に留まって駐屯し、兵を官渡に分けるべきです。彼らが戦勝したら、それから戻って延津の大軍を迎えさせても晩くはありません。全軍が南下し、もしも難があれば、大軍が還れなくなりましょう」


 袁紹はこれに従わなかった。


 沮授は渡河に臨んで嘆いた。


「上は志を大きくするだけで、下は功績を求めているだけだ。悠悠とした黄河よ、私は生きて還ることができるのか」


 沮授は病を理由に辞職しようとした。


 しかし袁紹は同意せず、心中で沮授を恨み、再び沮授の兵を除いて全て郭図に属させた。


 袁紹軍が延津南に到った。これに合わせるよう曹操は兵を整えて南阪下に駐屯した。


 曹操が人を送り、営塁に登って遠くを眺めさせた。派遣された者が言った。


「約五、六百騎です」


 暫くしてまた言った。


「騎兵が少しずつ増えています。歩兵は数え切れません」


 曹操は、


「もう報告する必要はない」


 と言うと、騎兵に鞍を解いて馬を放つように命じた。この時、白馬から来た輜重が道中にいた。


 諸将は敵の騎兵が多いため、還って営塁を守らせるべきだと考えたが、荀攸がこう言った。


「これは敵を誘っているのだ。なぜ去らせるというのか」


 曹操は荀攸を顧みて笑った。あなたはよくわかっているという笑みである。


 袁紹の騎将・文醜ぶんしゅうと劉備が五六千騎を指揮し、前後して迫ってきた。


 諸将が曹操に言った。


「馬に乗るべきです」


 しかし曹操は、


「まだだ」


 と言った。また暫くして、騎兵がますます増えた。ある者は別れて輜重に向かった。そのため相手の陣形が僅かに崩れた。すると曹操が、


「今だ」


 と言い、皆が一斉に馬に乗った。


 曹操の騎兵は六百人を満たなかったが、精兵中の精兵兵である黒豹騎である。彼らの強さは尋常ではなく、袁紹軍を撃ち、大破して文醜を斬った。


 一方、劉備は無理と判断する途端に逃走し始めていた。殿を務めるのは新しく加わった趙雲ちょううんである。


 彼が槍を振るえば、しなやかなる鞭のようにしなり、風を切る音がする前に曹操軍の兵の首が飛んだ。彼の槍の矛先を目視した兵はその槍の矛先が既に己を貫いていることに気付かなかった。


「見たことのない将であるが、武勇に美しさがある」


 曹操は劉備の元に新しい将が加わったことを思いながら曹操はなぜ、劉備の元にはああ言う将が集まるのだろうと不思議に思った。


 文醜と顔良はどちらも袁紹の軍の中では名将と評価されていたにも関わらず、二戦して戦死さしてしまったことで、袁紹軍は大いに震撼し、士気が失われてしまった。


 さて、関羽が顔良を殺してから、曹操は関羽が必ず去ることになると知り、厚く賞賜を加えながら、後方に置いて劉備が袁紹の元にいることが知られないようにした。


 だが、関羽は劉備が袁紹の元にいることを知った。そのため関羽は下賜された物に一部を除いて全て封をしてから、書を献上して別れを告げた。


 関羽が唯一曹操から下賜されて受け取ったのは呂布の愛馬であった赤兎馬である。この赤兎馬に乗って袁紹軍にいる劉備の下に奔った。


 曹操の左右の者が追撃しようとしたが、曹操はこう言った。


「彼が去ったのはそれぞれの主に仕えるためだ。追ってはならない」


(関羽ほどの男が惚れ込むほどのものが劉備にはあるのか?)


 曹操はそれがわからなかった。


 曹操は官渡に軍を還した。


 そこに閻柔が使者を送って曹操を訪ねさせた。曹操はこれを喜び、閻柔を烏桓校尉に任命した。また、この使者に鮮于輔も自ら同行しており、官渡で曹操に会った。


「孤立無援の中、あなたが朝廷のために戦っていることを知って喜ばしい限りだ。しかしながらあなた自らここに来られて大丈夫なのか?」


 曹操は鮮于輔に問いかけると彼はこう答えた。


田豫でんよがいますので、大丈夫です」


 曹操が田豫を知ったのはこの時であっただろう。


 曹操は鮮于輔を右度遼将軍に任命し、還って幽州を鎮撫させることにした。


 袁紹との前哨戦は曹操の勝利に終わったと言えるだろう。しかしながらまだ、袁紹には余力があり、曹操側にとって不利なところはまだまだ多くある。


 その一つである。後方を脅かしかねない存在、江東の小覇王・孫策そんさくの存在がある。だが、その孫策には数奇な運命が待ち受けていた。






次回は孫策の話。

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