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三国志  作者: 大田牛二
第四章 天下の命運
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劉勳

 劉備の叛乱理由に悩んでいたら光武帝の言葉を思い出したら、形にできました。

 揚州賊の帥・鄭宝ていほうが居民を奪って江表(長江以南)に赴こうとした。


 高族の名人(貴族の名士)で淮南の人・劉曄りゅうよう、字を子揚という人物がいる。彼は蒋済しょうせい胡質こしつと共に揚州の名士として知られている人物で、若干七歳の時に母の脩が病で亡くなった。臨終前の母は、


「あなたの父の近侍の一人は悪質な奸臣ですので、あなたが成人したら彼を取り除くように」


 という遺言を残した。劉曄は十三歳になった時、生母の遺言に従い、その奸臣を誅殺しようと同母兄の劉渙りゅうかんに相談したが、劉渙は受け容れなかった。


 そのため劉曄は一人で奸臣を殺害した。これを知った劉渙は弟を非難したが、父の劉普りゅうふはこれを抑え、劉曄の気持ちを察し、彼を咎めなかった。この一件をもって彼は許劭きょしょうから冷静沈着で豪胆な人物であると評された。こうして彼はその名を知られるようになった人である


 鄭宝は劉曄を脅迫して共にこの謀を提唱しようとしたため、劉曄は友人である魯粛ろしゅくから彼の悪逆さを聞いていたためどうするべきかと考えていると曹操が陽州の状況を知るための使者が近くまできていることを知った。


 劉曄は曹操の使者を招いて一緒に家に帰り。同時に鄭宝を宴に招いた。


 劉曄は鄭宝を宴飲させた後に、自らの手で殺して首を斬ると、その首を持って鄭宝の軍に令を下した。


「曹公の令がある。敢えて動く者は鄭宝と同罪とする」


 鄭宝の兵数千人は皆、懼れて服従し、劉曄を主に推した。しかしながら劉曄はその兵を廬江太守・劉勳りゅうくんに与えた。


 劉勳が理由を怪しんだため、劉曄はこう言った。


「鄭宝は法制がなく、その兵は以前から略奪によって利を為してきました。私は元から資財がないのに、彼らを正したら、彼らは必ず怨みを抱くので、久しくするのは困難です。だからこそ譲ったのです」


 劉勳は袁術の部曲も収容したばかりであった。人数が多いのに糧食が少なかったため、帰順した者を救済できず、物資の供給もままならないでいた。


 そこで従弟の劉偕りゅうかいを派遣して豫章太守・華歆かきんから食糧を買い求めようとした。


 しかし華歆の郡も元々穀物が少なかったため、官吏を派遣し、劉偕を連れて海昏上繚に向かわせた。上繚の諸宗帥に要求して合計三万斛の米を劉偕に提供させた。


 ところが、劉偕が上繚に行ってから、月を経ても数千斛しか得られませんでした。


 劉偕は劉勳に報告して詳しい状況を説明し、諸宗帥を襲って土地や物資を奪取するように促した。


 孫策おんさくは劉勳が袁術らの兵を吸収したと聞き、その勢力が強盛なことを嫌い、偽って辞を低くし、劉勳に仕えるふりをして、


「上繚の宗民がしばしば私の郡を虐げているので、これを撃とうと欲していますが、路が不便です。上繚は甚だ富裕であるため、あなたがこれを伐つことを願います。私も兵を出して外援となることを請います」


 孫策は珠宝や葛越(布の一種)を劉勳に贈った。劉勳は大いに喜び、内外の者も皆、祝賀した。しかし劉曄だけは反対した。


 劉勳が理由を問うと、劉瞱はこう答えた。


「上繚は小さいとはいえ、城壁は堅固で堀が深いため、攻めるのは困難ですが守るのは容易です。十日程度では占拠できません。兵が外で疲弊して国内が虚になった時、孫策がその虚に乗じて我々を襲えば、後方が自守できなくなります。このようになったら、将軍は進んだら敵に屈し、退いても帰る所がありません。もし軍を必ず出すならば、禍が今にも至りましょう」


 劉勳は劉偕の書も得ていたため、諫言を聞かず、上繚を討伐することにした。秘かに軍を海昏に到らせた。


 しかし諸宗帥が事前にそれを知り、皆、営壁を空にして逃げ遷った。そのため劉勳は何も得る物はなかった。


 この時、孫策は兵を率いて西の黄祖こうそを攻撃しており、石城に至っていた。


 劉勳が自ら兵を率いて海昏に居ると聞いた孫策は、従兄の孫賁そんふん孫輔そんほを分けて派遣し、八千人を率いて彭沢に駐屯させた。劉勳を迎撃させるためである。


 孫策自身は領江夏太守・周瑜しゅうゆと共に二万人を率いて歩行し、皖城(劉勳の拠点)を襲った。そのまま皖城を攻略し、劉勳の衆が全て降らせた。孫策は袁術の百工および楽隊・部曲三万余人や袁術、劉勳の妻子を得た。


 孫策は上表して汝南の人・李術りじゅつを廬江太守に任命し、兵三千人を与えて皖城を守らせた。孫策が得た民は全て東の呉に遷された。


 劉勳が上繚から還って彭沢に至ったところを孫賁と孫輔が邀撃して破った。劉勳は逃走して楚江に入り、尋陽から歩いて置馬亭に到った。そこで孫策らが皖を攻略したと聞き、西塞へ逃げた。


 流沂(西塞付近の地名)に塁壁を築いて守りを固め、劉表に急を告げて黄祖に救援を求めた。


 黄祖は息子の黄射こうしゃを派遣し、船軍五千人を率いて劉勳を援けさせた。しかし孫策が再び劉勳を攻めて大破した。


 劉勳の衆は孫策に降ったが、劉勳と劉偕は麾下数百人と共に北の曹操そうそうに帰順した。黄射も遁走した。その代わり孫策が劉勳の兵二千余人、船千艘を得て収容した。


 廬江太守・劉勳は兵を率いて曹操に降ったため、列侯に封じられた。


 曹操は孫策が江南を平定したと聞くと心中で厄介だと思い、しばしばこう叫んだという。


「猘児(「猘」は狂犬のこと)とは勝敗を争うのがむずかしい」


 孫策は兵を進めて黄祖を撃破すると十二月、孫策軍は沙羡に至った。


 劉表が甥の劉虎りゅうこと南陽の人・韓晞かんきを派遣し、長矛の兵五千を率いて黄祖を援けさせた。劉虎らが先鋒になった。


 孫策は劉虎らと戦って大破し、韓晞を斬った。黄祖は脱出して逃走し、孫策は黄祖の妻子や船六千艘を得た。士卒で殺されたり溺死した者は数万人に上ったという。


 孫策が朝廷に上表した。


「私は黄祖を討ち、十二月八日に黄祖が駐屯する沙羨県に到りました。すると劉表が将を派遣して黄祖を助け、並んで私に向かってきました。私は十一日早朝に領江夏太守・行建威中郎将・周瑜、領桂陽太守・行征虜中郎将・呂範りょはん、領零陵太守・行蕩寇中郎将・程普ていふ、行奉業校尉・孫権そんけん、行先登校尉・韓当かんとう、行武鋒校尉・黄蓋こうがいらを配置して同時に進みました。身は馬に跨って陣を撃ち、手は激しく戦鼓を敲いて戦勢を整えました。吏士が奮激して踊躍百倍し、専心して意を果たし、それぞれ競って尽力しました。多数の堀を越え渡り、飛ぶように迅速でした。火が風上に放たれ、兵が煙下で激しくなり、弓弩が並んで発せられ、流矢が雨のように集中し、辰時になって(「辰時」は午前七時から九時)、黄祖がやっと潰滅しました。鋒刃が切るところ、炎火が焼くところ、我々の前で生き延びた賊はいませんでしたが、黄祖だけは逃走しました。その妻子男女七人を獲て、劉虎、韓晞以下二万余級を斬り、川に赴いて溺れた者は一万余口に上り、戦利品は船六千余艘があり、財物が山積みにされました。劉表はまだ捕えておらず、黄祖は元から狡猾で、劉表の腹心となり、外に出たら爪牙になり、劉表の鴟張(凶暴。放縦)は黄祖の呼吸によるものでした。しかし、黄祖の家属・部曲は地を掃いたように残りが無くなり、劉表は孤独の虜として幽鬼か歩く尸となっています。誠に皆、聖朝の神武が遠くに振ったおかげで、私が罪人を討って微勤(わずかな勤労、辛苦)を尽くすことができました」



 次回も孫策サイドの話。

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