賈詡
袁紹が人を派遣して張繍を招き、併せて賈詡に書を送って友好を結ぼうとした。張繍は袁紹の招きに同意しようとした。
ところが賈詡が張繍の坐上におり、袁紹の使者にはっきりと言った。
「帰って袁本初(本初は袁紹の字)に謝すといい、兄弟でも相容れることができないのに(袁術と対立していたことを指す)、天下の国士を容れることができようかと」
張繍が驚き懼れて言った。
「どうしてそのようなことを言うのだ」
彼は袁紹の使者を下がらせると、秘かに賈詡に問うた。この辺り張繍は冷静である。
「それでは誰に帰すべきだというのだ?」
「曹公に従った方がよろしい」
賈詡の言葉に張繍は驚きながら言った。
「袁紹は強く、曹操は弱い。また、以前、曹操とは讎を為したのだ。彼に仕えることができようか?」
自分を憎んでいるであろう相手にどうやって仕えることができようか。しかし賈詡はこう言った。
「それが従うべき理由です。曹公は天子を奉じて天下に号令しています。これが従うべき理由の一つ目です。袁紹は強盛ですので、我々が少数の兵を率いて従っても、我々を重んじることはありません。曹公は兵が弱いため、逆に我々を得たら必ず喜びます。これが従うべき理由の二つ目です。霸王の志を持つ者とは、元から私怨を解いて四海に徳を明るくするものです。これが従うべき理由の三つ目です。将軍が迷わないことを願います」
逆転の発想というべき考えた方である。強い方に着く方が本来は生き残る可能性が高いが、尊重されるという部分において袁紹にそこまでの配慮があるとは思えない。
また、張繍は自尊心が強い部分があるため、尊重されないことでその自尊心が我慢できるとは思えないというのも曹操に着くことを勧める理由でもある。
「だが、それに曹操に同意するだろうか」
「それをなんとかするのが私です」
賈詡はそう言った。
「わかった。あなたの言に従う」
張繍の言葉を受けて賈詡は使者として曹操の元へ向かった。
「張繍の使者が来ただと……」
曹操はそれを聞いて驚いた。しかも使者となっているのは張繍の頭脳となっている賈詡であるという。
(賈詡……)
二回も張繍討伐に失敗していることからその失敗理由の一旦は彼にあると言っていい。はっきり言えば賈詡によって討伐が失敗していると言っていい。そのため彼の情報を集め、その才覚を認めていた。
「どのような要件であろうか?」
曹操が問うと荀彧が答えた。
「こちらに降りたいとのことです」
「降る……私にか?」
袁紹が張繍に接触していることは曹操は知っている。そんな状況で自分に降るというのがわからない。
「ほう、中々目の良い男のようだな。恐らくは使者となっている賈詡の意思によるものであろうな」
郭嘉は酒を飲みながらそう言った。
「ともかく彼が降ることは大きいです。彼の兵は涼州の精兵です。強力な力となってくれるはずです」
荀彧はこの降伏を受け入れるべきだと曹操に進言した。
「斉の桓公は自分を殺そうとした管仲を用いて覇を唱えることができました。色々と因縁はありますが、それを捨ててでも彼らの降伏を受け入れるべきです」
「そうだな……その通りだな……」
曹操が頷き、降伏を受け入れる旨を伝えるように指示を出そうとした時、
「斉の桓公は確かに偉大だった」
郭嘉が話し始めた。
「彼は自分を殺そうとした管仲を許した。その度量の大きさを後世の者たちは名君の度量の大きさとして称え語り継いできた……」
彼は曹操を見る。
「だが、曹孟徳は斉の桓公でなければ、張繍も賈詡も管仲では無い……斉の桓公が果たして二人を許すというわけではなく、あなたとて管仲を許せるとは限らない。斉の桓公だからこそ、管仲を許した。管仲だからこそ斉の桓公は許した」
郭嘉は曹操を指差す。
「無礼ですよ」
それに慌てて、荀彧が制するが郭嘉は言った。
「曹孟徳だからこそ、彼らを許した。そう語られるようであれ、曹孟徳」
曹操は彼の言葉に驚くと共に動揺した。
(私だからこそ、許す……)
「賈詡と一体一で会うことにする……」
「それでよろしい。しっかりと考えることだ」
曹操が出て行くと荀彧は郭嘉に迫った。
「何故、あのように迷わすことをおっしゃったのですか」
「心の底から許さなければ、ならんと思ったからだ」
「ですが、もし一時の感情で殺害することがあっては……」
「それなら、曹孟徳の器量もそこまでってことさ」
郭嘉はけらけら笑いながら酒を飲む。
「あなたという人は……」
荀彧は頭を抱える。そんな彼を郭嘉は見据えながら呟く。
「お前に甘さが無ければ、ここまでしないさ」
郭嘉はそう呟きながら酒を飲んだ後、僅かに咳き込むとそのまま部屋を出て行った。
曹操は賈詡がいる部屋へと向かう。
「果たして許すことができるだろうか……」
荀彧に言われた時点では降伏を許すつもりであった。しかし、今はわからなかった。
(昂……)
息子の曹昂を失い、多くの将兵も失った。全ては自分が悪いことはわかっている。それでも……
(お前を失ったことの大きさを実感すればするほどに……)
許せないという思いが出てくる。果たして本当に許せるのだろうか。
そう思いながら曹操は賈詡と会った。
(この方が賈詡か……)
ほっそりとしながら相手に悪感情を与えない透明感のある人であった。
「賈文和でございます」
「曹孟徳だ。よくぞいらっしゃってくださった」
にこやかにしながらも曹操は彼の一挙一動を観察していく。それは賈詡も同じであった。
(自ら会いに来たということは、こちらの力量を見ているということだろうか……)
曹操という人は恨みを忘れたふりができると思っていただけに会いに来たことは意外であった。
(迷っているということか……)
予想していたわけでは無いが、少しだけ賈詡は曹操に失望する。
(まあ良い。それならば私の命を賭ければ良いだけだ)
「あなた様、自らお会いして頂けるとは思っておりませんでした」
「あなたの名声は常日頃、お聞きしておりましたのでお話を伺いたいと思っておりましてな」
賈詡はそれを聞きながらこう切り返した。
「あなた様の御子息を殺害したのは私です」
曹操は僅かに目を細める。
「ええ、あの時の戦いでの策を」
「この手で御子息の首を切り落としました」
賈詡は淡々と述べていく。
「あなた様にとって私は仇と言えましょう。どうなさるかはご自由になさってください」
彼は首元を開けて首を差し出す格好をする。
曹操は拳を強く握る。今、目の前にいる者が息子の仇なのだ。父の仇討ちのために徐州の虐殺を行ったように曹操は激情家である。しかしその失敗を受けて、それを抑えるようにしてきた。
(我慢せねばならない)
それでも……息子の仇が目の前にいる。
「最後に……御子息の最後のお言葉をお伝えします」
「最後の言葉……」
「『私は……子として臣としての義務を果たした』と申しておりました」
(昂……)
息子の言葉に曹操は動揺する。あの子は息子として臣下としての義務を果たし抜いて死んだ。後悔はなかったのだろうか。私のような父のために、主のために死んだことを恨みながら死んだのではないのか。それにも関わらず、息子はそう言って死んだというのか。
「とてもご立派な御子息であったと思います」
「お前に言われなくとも……」
「ええ、存じておりましょう。だからこそ私も臣下としての義務を果たすのです」
「臣下としての義務……」
曹操はそう呟いてから賈詡を見る。
(この者は……)
「あなたは張繍の他にも多くの者に仕えていたはずだ。何故、張繍のために己の命をかけようとするのだ。それほどその者は名君であると言うのか?」
「いいえ、そういうわけではありません」
(はっきりという男だな)
曹操は意外そうに彼を見る。
「誰が主であろうか。臣下としての義務を果たすだけです。臣下として主への諫言を行うこともありましょう。策を提示することもありましょう。時として命を懸けることもあります。なぜならばそれが臣下としての義務だからです」
賈詡の言葉を曹操は静かに聞く。
(誰であっても臣下としての義務を果たすか……)
「私が主であってもか?」
「はい」
「別の者、例えば袁紹であっても?」
「ええ」
(ふふ、嘘の無い人だ)
さっきまで憎しみをもった目で持っていたにも関わらず、目の前の男への悪感情が薄れているのを感じる。
(この者はどんなところでも己のあり方を変えることは無いのだろう。義務を果たす抜くのだろう)
そこに一切の偽りも何もこの男には無いのだろう。
(昂……お前も偽りなく義務を果たし抜いたのだろうか。そう信じたいと思うことは傲慢だろうか。都合の良いことだろうか)
「お前が臣下として息子として義務を果たして私を救ってくれたのだ。ならば、私も私の義務を果たし抜かねばなるまい……」
その呟きは賈詡には聞こえない。
「あなたは張繍の元へ戻り、あなた方の降伏を認め、感謝するとお伝えください」
「承知しました」
賈詡は襟を直す。
「あなたには今後は私の元で働いてもらいたい。私が主としての義務を果たしていない時はあなたはあなたの義務を果たしてもらいたい」
「仰せのとおりに」
賈詡は拝礼をもって答えた。
十一月、張繍は兵を率いて曹操に降った。曹操は張繍の手を取り、共に歓宴した。
その後、曹操は子の曹均に張繍の娘を娶らせ、張繍を揚武将軍に任命して列侯に封じた。また、上表して賈詡を執金吾に任命し、都亭侯に封じた。
次回は曹操と袁紹の対立の動向を眺める人たちの話。