激闘の始まり
袁紹は公孫瓉に勝利し、その地を併合してから、四州の地を兼ねており、兵の数も十余万を数えた。心中にますます驕りを抱き、貢御(朝廷への貢物)が稀簡(少なくて簡単なこと)になっていった。
主簿・耿包が秘かに袁紹に進言した。
「天と人に応じて尊号を称すべきです」
袁紹は耿包が進言した内容を軍府に示した。このことから袁紹が乗り気であることがわかる。しかしながら僚属は皆、
「耿包は妖妄(荒唐で道理がないこと)なので誅すべきです」
と言ったため袁紹は耿包を殺し、称帝の意志がないことを示して弁解した。
袁紹はかねてから元太尉・楊彪、大長秋・梁紹、少府・孔融と対立していたため口実を探して曹操に誅殺させようとした。
そんなことに乗るような曹操ではなく彼は言った。
「今は天下が土崩瓦解して雄豪が並び起っており、大臣も君長(諸勢力の長)も人々が怏怏(不満・憂憤の気持ち)を抱いてそれぞれ自立の心を持っています。今は誰もが猜疑心を抱いているので、こちらが相手を疑わなくても、相手に信用されない恐れがあります。それにも関わらず、人を殺してしまったら、皆が危険を感じて我々を信用しなくなります。そもそも布衣から起きて俗世にいるのに、凡人(私)に凌辱されたら、怨みに堪えられるでしょうか。高祖は雍歯の怨みを赦したため、それによって群情が安んじました。どうしてこれを忘れましょうか?」
袁紹は曹操が表面は公義に託しながら、内実は自分から離反していると思い、深く怨恨を抱き始めた。それにより袁紹は精兵十万人、騎馬一万頭を選んで許を攻めようとした。
沮授が袁紹を諫めた。
「公孫瓉を討ち、出征して年を重ねましたので、百姓が疲敝して倉庫に蓄えがありません。よって、まだ動くべきではありません。農業に務めて民を休め、先に使者を派遣して天子に献捷(戦勝を報告して戦利品を献上すること)なさるべきです。もし道を通ることができなければ、曹操が我々の王路(尊王の道)を隔てたことを上表し、その後、黎陽に進屯して、徐々に河南を攻略し、更に舟船を造り、器械(武器・道具)を修繕し、精騎を分遣してその辺界を掠め、曹操が安寧を得られないようにして、自軍は余裕を持って辺界を襲い、曹操を疲弊させます。このようにすれば、坐して定めることができましょう」
度重なる戦いで軍が疲弊しているという点だけでなく、出兵するための大義名分が欠けていることが今回の出兵の問題点であると彼は考えているのである。
しかしながらこれに郭図と審配が言った。
「あなた様の神武をもち、黄河以北の強兵を率いて曹操を伐てば、勝利するのは手を返すように容易です。どうして沮授の計のようにする必要がありましょうか?」
沮授が反論した。
「乱を治め、暴虐を誅すのを、義兵といいます。多勢や強盛を背景にした兵は驕兵といいます。義の者は敵がいませんが、驕の者は先に滅びるものです。曹操は天子を奉じて天下に号令しています。今、兵を挙げて南に向かったら、義において違えることになります。そもそも、廟勝の策(国家が立てた必勝の策)は強弱にあるのではありません。曹操は法令を既に行い、士卒が精練です。公孫瓉のように坐して攻撃を受けるような者ではございません。今、万安の術を棄てて出征の名義、名分がない兵を興そうとしていますが、心中であなた様のためにこれを懼れます」
郭図と審配は再び反論した。
「武王が紂を伐ちましたが、不義とはされませんでした。曹操に兵を加えるのに、どうして無名(名分がないこと)というのでしょうか。そもそも、あなた様の今日における強盛によって、将士は奮起しています。この時に乗じて大業を定めなければ、『天が与えたのに取らなければ、逆に咎を受ける』ということになります。これは越が霸を称えて呉が滅んだ理由です。監軍(袁紹が沮授に諸将を監護させていたため、沮授は監軍と呼ばれていた)の計は固守にありますが、それは臨機応変な策ではありません」
まさしく勝てば良いという意見である。しかしながらここで越が覇を称えて呉を滅んだ理由として挙げるのは微妙である。あの時の越は何よりも天の時を待ち続けて呉に勝利したのである。
しかしながらこの勝気な郭図らの言を採用した。
郭図らはこれを機に沮授を讒言した。
「沮授は内外を監統しており、威が三軍を震わせています。徐々に権勢を拡大すれば、どうして制すことができましょうか。臣と主の権威が等しい者は亡びるものです。これは『黄石(西漢の張良が得た書)』が嫌ったことです。しかも彼は外で兵を統率しているので、内の事を知るべきではありません」
そこで袁紹は沮授が統率する軍を三都督に分け、沮授、郭図、淳于瓊にそれぞれ一軍を管理させた。
騎都尉・崔琰は袁紹が出兵しようとしていることを知ると諫めた。
「天子が許におり、民は順(天子に従う者。曹操)を助けることを望んでいます。攻めてはなりません」
しかしながら袁紹は従わなかった。
崔琰という人は公明正大で誠実な人柄で知られた人物で、若い頃は剣術を好んでおり、兵士として出仕していた。その後、発奮して学問に励み『論語』と『韓詩』を読むようになり、公孫方らとともに鄭玄に師事するようになった。
やがて黄巾賊が北海郡を襲撃して来たため、鄭玄は弟子とともに山に避難したが、食料不足により弟子達に退学を言い渡さざるを得なくなった。しかしながら崔琰は盗賊がいたため帰国できず、青州・徐州・兗州・豫州の各地を逃げ回り、遠く寿春まで行ったこともある。
やっと郷里に帰ってからは読書と音楽を楽しんだが、袁紹に招かれて袁紹に仕えた。
(袁紹は失敗する)
崔琰は袁紹に対してそう思った。
許の諸将は、袁紹が許を攻めようとしていると聞くと皆、敵わないと思って懼れを抱いた。
しかし曹操がこう言った。
「私は袁紹の為人を知っている。志は大きいが智は小さく、外見は厳しいが胆は小さく、嫉妬深くて、刻薄で威望は少なく、兵は多くともその配置や規律は不明確で、将領が驕って政令が一致しない。彼の広い土地も豊かな食料も、ちょうど私のために準備したようなものだ」
孔融が荀彧に言った。
「袁紹は地が広くて兵も強い。田豊、許攸は智士であり、袁紹のために謀っている。審配、逢紀は忠臣であり、袁紹の政務を任せられている。顔良、文醜は勇将であり、彼の兵を統率している。克つのは難しいのではないか?」
荀彧はこう答えた。
「袁紹の兵は多いとはいえ、法が整っていません。田豊は硬直で上に逆らい、許攸は貪欲で身を正さず、審配は専権していながらも謀が無く、逢紀は果断ではあるものの、人の意見を聴きません。この数人は相容れることができないため、必ずや内変が生まれます。顔良、文醜は一夫の勇に過ぎず、一戦にして捕えることができましょう」
八月、曹操が黎陽(黄河北岸)に進軍した。
臧霸らに精兵を率いて青州に入らせ、東方を守らせた。臧霸は泰山で起きて東方で雄を称した人であるため、彼に東方を守らせて袁氏が平原から東に向かうのを防いだのである。
更に曹操は于禁を留めて河上(黄河沿岸)に駐屯させて、守りを固めると九月、曹操は許に還り、
兵を分けて官渡を守らせた。
後世に言う『官渡の戦い』はここから始まったと言っていいだろう。これに少し首を傾げる者もいるだろうが、実のところ『官渡の戦い』一回での決戦ではなく、正確に言えば、『官渡の戦役』または『官渡の戦争』という名称の方がいい戦いである。
また、この曹操と袁紹の戦いは各地の動きに大きな影響を与えることになる。各地の誰もがこの戦いの結果に注目し、その結果によって動きを変えていくことになる。そのことを考えるとこの二人の戦いの影響力はとても強いと言えるだろう。
そんな激闘が今、始まるのである。
次回は曹操と賈詡の話。