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三国志  作者: 大田牛二
第三章 弱肉強食
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敗れゆく者たち

 袁紹えんしょうは連年、公孫瓉こうさんさんの篭る易京を攻めたが、中々攻略できなかった。そこで書を送って公孫瓉を諭し、怨みを解いて連和しようと欲した。


 しかし公孫瓉はこれに答えず、守備を増修して長史・関靖かんせいにこう言った。


「今は四方で虎が争っている。我が城下に坐して包囲したまま年を越えられる者がいないのは明らかである。袁本初に私をどうすることができようか」


 この公孫瓚の態度に激怒した袁紹は大いに兵を興して公孫瓉の篭る易京へ侵攻した。


 以前、公孫瓉の別将が敵に包囲されたことがあった。


 しかし公孫瓉は救援せず、こう言った。


「一人を救えば、後の将が救援を頼りにして力戦しなくなってしまうではないか」


 袁紹が攻めてきた時、公孫瓉の南界に位置する別営の将兵は、営を守っても固守することができないと予測し、また、救援が来るはずがないことも知っていたため、ある者は投降し、ある者は潰散してしまった。


 袁紹軍が直接、易京の門に至った。


 公孫瓉は子の公孫続こうそんぞくを派遣して黒山の張燕ちょうえんらに救援を請い、自ら突騎を率いて傍の西山に出て、黒山の衆を擁して冀州を侵掠し、袁紹の後ろを切断しようとした。


 それに関靖が諫めた。


「今、将軍の将士で瓦解の心を抱いていない者はいません。それでも守っていられるのは、居処・老少(住居や家族)を顧恋(顧念。思念)し、また、将軍を頼って主としているからです。堅守して日が経てば、あるいは袁紹が自ら退くようにさせることもできるかもしれません。もしこれを捨てて出撃すれば、城内に主がいなくなり、易京の危機はすぐに訪れてしまうことでしょう」


 この諫言は現状の打開ではない諫言とも言えないものであったが、公孫瓉はこの言葉を受けて中止した。


 この後、袁紹の攻撃が徐々に公孫瓉を逼迫するようになり、公孫瓉の衆は日に日に困窮していった。


 年が明け、199年、三月、黒山賊の将・張燕と公孫続が兵十三万を率いて三道から公孫瓉を援けに行った。


 張燕らが到着する前に、公孫瓉が秘かに行人(使者)に書を持たせて公孫続と連絡を取り、五千の鉄騎を率いて北隰(易京北の湿地)で待機させ、火が起きたら呼応させようとした。公孫瓉自ら城を出て戦うつもりである。


 しかし袁紹の偵察兵がその書を得てしまった。


 公孫瓉が公孫続と約束した日に、袁紹が火を挙げた。公孫瓉は援軍が来たと思って出撃した。そこを袁紹が伏兵を設けて攻撃した。


 公孫瓉は大敗して再び城内に還り、守りを固めた。そこで袁紹は地道を造って楼下を穿った。中に木柱を立てて支えとし、進度を測って城楼の半分ほどに達したと判断すると、火をつけて木柱を焼いた。


 この間、公孫瓚はなんも対策をしなかったのだから袁紹は相手に恵まれている。


 楼が傾き倒れて袁紹軍が徐々に易京の中心に至った


 公孫瓉は自分の身を守ることができなくなった判断し、姉妹や妻子を全て縊殺してから火をつけて自焚した。


 袁紹は兵を督促して台に登らせ、公孫瓉の首を斬った。


 長年、公孫瓚の元で軍事を担い、一時的には劉備りゅうびの上司であった田楷でんかいはこの戦いの中で戦死した。


 関靖が嘆きながら言った。


「以前、もしも将軍が自ら行くのを出撃するのを止めなければ、助からなかったとは限らないが助かったかもしれない。私は『君子が人を危(危難)に陥れてしまったら、必ずその難を同じくする』と聞いている。どうして独りだけ生きていられるか」


 関靖は馬に鞭打って袁紹軍に赴き、戦死した。死に方だけは相当に綺麗だったと言える。


 公孫続は屠各(匈奴の部族)に殺された。


 漁陽の人・田豫でんよが太守・鮮于輔せんうほに言った。


「曹氏は天子を奉じて諸侯に号令しており、最後は天下を定めることができますので、早く従うべきです」


 鮮于輔はその衆を率いて朝廷に帰順する使者を朝廷に送った。献帝けんていは詔によって鮮于輔を建忠将軍に任命し、幽州六郡を都督させた。


 以前、烏桓王・丘力居きょうりきょが死んだ時、子の楼班(ろはn)はまだ年少であったため、甥の蹋頓とうとんに武略があったため、蹋頓が代わりに王に立って、上谷大人・難楼なんろう、遼東大人・蘇僕延そぼくえん、右北平大人・烏延うえんらを総摂(総管)した。


 袁紹が公孫瓉を攻めると、蹋頓は烏桓を率いて袁紹を援けた。


 公孫瓉が滅んでから、袁紹は承制(皇帝の代わりに命令を出すこと)によって蹋頓、難楼、蘇僕延、烏延ら、皆に単于の印綬を賜けた。


 また、閻柔えんじゅうが烏桓の人心を得ていたため、袁紹は北辺を安定させるために、閻柔に寵慰(恩寵・慰撫)を加えた。閻柔は北の異民族を慈しむものには協力する人である。袁紹は北の異民族との付き合い方は上手かった人である。


 その後、難楼と蘇僕延が楼班を奉じて単于に立て、蹋頓を王にした。しかしやはり蹋頓が実験を握り続けた。


 このように袁紹は公孫瓚を滅ぼしつつも河北全域を支配下においた。









 張楊の将・楊醜を殺害した眭固すいこが射犬(地名)に駐屯した。


 四月、曹操そうそうは進軍して黄河に臨み、将軍・史渙しかん曹仁そうじんに命じて渡河して眭固を撃たせた。


 眭固は張楊の旧長史・薛洪せつこうと河内太守・繆尚ぼくしょうに留守させ、自ら兵を率いて北上し、袁紹に投じて救援を求めようとした。しかし、犬城で回り込んでいた史渙、曹仁と交戦して眭固は戦死した。


 曹操が黄河を渡って射犬を包囲した。射犬を守っていた薛洪と繆尚は衆を率いて曹操に投降し、列侯に封じられた。


 曹操は敖倉に軍を還した。


 以前、曹操が兗州で魏种ぎちゅうを孝廉に挙げたことがあった。


 兗州で叛乱が起きた時、曹操はこう言った。


「魏种だけは私を棄てるはずがない」


 しかし魏种は逃走した。それを聞いた曹操は激怒し、


「魏种が南は越に走らず、北は匈奴に走らない限り、汝をあきらめることはない」


 と、必ず殺してやるという宣言した。


 そして射犬を降した際、ここに逃走していた魏种を生け捕りにした。誰もが彼が殺害されると思っている中、曹操は、


「その才だけがあればいい」


 と言い、彼を縛っていた縄を解いて河内太守に任命して河北の政務を委ねた。


 袁術えんじゅつは帝を称してから淫侈(奢侈)がますます甚だしくなり、姫妾が数百人に上り、精美な絹織物を重ねて着ない者はなく、豪勢な食事でも厭きて嫌うほどであった。


 しかし下の者が飢困しても救済することはなかった。


 そんな袁術も陳で曹操に敗れてから徐々に困窮した。やがて物資を使い果たして、自立できなくなった。


 そこで宮室を焼きはらい、灊山に奔って部曲の陳簡ちんらん雷薄らいほを頼った。ところが陳簡らに拒まれたため袁術は大いに困窮し、士卒が離散逃走した。


 袁術は憂懣(憂慮憤懣)するだけで為す術がなくなり、ついに使者を送って帝号を従兄の袁紹に帰し、こう言った。


「福が漢室を去って久しくなります。袁氏は命を受けて王になるべきであり、符瑞が炳然(明らかな様子)としています。今、あなたは四州(青・冀・幽・并)を擁有し、人戸が百万を数えるため、謹んで大命を帰します。あなたがこれを興隆させてください」


 袁紹は哀れんだのか。息子の袁譚えんたんに青州から袁術を迎えに行かせた。袁術は下邳の北を通ろうとした。


 それを知った曹操がこれを許すわけもなく、劉備と将軍・朱霊しゅれいに袁術を迎撃させることにした。


 朱霊は字は文博という。元々袁紹の元にいたという特殊な経歴を持っている男である。


 袁紹が公孫瓚と対立している中、清河の季雍きようという者が、鄃県を挙げて袁紹に叛き公孫瓚に付いた。そのため袁紹は朱霊に季雍を攻撃させた。


 実はこの時、朱霊の家族は城中にいた。そのため公孫瓚は朱霊の母と弟を城壁に置いて朱霊を誘引しようとした。しかし朱霊は涙を流し、


「男が一度身を人に差し出した以上、どうして家族を顧みる事があろうか」


 と言い、力戦して季雍を捕虜とした。しかしながら彼の家族は残らず殺された。こう考えるとこの人の性質は私情よりも職務を優先する人物であるということが見える。しかしながら彼がそうかと言われると違うと言える。いや正確に言えば、この一件で彼はたかが外れてしまい、その性質に変化が生まれたかもしれない。


 曹操が徐州征伐を行う際、袁紹は朱霊を含めた諸将に援軍として向かわせた。さて、曹操の徐州征伐は復讐戦であることから徐州の民衆を虐殺してまわった。その虐殺に朱霊は喜々として参加して戦功を立てた。どうも彼は家族の殺された姿を見て、心に大きなひびが入ってしまった。そのためか虐殺行為に喜々として参加するようになったのである。


 更にはこの徐州征伐の後、朱霊は配下の軍と共になんと曹操に鞍替えしたのである。先ほどの私情よりも職務を優先する性質の人の行動かと言うと首を傾げる行為である。しかも配下まで引き抜いているのである。


 袁紹の家族が囚われているにいるにも関わらず、季雍を攻めさせた袁紹のあり方に不満を持っていたというのもあるが、彼は曹操の虐殺に今後も参加させてもらいたいと思ったため、彼は曹操に鞍替えしたのである。


 曹操の元で朱霊は特に虐殺を行う際には喜々として参加し、更には虐殺の仕方があまりにも残酷行為ばかりを行うようになった。敵兵の顔の皮を剥いで周るや串刺ししまくるなどと言った虐殺行為を行っていったのである。


 これに曹操は段々と疎ましく思ったが、朱霊の戦の才覚は本物で強かった。また、以外にも配下には慕われていたというのもあり、彼を理由なく処罰するのは憚れた。そこで彼の軍を取り上げ、軍律に厳しい于禁うきんに彼を押し付けることになる。


 袁術は道を阻まれたため、再び寿春に逃走した。


 六月、袁術が江亭に至り、簀床(蓆もない粗末な寝床)に座って嘆いて言った。


「袁術ともあろう者がこうなってしまうとは」


 袁術は憤慨して病を患い、血を吐いて死んでしまった。彼は最初の段階で勤王の人として名声を得たにも関わらず、その名声を利用することができず、己の欲望に忠実でありすぎたために滅んだのである。ただ一つ評価できるところは袁紹への書簡での批難である。


 袁術の従弟・袁胤えんいんは曹操を畏れたため寿春に住もうとせず、その部曲を率い、袁術の柩と妻子を奉じて皖城の廬江太守・劉勳りゅうくんに頼った。やがて劉勳が孫策に敗れるとその袁術の妻子は孫策によって保護されることになる。


 元広陵太守・徐璆じょきゅうは袁術が所有している伝国の璽を得たため、朝廷に献上した。


 徐璆は若くから名声が知られた人である。献帝が許昌に遷都することとなった際、徐璆は廷尉に任命されて召し出されたが、その道中で袁術に抑留された。


 袁術は彼に上公の位を与えようとしたが、


「龔勝や鮑宣はどんな人物だったでしょうか。私は命を賭けて守ります」


 と、徐璆は答えたため、袁術はこれ以上無理強いできなかったが、彼は留めた。


 彼は献帝に会い、汝南太守・東海相の印綬と共に伝国璽を献帝へ返上した。司徒の趙温ちょうおんが、


「あなたは大変な災難に遭ったというのに、よく失わずに済んだものだ」


 と言うと、徐璆は、


「昔、蘇武は匈奴に抑留されながら七尺の節を失うことはありませんでした。まして一寸四方の印なら当然の事です」


 と答えた。



次回は袁紹と曹操の話。

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