十勝十敗
許に還ってきた曹操は敗北したという事実の他に心に大きな傷を残していた。何より、息子の曹昂を失ったことで、彼を溺愛していた丁夫人が悲しみのあまり曹操を罵倒したのである。
丁夫人は悲嘆に暮れるようになり、事あるごとに、
「私の子を殺しておきながら、平気な顔をしているとは」
と曹操に向かって言うようになり、その度に節度もなく号泣した。曹操はあまりにもそのように罵倒されるたため怒りを覚えていったが、それでも丁夫人を愛していたため、彼女を里に帰して彼女の気持ちが収まるのを待った。
しばらくして曹操は自ら丁夫人の家まで行き、謝して宥めて共に帰ろうとした。しかし丁夫人は彼の言葉を無視続けた。
「ならば、私たちはこれで終わりだな」
曹操はそう言って彼女の家をあとにして、そのまま離縁した。
その後、曹操の側室だった卞氏が正室になったが、卞氏はよくできた女性で、時候の挨拶を欠かさず、丁夫人に贈り物をしたり、曹操不在の時には家へ招き入れたりした。
丁夫人は身分の卑しい卞氏を見下していたが、卞氏が自分の世話をしてくれる様子に感謝の言葉を述べている。
彼女が亡くなると、許県の南部に葬られた。曹操は晩年にこう言っている。
「もし霊魂というものがあるのならば、昂に『私の母はどこにいますか』と尋ねられや時、私は何と答えたらよいのであろうか」
曹昂の死は曹操にあまりにも大きな心の傷を与えたと言っていいだろう。
そんな中、袁紹が曹操に書を送っていた。その書の辞語は驕慢そのものであった。これには心に大きな傷を得てしまった曹操は激怒し、荀彧と郭嘉に問うた。
「今から不義を討つつもりだが力が敵わない。如何するべきか?」
と言った。すると荀彧はこう答えた。
「高祖と項羽の力が対等ではなかったことは公も知っていることです。高祖はただ智が項羽に勝っていたため、項羽は強くても、最後は虜になったのです。今、袁紹には十敗(十の短所)があり、公には十勝(十の長所)がありますので、たとえ袁紹が強くても、何も為すことができません」
劉邦でさえ、項羽よりも優れていた部分が一つあったために勝てたにも関わらず、曹操には多く上回っている部分があるのであるから勝てると荀彧は言ったのである。
「袁紹は礼が繁多で儀が多いのに対し、公は状態を自然に任せています。これは道が勝っているのです。袁紹が兵を動かしたら叛逆になりますが、公は天子を奉じて天下を率いているため道理に順じています。これにより義が勝っています。桓・霊以来、政が綱紀が弛緩しています。袁紹は寛容によって弛緩した政治を救おうとしているので整っていません。公は猛によってこれを正しているので、上下が制を知っています。これにより治が勝っています。袁紹は外見は寛容ですが内心は疑い深いため、人を用いても疑っており、本当に信任しているのは親戚や子弟だけです。公は外見は簡易ですが内は英明で、人を用いても疑うことなく、才能があって相応しい人材なら遠近を隔てずに用いています。これにより度量が勝っています。袁紹は策謀が多いものの決断は少なく、事に機会を逃して失敗しています。公は策を得れば、すぐに行い、臨機応変で極まることがありません。これにより謀が勝っています。袁紹は高明な議論と礼節によって名誉を収めているため、士の中でも好言飾外の者(口が達者で外を飾っている者)が多く帰しています。公は誠心によって人を遇し、虚美を為さないため、士の中でも忠正遠見で実がある者が皆、役に立ちたいと願っています。これにより徳が勝っています。袁紹は人が飢寒しているのを見たら恤念(憐憫、同情)して顔色に表しますが、見えないことに対しては、考慮が及ばないこともあります。公は目前の小事に対しては疎かにすることがありますが、大事に至っては天下に行き届き、人々に加える恩は皆その望を越えていましたので、たとえ見えないことでも考慮が行き届かないことはありません。これにより仁が勝っています。袁紹の大臣は権を争い、讒言によって惑乱しています。公は道によって下を御しており、讒言が行われません。これにより明が勝っています。袁紹は是非を知ることができませんが、公は是とすることなら礼をもって推奨し、非とすることなら法をもって正しています。これにより規律が勝っています。袁紹は虚勢を為すことを好み、用兵の要を知りません。公は少によって衆に克ち、用兵は神のようであるため、将兵が信頼し、敵がこれを畏れています。これにより武が勝っているのです」
曹操は笑って言った。
「あなたの言葉のようであるならば、私にどのような徳があればあなたの言葉の通りになれるだろう。私には徳が足りない」
荀彧の言葉は褒めすぎている部分があると曹操にはわかっていた。しかしながら少なくとも曹操の機嫌は良くなった。
そんな中、郭嘉が言った。
「袁紹は北の公孫瓉を攻撃しているところだ。我々はその遠征に乗じて東の呂布を取るべきであろう。もし袁紹が寇を為して呂布がそれを援ければ、深い害になるからな」
荀彧も同意するように言った。
「先に呂布を取らなければ、河北はまだ容易に図ることができないでしょう」
二人の言葉に曹操は頷きながらも言った。
「その通りだ。しかし私が躊躇するのは、袁紹が関中を侵犯し、西は羌・胡を乱し、南は蜀漢を誘うことを恐れている。そうなったら私は兗・豫だけをもって天下の六分の五と対抗することになる。如何するべきか?」
荀彧はこう述べた。
「関中の将帥は十を数え、一つになることができません。ただその中で韓遂と馬騰が最強です。彼らは山東が争っているのを見て、必ずそれぞれ衆を擁して自分を保とうとします。今、もし恩徳によって慰撫し、使者を派遣して連和すれば、たとえ久しく安んじることはできなくても、公が山東を安定させるまで動かないようにすることができましょう。侍中・尚書僕射・鍾繇には智謀がありますので、彼に西事を委ねれば、公は憂いがなくなります」
曹操は荀彧の言葉に従い、上表して鐘繇を侍中・守司隸校尉に任命し、符節を持って関中諸軍を監督させることにした。また、特別に科制(法令・制度)の拘束を受けないという特権を与えた。
鐘繇は長安に到着すると馬騰、韓遂等に書を送って禍福を述べた。馬騰、韓遂はそれぞれ自分の子を人質として朝廷に仕えさせた。
この後、しばらくの間、鐘繇は西方で混乱を起こさせずに曹操になんらの心配をさせなかったのだから彼の功績はとても大きいと言えるだろう。
曹操が袁紹への対抗する準備を整える中、新たな皇帝が誕生していた。
次回は袁術と呂布サイドの話。