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三国志  作者: 大田牛二
第三章 弱肉強食
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屯田

 荀攸じゅんゆう郭嘉かくかの他にも曹操そうそうの元に人材が集まってきたため、曹操は次々と彼らに役職を与えていった。


 その一人である山陽の人・満寵まんちょうを許令に任命した。


 彼は身長が八尺(約190センチ)あった大男である。十八歳の時に県の役人(督郵)になった。郡内で私兵を率いて乱暴していた李朔りさくという人物は、彼が役人になって政務を撮り始めると二度と乱暴しなくなった。


 高平県令を代行した際、督郵・張苞ちょうほうの横暴を見てこれを逮捕し、その場で取り調べを終えた上で、そのまま自ら官職を捨てて帰郷した。

 

 そんな彼の噂を聞いて曹操は彼を招いたのである。


 さっそく満寵は職務を果たした。曹操の従弟・曹洪そうこうに賓客がおり、その賓客が許県でしばしば法を犯したため、満寵は全くと言っていいほどに躊躇せずに逮捕した。


 これを知った曹洪は書を送って満寵に釈放を求めたが、満寵は聴かなかった。怒った曹洪は曹操に報告した。曹洪は曹操の危機を救った人である。恩義のある彼の願いを聞き届けたい曹操は許県の主者(主史。主な官員)を招くことにした。事情をしっかり把握したいと思ったためであろう。


 満寵はこのままでは賓客を釈放させることになると判断し、すぐに殺した。


 これを知った曹操は喜んで、


「事に当たる者はこのようでなければならない」


 と言った。曹操は彼の判断から彼が法に対して公明正大であることを理解したためである。


 曹操の元に逃れてきた者もいる。孔融である。彼のこれまで何をしていたかを説明する。


 北海太守を勤めていた孔融という人は高気(非凡な才気)を自負し、志は靖難(禍乱を平定すること)にあったが、抱負が大きくても能力に限りがあったため、結局功を成せなかった。彼は高談清教(立派な言論や教え)が官曹(官府)に満ち溢れ、辞気(口調。言辞の雰囲気)が清雅で、遊びながら自由に経典を諳んじることができたが、事を論じて実情を考証するのはことごとく困難で、法令を広く張るだけで、自ら理すのは甚だ疎かでした。そのため、短い間は人心を得られたが、久しくなると人々が帰附しなくなった。そのように『資治通鑑』には書かれている。


 孔融は奇異な者を選んで用いたが、多くが剽軽(軽率。軽薄)な小才な人ばかりであった。そんな中でも優れた人はいた。


 彼は名儒・鄭玄じょうげんに尊事していた。自ら子孫の礼を執り(子や孫が父や祖父につかえる礼で接し)、鄭玄の郷名を鄭公郷に改めるほどであった。この際、こう述べている。


「昔、斉は士郷を置き、越には君子軍がいたものだ。皆、賢人を常人とは異ならせるためである。太史公、廷尉・呉公、謁者僕射・鄧公は皆、漢の名臣であった。また、南山四皓には園公、夏黄公がおり、代々その高節を嘉して皆、公と称してきた。よって公というのは仁徳の正号であり、皆が三事大夫(三公)である必要はない。今から、鄭君の郷を鄭公郷と呼ぶべきである」


 清儁(清廉英俊)の士・左承祖さじょうしょ劉義遜りゅうぎそんらが孔融によって座席を準備された。しかし彼らは席にいるだけで、孔融が彼等と政事を論じることはなかった。何のためにいるのかわからないなか、孔融はこう言っている。


「彼らは民の望だ。失ってはならない」


 つくづくよくわからない人である。


 黄巾賊との戦いでは孔融は戦に敗れて敗走するばかりで都昌(県名)を守るだけであった。戦の才能は全く彼にはなかったのである。


 当時は袁紹えんしょう、曹操、公孫瓉こうそんさんが周辺に連なっていたが、孔融は兵が弱くて食糧も少ないにも関わらず、誰とも通じようとしなかった。


 左承祖が孔融に、


「自ら強国に託すべきです」


 と勧めたが、孔融は進言を聞かず、逆に左承祖を殺した。民の望となる人材とはなんだったのか。彼はそんな人材を有効活用するどころかそのまま殺してしまった。


 劉義遜は恐れて、孔融を棄てて去った。


 やがて青州刺史・袁譚えんたんが孔融を攻め、春から夏に至った。残った戦士は数百人だけとなり、流矢が飛び交ったが、孔融は几(机)にもたれかかって読書し、普段と同じように談笑するばかりであった。


 夜、城が陥落したため、孔融は東山に奔った。妻子は袁譚に捕えられた。


 曹操はそんな孔融と旧知だったため、保護し彼を将作大匠にしたのである。

 

 袁譚が青州に入ったばかりの時は、黄河から西の土地は平原を越えなかったが、北は田楷でんかい(公孫瓉に任命された青州刺史)を撃ち、東は孔融を破ったため、威恵が甚だ知れ渡った(威恵甚著)。


 しかし後に群小を信任し、欲求を恣にして驕奢淫逸に振る舞ったため、声望が衰えた。調子に乗りすぎたのであろう。


 中平(霊帝の年号)以来、天下が荒乱に遭い、人々が混乱分離して、民は農業を棄てて放浪していた。


 諸軍が並び起ったが、ほとんどの勢力で糧穀が欠乏しており、終歳の計(年を越える計)がなく、飢えたら寇掠(侵略・略奪)して満腹になったら残った物を棄てていた。


 そのため軍が瓦解流離し、敵がいないのに自ら破れた者は数え切れなかった。


 この時代の人々がどんなものを主に食料にしていたのかという貴重な記録が書かれている。河北にいる袁紹郡の軍人は桑椹(桑の実)に頼って食糧にしていたという。江淮にいる袁術えんじゅつの軍人は蒲蠃ハマグリを取って食糧として供給していた。


 これらのことからわかることは本来は民衆の主な食料となっていた食料を自分たちの食糧不足を解消するためにそれぞれの勢力は養っていたということである。そのためますます民の多くが飢えて互いに食しあい、州里が蕭條(寂寥。荒廃の様子)としていった。


 この状況のなか、羽林監・棗祗そうし韓浩かんこうらが屯田を置くことを建議した。屯田とは兵士に新しく耕地を開墾させ、平時は農業を行って自らを養い、戦時には軍隊に従事させる制度のことである。またその場所や地域のことを言う。


 曹操はこれに従って棗祗を屯田都尉に任命し、騎都尉・任峻じんしゅんを典農中郎将に任命し、言った。


「定国の術とは彊兵足食(強兵と食糧を満たすこと)にある。秦人は急農(重農。農業を急務とすること)によって天下を兼併し、武帝は屯田によって西域を定めた。これは先代の良式(良い模範)である」


 曹操は民を募って許下で屯田させ、穀物百万斛を得た。


 そこで州郡にも規定に基づいて田官を置き、田官が置かれた場所では穀物が蓄積され、倉庫が全て満たされていった。


 こうして曹操が四方を征伐する時は食糧を運ぶ労がなくなり、そのおかげで群雄を兼併できる力を持ち始めたのである。


 棗祗と任峻は早くに世を去ったため彼らの記録は少ないが、曹操軍と国の饒(富裕)は棗祗によって始まり、任峻によって完成したと言えるだろう。


 もう少し記録があっても良い人物たちであった。




次回はやっとまともに出会った劉備と曹操。

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