皇帝になりたい男
当時、「漢に代わるのは当塗高」という予言があった。
この予言に対し、袁術は自分の名と字がこれに当て嵌っていると思った。。
少し解説がいる。
「塗」は「途」に通じ、「道」を意味する。「当塗高」は「道に当たって高くなる(「当道」は「道中にいること」、または「執政」「権力を握ること」)」という意味がある。胡三省は実際は魏を指しているとしている。
また、宮門の両側に建てられた楼(両観闕)を「象魏」といい、道に当たって広大なものは象魏(魏)であることから「当塗高」は「魏」を指すという説もある。
しかし袁術は「当塗高」が自分を指していると考えた。「術」は本来、城邑内の道を意味し、字の「公路」も道を意味するからである。
更に、袁氏は春秋時代の陳の大夫・轅濤塗の子孫で、陳は舜(土徳の帝王)の子孫の国であった。
そこで袁術は五行相生の思想に則って、黄(土徳の舜)が赤(火徳の漢)に代わるのは徳運の次(秩序)だと考えた。
こうしたことから、袁術はついに叛逆の謀を抱くようになり、孫堅が伝国の璽を得た際、孫堅の妻を拘留して璽を奪っている。
天子が曹陽で敗れたと聞くと、袁術は群下を集めて尊号を称すことを議論させた。しかし臣下たちで敢えて答えようとする者はいなかった。
袁術は勤王の人として評判であったにも関わらず、皇帝になろうとしていることに困惑している者や、今の段階で皇帝になろうとすれば、群雄に大義名分を与えてしまうと考える者もいた。その誰もが袁術が皇帝になろうとすることは時期少々であるというのが共通の考えであった。
そんな中、主簿・閻象が進み出て言った。
「昔、周は后稷から文王に至るまで、徳を積んで功を重ねてきましたが、天下を三分してその二を有しても、なお商に仕えました。将軍の家は代々繁栄して参りましたが、周の興盛には及びません。漢室は衰微しましたが、商の紂王の暴政ほどひどくはありません」
袁術は黙ったまま何も言わなかった。
自分の野望が支持されなかった袁術はなんとかして支持を受けたいと思い、処士・張範を招聘しようとした。何かしらの努力もしようとせずに皇帝になりたいと願うところにこの男の愚かさがある。
張範という人は祖父、父が三公になったことのあり、彼も有名で落ち着いた性格で、道家思想に興味がある人であったという。この袁術からの招きに張範は応じず、弟の張承を送って謝意を伝えることにした。張承も兄と同じく天下に知られた人物である。しかしながら兄と比べると血の気のある人でもある。
董卓が朝廷を専横するようになった際、挙兵して董卓を滅ぼそうとしたのを弟の張昭(孫策の元にいる張昭とは別人)に止められている。
そんな張承が訪れると袁術は彼に問うた。
「私は広い土地と大勢の士民によって斉の桓公の福を求め、高祖・劉邦の足跡を真似したいと欲するが、如何だ?」
張承はこう答えた。
「重要なのは徳であって強いことではありません。徳によって天下の希望に順じれば、匹夫の資(資本。力)によって霸王の功を興すのも、困難とするには足りません。しかしもし越権しようとして時勢を侵して動けば、衆に棄てられることになりますので、誰がこれを興せるでしょうか」
袁術は不快になった。
また、孫策は袁術のこの動きに対して書を送り、譴責した。
「湯王が桀王を討った時は『夏に多くの罪がある』と称し、武王が紂王を伐った時は『商に重罪がある』と言いました。この二主は確かに聖徳がありましたが、もしも当時、桀・紂に道を失うという過ちがなければ、逼迫して天下を取る理由はありませんでした。今、主上(献帝)は天下に対して悪があるわけではなく、幼小というだけで強臣に脅かされており、湯・武の時とは異なっております。そもそも、かつて董卓は貪淫驕陵(貪欲かつ驕慢横暴)で志に限度がありませんでしたが、主を廃して自ら興るということはまだありませんでした。それにも関わらず、天下が同心になってこれを憎んだのです。それを真似て更にひどくしたらなおさらです。また、幼主は明智聡敏で、夙成(早成)の徳があると聞いております。天下はまだその恩を被っていませんが、全て帰心しています。あなたの家は五世に渡って漢の宰輔になり、栄寵の盛を比べられる者はいません。忠を尽くして節を守ることで、王室に報いるべきです。これが旦・奭(周の周公と召公)の美であり、天下が望むことです。時の人は多くが図緯の言に惑わされ、非類の文(恐らく経典以外の文章を指す)を妄らに引用し、とりあえず主を悦ばせることを美行として成敗の計を顧みませんでしたが、これは古今が慎むことであり、熟慮しないわけにはいきません。忠言は耳に逆らい、駮議(駁議。反対意見)は憎しみを招くものですが、あなたに対して益があるのならば、敢えて辞すことはありません」
因みにこの書の内容は孫策が張紘に書かせたという説と、張昭の言葉であるという説がある。裴松之は、
「張昭の方が名声が重いが、張紘の文才に及ばなかった。この書は張紘のものに違いないだろう」
と述べている。無難に張紘であろう。
袁術は自分が淮南の衆を擁しているため、孫策も必ずや自分に合流すると思っていた。
孫策の書を得ると、愁沮(憂愁・失望)して病を患ったというが、実に行き過ぎた表現であろう。
孫策は袁術が諫言を受け入れなかったため、関係を絶った。孫策からすれば袁術から離れるための良い理由ができたと思ってほくそ笑んだだろう。
袁術は天下に対して勤王の人であるという名声があった。袁紹に比べれば、その名声は本来、彼に有利になったはずであった。それにも関わらず、彼は己の我欲を抑えなかったことで彼の正体を天下の人々に見破られ、人々の心は離れていった。
袁術は天下を取るにしては我慢が足りず、己の感情を表に出し過ぎたと言える。天下を得るには忍耐も必要である。そのことを彼は最後まで理解できなかった。
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次回は献帝サイドと曹操サイドの話。