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三国志  作者: 大田牛二
第三章 弱肉強食
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公孫瓉

董昭って少しオーベルシュタインに似ているような気がする。

 公孫瓉こうそんさんは劉虞を殺してから幽州の地を全て有し、支配力を強めた。同時に傲慢さも増したようである。彼は自分の才力に頼って百姓を慈しまず、過(人の過失)は記憶しても善(善行、長所)は忘れ、睚眦(些細な怒り)にも必ず報いた。

 

 更に衣冠の善士(優れた世族、士人)で名が公孫瓉の上にある者は必ず法を使って害し、才能があって優秀な者は必ず抑困(抑圧)して窮苦の地に居させるようにした。


 このような政治を行うことに公孫瓚の元で働いてきた者たちの誰もが困惑した。特に彼の若い頃を知っている者ほど困惑した。


 劉備りゅうびから離れ、公孫瓚の元に居残った田豫でんよもその一人である。彼は勇気を出して公孫瓚にこのような政治を行う理由を問うた。すると公孫瓉はこう答えた。


「衣冠を身に付ける者は皆、自分がその能力によって尊貴になるのは当然だと思っており、人の恵みに感謝することがないからだ」


(人という者はこれほど醜くなるものなのか)


 公孫瓚の若い頃はどんな人に対しても明るく人に接しそれでありながら弱きを守る心を持ち、人々を率いることのできる器のある人だった。劉備りゅうびを始め、故郷の人々はその背中を追って歩んでいたものである。


(劉備さん……)


 あの人は誰よりも早く公孫瓚の変わりように気づいた人だったのかもしれない。だからこそあの人は公孫瓚から離れることに躊躇しなかった。


(あなたは私を引き止めてはくれなかった)


 公孫瓚の変貌ぶりを理解しながらも自分が公孫瓚の元に残ると告げた時、劉備は自分を止めてはくれなかった。このことは田豫の心の深い傷になっていた。


(あの人にとって私はいらない人であり、公孫瓚という醜い人の元にいることが相応しいと思われたのだろう)


 母親のことは本当であった。それでも劉備に引き止めて欲しかった。一緒に志を果たすためにいてほしいと言って欲しかった。


(今更だがな……)


 田豫は冷めた笑いをしながら公孫瓚の元で目立たないようにした。

 

 公孫瓉の寵愛した者の多くが商販、庸人の類で、彼らと兄弟になり、あるいは婚姻を結び、いたる所で侵暴(侵犯暴虐)したため、百姓がこれを怨んでいる。やがて公孫瓚への不満が爆発するだろう。


 それに巻き込まれたくはなかったのである。


(それでもこのまま私は朽ちていくのだろうか)


 劉備という麒麟の尾から叩き落されてしまった自分は高みに行くことは無いだろう。


 田豫はそう思っていた劉備は英雄であると彼は信じた一人なのである。だが、彼は知らない。英雄が一人では無いということを、その英雄が自分を認めてくれることを、その第一歩となるきっかけはすぐにも訪れようとしていることを。

 

 元劉虞の従事・鮮于輔せんうほらが州兵を合わせて統率し、共に仇に報いようと欲して挙兵したのである。その鮮于輔に田豫は招かれた。


「私は燕の人・閻柔えんじゅうに以前から恩信(恩徳信義)があり、我々は閻柔を烏桓司馬も推して彼と協力して公孫瓚への復讐を果たしたいと考えている。君もできれば我々に協力してもらいたい。これは君と友誼を持つ者としての言葉である。しかし断っても私は恨まないことだけはここに記しておくことにする」


 この誘いに田豫は乗ることにした。公孫瓚に未来を感じないというのもあるが今の自分を必要としている者の元で働きたいという思いもあった。


 さて、鮮于輔がお仕上げた閻柔という人には実は面白い経歴がある。


 若い頃、烏桓や鮮卑などの北方民族に捕らわれたことがあるというのである。普通ならば殺されて野に打ち捨てられるのだが、閻柔はなぜか捕らわれたにも関わらず、逆に彼ら異民族と親密となり、殺されるどころか尊重されるようになった。


 更にはその後、鮮卑族と共に烏桓校尉の邢挙を殺害し、その位を奪ったりしている。


 そんな常識はずれの人を鮮于輔が頼ったのはそんな異民族との関係を結ぶ彼の人脈をもって公孫瓚に対抗するためである。その考えのとおり、閻柔は胡・漢数万人を誘って招き、公孫瓉が置いた漁陽太守・鄒丹すううたんと潞北で戦って鄒丹ら四千余級を斬るという大戦果を挙げてみせた。


「おひょひょひょひょ勝ったぜぇ、みんな受け取りな」


 閻柔は集まってくれた者たちに手に入れた金品財宝をばら撒いていく。それでありながら自分はなんもいらないという。


「私はなんもいらん。お前たちと騒げれば良いさあ」


 そう言って彼は彼らと酒盛りをする。こういう人である。

 

 彼の要請を受けて烏桓峭王も族人および鮮卑七千余騎を率い、鮮于輔に従って南下した。劉虞の子・劉和りゅうわ袁紹えんしょうが派遣した将・麴義きくぎを迎え、合計十万の兵で共に公孫瓉を攻撃し、鮑丘(鮑丘(水)は川の名。潞水ともいう)で破って二万余級を斬首した。

 

 この後、代郡、広陽、上谷、右北平がそれぞれ公孫瓉に任命された長吏を殺し、鮮于輔や劉和と兵を合わせた。

 

 公孫瓉軍は連戦連敗していった。

 

 これ以前にある童謠が流行っていた。


「燕は南垂(南界)、趙は北際(北界)。中央は合わず大きさは砥石のよう。ただこの中だけが世を避けられる」


 公孫瓉はこの童謡が指しているのは易(地名)の地であると考え、拠点を易に遷した。そこで十重の堀を造り、塹の内側に京(土丘を)築いた。京の高さは全て五六丈あり、更にその上に楼を築いた。

 

 中塹(中心の堀)に造った京だけは高さが十丈もあり、公孫瓉自らここに住んだ。鉄で門を造り、左右の者を去らせ、七歳以上の男は門に入れないようにして姫妾だけと生活した。

 

 文簿・書記(文書や報告書)は全て縄を使って上に引き上げられた。

 

 また、婦人に大声を出す練習をさせ、数百歩離れていても声が聞こえるようにして命令を伝達できるようにした。

 

 公孫瓉は賓客を疎遠にしていったため、親信する者がいなくなった。そのため謀臣や猛将が揃っていたにも関わらず、公孫瓚からしだいに離れていった。


 この後、公孫瓉はほとんど攻戦しなくなった。

 

 ある人が理由を問うと、公孫瓉はこう言った。


「私は昔、塞表(塞外)で畔胡(謀反した胡人)を駆逐し、孟津で黄巾を掃討した。まさにその時は、一度指揮を出すだけで天下を平定できると思っていたものだ。しかし今日に至っても戦争はまだ始まったばかりだ。これを観ると、天下の情勢は私が決することではない。兵を休めて農耕に尽力し、不作から救った方がましである。兵法においては、百楼は攻めないものだ。今、我が諸営の楼樐(櫓)は数十重もあり、積穀(貯蓄した穀物)は三百万斛に上る。この穀物を食べ尽くすだけの時間があれば、天下の事(情勢の変化)を待つのに足りるだろう」


 つまりは勝てなくなって引きこもっているうちに良い感じにならないかなという楽観的なものに過ぎない。


 かつて北方の大地で北の異民族と勇ましく戦っていた公孫瓚の姿はもはやなかった。



次回は劉備サイドと呂布サイドの話。

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