臧洪
雍丘に篭る張超を包囲してしばらくしてから曹操が張邈の死を知った。
「張邈……」
彼とは硬い絆でつながった友であった。その彼がなぜ裏切ったのか未だにわからない。信用も信頼もした。それにも関わらず、彼は裏切った。
「なぜだ。なぜ裏切った……」
なぜ、一緒に同じ道を歩んではくれなかったのか……
「今は張超だ」
曹操は包囲攻撃を激した。
孤立無援の張超は奮闘しながらこう言った。
「臧洪だけは私を救いに来るはずだ」
臧洪という人は体格・容貌ともに優れていると評判で、孝廉に挙げられ郎となり、県令に任命されたことのある男である。このとき同時に任命された人物として、王朗・劉繇・趙昱の名が挙がっている。臧洪は即丘県令に任じられた。
霊帝の末年に官位を捨て故郷に帰ったが、張超に才能を評価され、郡の功曹となって太守の実務を執った。
董卓が朝廷を牛耳り皇帝を殺害すると、臧洪は張超に決起を促した。張超はその発言を取り入れ、兄の張邈のところに向かい挙兵の相談をし、張邈も元々そのような意向であったため、共に義兵を挙げた。
張邈は兵を率いて、味方の諸侯らと酸棗の地で合流した。そこで張邈が、
「臧洪に広陵の政務のほとんどを委ねているのは何故か」
と問われると、張超は、
「臧洪の才能と知略を重んじているからです」
と述べた。それを受けて張邈も臧洪と面会すると彼が大変優れた人物であることを認めたという。
劉岱・孔伷らの諸侯とも親しい間柄であったため、橋瑁を含む義兵を挙げた諸侯は盟約を結ぶ場で、誓約の言葉を述べる役割を互いに譲り合った末、皆揃って臧洪に委ねた。臧洪はその役割を立派に果たし、周囲を感動させたという。
しかしながらその連合は董卓とまとも戦うことなく解散することになったのだから感動したと言っても形だけであったのは確かであろう。
その後、張超は劉虞への使者として臧洪を遣わした。しかし臧洪は、河間まで来たところで袁紹と公孫瓚が戦闘をしていたため、任務を果たすことができなかった。
そこで臧洪が袁紹と会見すると、袁紹も臧洪が気に入ったため、互いに友好関係を結ぶことにした。このとき、青州刺史の焦和が亡くなっていたため、袁紹にその後任として青州の統治と軍隊の鎮撫を任すように命じた。当時の青州は、前任の焦和が盗賊に対処できなかったため荒れ果てていた。しかし、臧洪は在任していた二年の間に盗賊を鎮圧した。
このことで袁紹に能力を買われた臧洪は、兗州の東郡太守に任命されたため、東武陽に移り住んでいた。
人々は張超に言った。
「袁・曹は和睦しており、臧洪は袁紹によって寵愛されているため、友好を破って禍を招くはずがありません」
しかし、張超は言った。
「子源(臧洪の字)は天下の義士である。最後は本に背くことはない。ただ恐れるのは、袁紹に制されて間に合わなくなることだけだ」
事実、臧洪は彼を助けるために行動していた。徒跣(裸足)で号泣して袁紹に兵を出すように請い、張超の難に赴こうとしたのである。しかし袁紹は兵を与えなかった。
臧洪はならばと自ら管轄下の兵を率いて行こうとしたが、袁紹はやはり許可しなかった。
その間に雍丘が陥落した。張超は自殺した。曹操は張超の三族を皆殺しにした。張邈の妻子と言えども、彼は容赦しなかった。
「禍根は断たなければならない。裏切りを行った者の家族ならば尚更である」
皆殺しの際に曹操はこう言った。しかしながら彼の本心なのだろうか・
もしかすれば彼は張邈が裏切った理由を張超に聞きたかったのかもしれない。しかし曹操を嘲笑うかの如く、彼は自殺してしまった。死人に口なし。張邈の裏切りの真相を知ることができなかった苛立ちがこの曹操の行動に移させたのかもしれない。
曹操は一生、張邈が裏切った理由を知ることはなかった。
張超を助けることのできなかった臧洪は袁紹を怨んで関係を絶った。そこで袁紹が兵を興して臧洪を包囲したが、年を経ても下せなかった。
袁紹はこれほど苦戦すると思っていなかったことから臧洪の邑人・陳琳に命じ、書信を送って諭させることにした。
臧洪が返書を送って陳琳にこう言った。
「僕は小人であり、元から志用(器量と見識)に欠けていた。しかし公務が縁で主人に出会うことができ、恩が深く情誼が厚くなったため、この冀州で官職を得ることができた。どうして自ら喜んで武器を持って逆らうだろうか。任を受けたばかりの時、私自身は大事を徹底して共に王室を尊重できると思った。その時は故郷の州が侵略されるとは思いもよらなかった。張超が禍に遭ったため、軍を請うたが拒まれ、別れを告げて出発しようとすれば、拘束され、僕の故君を滅亡に至らせることになり、小さな微節も発揮できなかった。どうしてまた陳琳との交友の道を全うし、重ねて忠孝の名を損なうことができるだろうか。これが悲痛を忍んで戈を揮い、涙を収めて別れを告げる理由だ。これで別れだ、孔璋(陳琳の字)。あなたは境外で利を求めるといい。僕は君主に命を投じる。あなたは袁紹に身を託せ。僕は長安に策名する(「策名」は名簿に名を留めて忠誠を誓うこと。長安には献帝がいるので、朝廷に忠誠を誓うという意志を示している)。あなたは僕の身が死んで名が滅ぶと言うが、僕もあなたが生きながら名声がないことを笑うだけだ」
臧洪の書を見た袁紹は投降の意がないと知り、兵を増やして急攻した。
城中の糧穀が既に尽き、外にも強力な救援がいないため、臧洪は禍から免れられないと判断し、そこで将吏・士民を呼んで言った。
「袁氏は無道で謀反を図っており、しかも僕の主を救わなかった。僕は大義において死なないわけにはいかない。しかし諸君は理由が無いのに空しくこの禍に関与していることは問題だと思っている。城が敗れる前に、妻子を連れて脱出するべきだ」
皆が涙を流して言った。
「あなた様と袁氏は本来怨隙がないのに、今、朝廷の太守のために、自ら残困(敗残困窮)をもたらしました。吏民がどうしてあなた様を捨てて去ることを忍べましょうか」
城内の人々は、初めは鼠を掘ったり筋角(動物の筋や角。弓に使う)を煮て食べていたが、後には食べられる物が無くなった。
主簿が内厨に三升の米があると報告し、一部を使って饘粥(粥)を作ることを請うた。
臧洪は嘆いて、
「どうして一人でこれを味わえるだろうか」
と言い、薄糜(薄い粥)を作らせて遍く士衆に分け与えた。更には愛妾を殺して将士に与えていった。
将士は皆、涕を流し、頭を挙げて仰ぎ見ることができなくなった。
食糧が無くなり男女七八千人が枕を連ねて死んでいったが、離叛する者はいなかった。
壮絶な光景がここにあったと言えるだろう。
だが、ついに城は陥落し、臧洪は生け捕りにされた。
袁紹は諸将を集めてから臧洪に会い、こう問うた。
「臧洪よ、なぜこのように背いたのか。今日は服したか?」
臧洪は地面に坐って目を見開き、こう答えた。
「諸袁は漢に仕え、四世五公が恩を受けたと言うべきなのに、今、王室が衰弱してみれば、補佐の意が無く、この機に乗じて叛逆を望み、多くの忠良を殺すことで姦威を立てている。僕は自ら貴様が張陳留(張超の兄・張邈)を兄と呼ぶのを見た。それならば僕の張超も汝の弟であり、共に力を尽くして国のために害を除くべきであるのに、どうして衆を擁して人が屠滅(殺し尽くすこと)するのを観ていたのか。僕は自分の力が劣り、推刃(刀剣で刺殺すること)して天下のために仇に報いられなかったことを惜しむだけだ。なぜ服したかと聞くのか」
袁紹は元々臧洪を許したいと考えていた。しかし臧洪の言葉が激切だったため、自分に用いられることはないと知り、殺すことにした。自分を愛さない者を信用しないのが袁紹である。
臧洪の邑人・陳容は若い頃から臧洪に親しみ慕っていた。
この時、袁紹の元で同席していたため、立ち上がって袁紹に言った。
「将軍は大事を挙げて天下のために暴を除こうと欲しています。それなのに先に忠義を誅してしまえば、どうして天意に合うでしょうか。臧洪の発挙(事を挙げること)は郡将のためです。どうして彼を殺したのですか」
慚愧した袁紹は人に命じて陳容を引き出させ、
「汝は臧洪の同類ではない。空しくそのようなこと(臧洪のような発言)を繰り返しただけだ。汝の発言は意味がない」
と言った。
陳容が振り向いて言った。
「仁義の形は一つではない。これを実践すれば、君子であり、背いたら小人である。今日、臧洪と同日に死ぬことはあっても、将軍と同日に生きることはない」
陳容も殺された。
同席した者で嘆息しない者はなく、互いに隠れて、
「一日に二人の烈士を殺してしまうとは」
と呟いた。
当時、多くの人々が臧洪の忠節を称えたが、後世の明の文学者・唐順之は批難を行っている。
「友を救うこともできず、自分で功を立てることもできず、主君に貢献することもできなかった。結局、この者は何も成し得なかった。このようでは匹夫と同じである」
次回は公孫瓚サイドの話。