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三国志  作者: 大田牛二
第三章 弱肉強食

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劉繇

 劉繇りゅうようを敗走させた孫策そんさくは曲阿に入った。

 

 孫策は将士を労賜(慰労して賞賜を与えること)し、将・陳宝ちんほうを阜陵に送って母や弟を迎えた。

 

 また、恩を発する布令をして諸県に告諭した。


「劉繇、笮融さくゆうらの同郷の者と部曲の者で投降に来た者は一切不問とする。喜んで従軍する者は一家で一人が従軍すれば、その家の賦役を免除する。従軍を欲しない者も強制はしない」


 という内容である。内容は孫静そんせいが考えたものである。

 

 これの効果は絶大で、十日の間に四面から兵が雲集し、現有の兵二万余人、馬千余頭を得た。孫策の威が江東を震わせて形勢が盛んになっていった。

 

 この状況に袁術えんじゅつが上表して孫策を行殄寇将軍にした。孫策の上には自分がおり、自分の指示によって江東を得ているのだということを示すための上表である。・

 

 孫策の将・呂範りょはんが孫策に言った。


「今、将軍の事業は日に日に大きくなり、士衆も日に日に盛んになっていますが、綱紀にはまだ整っていない内容があります。私は暫く都督を担当し、将軍を輔佐してこれを処理したいと考えます」

 

 孫策は言った。


「子衡(呂範の字)は既に士大夫であり、加えて手下には既に大衆がいて、外において功を立てた(呂範は宛陵令を領して、丹陽賊を破ったこと)。どうしてまた小職に屈して軍中の些細な事を把握しなければならないのか?」

 

 呂範は毅然とこう答えた。


「それは違います。今、故郷を捨てて将軍に託したのは、妻子のためではありません。世務(世情。時勢)を救済したいと欲するからです。譬えるならば、同じ舟で海を渡るのと同じで、一事が堅固でなければ、共に失敗することになります。これは私のための計でもあり、将軍だけのためではありません」

 

 孫策は笑うだけで答えられなかった。

 

 呂範は退出してから単衣を脱いで騎服に着替え、鞭を持ち、閣下(孫策の官署)を訪ねて報告した。自ら都督を領したと称した。孫策は伝(符伝。兵符)を授けて諸事を委ねた。

 

 この後、軍中が粛睦(安寧和睦)となり、法令が大いに行われるようになった。

 

 その後、孫策は広陵の人・秦松しんしょう陳端ちんたんらも策謀に参与させ、家族が世話になった張紘ちょうこうを正議校尉に、彭城の人・張昭ちょうしょうを長史に任命した。


 孫策は張昭と張紘の二人を深く信頼しており、常にどちらか一人に留守を任せ、一人を征討に従わせるというやり方を取った。


 二人のうちの一人である張昭は字を子布といい、若い頃から学問に励み、隷書に巧みで、智謀に長けているとして評判であった。白侯子安という人物から『左氏春秋』を教授され、その他広く書物を読んで知識を深めた。やがて王朗おうろう趙昱ちょういくと並んで高い名声を得て、互いに親しく交友したという。


 二十歳前後で孝廉に推挙されたが、都に出仕しなかった。王朗と旧君の諱についての議論を交わし、陳琳ちんりんら同郷の人々の注目を集めた。その議論は『風俗通』という書籍に記録されていたという。


 陶謙から官途に就くよう茂才に推挙されたことがあった。しかし張昭がこれを拒絶した。拒絶した理由は不明であるが、孝廉と同じように若くまだまだ勉強不足であるという意識が強かったかもしれない。


 しかしながら陶謙はこれを恨み、彼を投獄した。その後、趙昱の弁護によって助けられた。


 ここで面白いのは陶謙が死去すると、張昭は陶謙のために弔辞を書いたというのである。一回、投獄した男のために弔辞を書くというのは普通に考えると頼まれても断るのが普通のように思える。しかしながら彼はそのようなことがあったとはいえ、陶謙は茂才に推挙してくれたという恩義があると思ったのかもしれない。


 ここに孫策は張昭という男に興味を覚え、彼を招いて、師友の礼(師や友に対す礼。自分に益がある人に対する礼です)で待遇し、文武の事を全て張昭に委ねた。

 

 張昭が北方の士大夫の書疏(書信)を得ると、いつも美(賛美。功績)を張昭に帰していた。

 

 それを聞いた孫策が歓笑して言った。


「昔、管仲が斉の相となり、一にも仲父、二にも仲父とされたので、桓公が霸者の宗(尊崇される存在)になった。賢人の張昭を用いることができるのだから、私が功名を得られないはずがないだろうな」

 

 孫策の元に才能が集まる中、離れてしまう者もいる。


 孫策の活躍は袁術にとってはそこまで嬉しいものではなかったようである。彼は従弟の袁胤えんいんを丹陽太守に任命し、元丹陽太守・周尚しゅうしょうに寿春への帰還を命じると共に彼の甥である周瑜しゅうゆもこちらに来るように命じた。


「すまないが……」


「構わん」


 周瑜が離れることは悲しいがここで袁術に逆らっては面倒である。周瑜は寿春へ行った。

 

 

 

 劉繇は孫策を恐れ、丹徒から会稽に奔ろうとした。

 

 すると許劭きょしょうが言った。


「会稽は富裕ですので、孫策が貪ろうとしています。しかも地の果てにあるので、行くべきではありません。豫章の方が勝っており、北は豫州の地に連なり、西は荊州に接しています。もし吏民を収集してから、朝廷に使者を派遣して貢物を献上し、曹兗州(兗州牧・曹操そうそう)と連絡を取れば、たとえ袁公路(袁術)がその間で隔てたとしても、この人は豺狼なので久しくできません。あなたは王命を受けているので、孟徳(曹操の字)も景升(劉表りゅうひょうの字)も必ず救済するでしょう」

 

 劉繇は彼の言うことであればよく聞く、これに従った。

 

 以前、陶謙が笮融さくゆうを下邳相に任命し、広陵、下邳、彭城の食糧輸送を監督させた。ところが笮融は三郡の輸送を断って全て自分の物とし、大いに浮屠祠(仏陀の祠。寺院)を建てた。この時代の中国には仏教が伝わりつつあった時代でもあった。

 

 彼は人々に仏経の誦読(朗読・暗唱)を義務付け、周辺の郡から好仏者(仏教を好む者。仏教徒)を招いて五千余戸に至った。

 

 浴仏(浴仏会。釈迦が生まれたとされる四月八日の儀式)の度に多くの飲食(宴席)を設け、路に席を並べて数十里に及んだ。その費用は巨億を数えたという。

 

 後に曹操が陶謙を撃破すると、徐州の地が不安定になった。


 そこで笮融は男女一万口を率いて広陵に走った。

 

 広陵太守・趙昱は賓礼(賓客に対す礼)によって待遇した。

 

 笮融は広陵の財貨を貪るため、酒がまわった機会に乗じて趙昱を殺した。その後、兵を放って大いに略奪し、そのまま長江を渡って薛礼を頼ったが、すぐに薛礼も殺した。

 

 劉繇が豫章太守・朱皓しゅこうを派遣し、袁術が用いた太守・諸葛玄しょかつげんを攻撃させた。

 

 諸葛玄は退いて西城を守った。

 

 劉繇が長江を遡って西上し、彭沢に駐軍した。そこで笮融を使って朱皓を助け、諸葛玄を攻めさせようとした。すると許劭が劉繇に言った。


「笮融は軍を出しますが約束を守りません。朱文明(文明は朱皓の字)は喜んで誠意によって人を信じます。秘かに警戒させるべきです」

 

 笮融が到着すると、果たして朱皓を殺し、代わりに自ら郡の政務を担当した。

 

 激怒した劉繇は進軍して笮融を討った。笮融は敗走して山に入ったが、民に殺された。


 しかしながら劉繇はこのあと、病にかかり世を去った。劉繇という人は孫策という英雄の前に敗れ続けた人であったが、最後は邪悪で残酷な男を死に追いやることに成功した。また、王朗から恩徳のあった男であったと評価されており、彼の息子である劉基りゅうきは礼儀に長けた人であったこともあり、後に孫策は彼を用い、弟の孫権そんけんも彼を尊重することになる。


 江東での孫策の対抗馬が失った中、江東の動乱に様々な勢力の介入を受けることになった。

 

 献帝けんていから詔を受けた元太傅掾・華歆かきんが豫章太守となり、丹陽都尉・朱治しゅちは孫策と別行動を取っており、呉郡太守・許貢きょこうを駆逐してその郡を占拠した。

 

 許貢は南に移動して山賊・厳白虎げんはくこを頼った。

 

 江東の動乱はますます混沌し始めていた。

 

 

次回は曹操サイドと袁紹サイドの話

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