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三国志  作者: 大田牛二
第三章 弱肉強食
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小覇王への道

 丹陽の人・朱治しゅちという人がいる。


 彼は初め県吏になり、後に孝廉に選ばれ、州に招聘されて従事になり、孫堅と出会うと彼の遠征に常に従い、功績を挙げ続けた。孫堅が死ぬと朱治は孫堅の兵を守り維持するため袁術えんじゅつを頼った。

 

 この頃、朱治は袁術の政徳が行われていないことからこの男はやがて失敗するだろうと思っていた。彼が失敗することになんの心の痛みさえ覚えないが、それに孫策そんさくが巻き込まれることはあってはならない。


 この人は袁術の元にやってきた孫策を遠くから見守っていた。下手に接触することで袁術のやっかみを孫策が受けないようにする配慮を行っていたのである。


(だが、そろそろあの方の志を大きく翼を広げさせる時である)


 朱治は孫策に会いに行き、江東に帰ってその地を占拠するように勧めた。


「今、あなた様の叔父である呉景ごけい孫賁そんふん樊能はんのう張英ちょうえいらを攻撃して、はや一年以上経っておりますが、勝利できていません。彼らを助けると述べれば、袁術も無下にはしないでしょう」


 袁術の元で何もできない日々を過ごしていた孫策はこの言葉を大層、喜び従った。


(似ている……)


 かつての孫堅の明るさと活発さを感じ、懐かしそうに彼は目を細めた。


 孫策は呉景らを助けて江東を平定する許可を袁術に乞うた。


「我が家は東に旧恩があり、舅(母の兄弟。呉景)を助けて横江を討つことを願います。横江を抜いてから、そのまま故郷に投じて召募すれば、三万の兵を得ることができましょう。それによって明使君が漢室を救済して天下を定めるのを輔佐します」

 

 袁術は迷った。以前、約束したことを許さなかったことに対して孫策が不満を持っている。そのためその男に好きにやれる状況を作ることは危険だろう。しかし劉繇りゅうようが曲阿を占拠しており、王朗おうろうも会稽にいる。孫策とて、そう簡単に江東を平定できるとは限らないのではないか。


 そう考えた袁術は許可を出し、上表して孫策を折衝校尉に任命した。


「許可を得ることができた……だが、兵が少ない……」


 袁術は許可は出したが、兵を与えるなどはしてくれはしなかった。


「袁術如きの下にいる兵など、あなた様の力となることはありません」


 朱治はそう言うが、兵の数は重要であることがわからないほど、孫策は無知ではなかった。


「大丈夫です。あなたには江東の虎と言われたお父上の徳がついております」


 孫策の兵はわずか千余人で、騎馬は数十頭、賓客で従うことを願った者は数百人しかいなかった。しかし行軍し始めるとそこに多くの人物が私兵を集めてやってきた。


「孫伯符殿ですな」


 体格の良い男が孫策にそう言った。


「そうです。あなたは?」


「私は黄蓋こうがいと申します。かつてあなたのお父上の元で働いた者でございます。他にも程普ていふ韓当かんとうもおります。以前共に戦った祖茂そもは世を去っていますが、彼の兵も連れてきています。あとあなたのお父上の弟君である孫静そんせい殿もいらっしゃっております」


「あなた方は父上の元で戦った諸将であったか」


 経験豊かな諸将、しかも父を助けてきた人物たちである。その彼らを孫策は得ることができた。孫策は朱治を見ると彼は頷いた。


(ああ、この人が呼んでくれていたのだ)


 孫策は彼に多大なる感謝を示した。このように集まった兵を彼は収めていき、歴陽に至った時には衆五、六千になった。

 

 更に嬉しい援軍が孫策の元にやってきた。周瑜しゅうゆである。彼の従父(父の兄弟)・周尚しゅうしょうは丹陽太守を勤めており、彼から借りた兵と食料をもって孫策の元にやってきたのである。

 

 孫策は彼がやってきたことに喜んで言った。


「私が汝を得たのは諧である(「諧」とは「一対」「合和」の意味、または「相応しいこと」「適切なこと」。周瑜との出会いはあるべき姿であって、周瑜がいれば成功できるという喜びを表している)」

 

 孫策の母はこれ以前に曲阿から歴陽に移っていた。孫策は更に母を阜陵に移すことにした。これを孫策は朱治に任せた。

 

 周瑜や父の古参の諸将を率いて孫策は横江と当利に進攻した。どちらの戦いにおいても孫策は圧倒的な強さを見せてどちらもも攻略した。樊能と張英は敗走した。

 

 孫策の勢いは止まらず、長江を渡って転戦した。向かったところで敵を全て破り、敢えてその鋒(鋭鋒。攻勢)に当たろうとする者はいなかった。

 

 人々は孫策が来ると聞くや、皆、魂魄を失い、長吏は城郭を棄てて山草(「山草」は深山で草が茂った地域を指す。かつて李固も皇帝への回答で「山草」を使っており、当時はよく使われていた言葉で、この時代の流行語と言えるかもしれない)に逃げて隠れた。

 

 孫策が実際に至ると、その軍令は厳粛で、軍士は命令を守り、略奪をせず、鶏犬や野菜も一切侵さなかったため、百姓が大いに悦んで孫策に懐き、競って牛酒を提供して軍を労った。

 

 また、孫策の為人は、容貌が美しく、笑語(愉快な会話)ができ、性格は闊達(性格が明るいこと)で広く意見を聴き入れ、人を用いるのが得意であった。そのため、孫策に会った士民で心を尽くさない者はなく、喜んで命を賭けるようであった。

 

 孫策は劉繇の牛渚営を攻めて倉庫の糧穀や戦具を全て奪った。

 

 当時、彭城相・薛礼せつれいと下邳相・笮融さくゆうが劉繇を頼って盟主に立てており、薛礼は秣陵城を拠点とし、笮融は秣陵県南に駐屯していた。

 

 孫策はまず笮融を攻めた。笮融も兵を出して交戦したが、孫策軍の強さは凄まじく五百余級を斬首した。そのため笮融は門を閉じて動かなくなった。

 

 そこで孫策は彼を無視して、渡江して薛礼を攻めた。薛礼は攻撃に耐え切れず、包囲を突破して逃走した。

 

 この時、樊能、于麋うぎらが再び兵を集めて、牛渚屯を襲い、奪取した。

 

 それを聞いた孫策は兵を還して樊能等を攻め破り、男女一万余人を獲た。

 

 その後、また東下して笮融を攻めたが、流矢が命中して股を負傷し、馬から落ちてしまい、馬に乗ることができなくなった。孫策は輿を使って牛渚営に還っていった。

 

 ある者が孫策に叛して笮融にこう報告した。


「孫郎(孫策は若かったため、孫郎と呼ばれた)は矢に中って死にました」

 

 笮融は大喜びし、すぐに将・于茲(yじ)を派遣して孫策の営に向かわせた。

 

 これに対して孫策は歩騎数百を送って挑戦させ、後ろに伏兵を設けた。于茲が出撃すると、孫策の歩騎は鋒刃が接する前に偽って逃走した。于茲がこれを追撃して伏兵の中に入ったところを、孫策軍が大破して千余級を斬首した。

 

 孫策は勝ちに乗じて笮融の営下に至り、左右の者に、


「孫郎の様子はどうだ。孫郎は健在であるぞ」


 と大呼させた。

 

 笮融の兵は驚き怖れて夜の間に遁走した。

 

 笮融は孫策がまだ健在であると聞くや、更に堀を深く塁を高くして守備を修繕した。

 

 孫策は笮融が駐屯している場所の地勢が堅固だったため、そのままにして去った。


「この戦い、速さこそが重要……」


 孫策は袁術の介入を受ける前に自分の勢力を築かなければならない。

 

 孫策は劉繇の別将を梅陵で破り、転じて湖孰、江乗を攻め、全て下した。その後、兵を進めて曲阿で劉繇を撃った。

 

 この時、劉繇の同郡の人・太史慈たいしじが東莱から曲阿に来て、劉繇を訪問した。


 太史慈は以前にも名前が出てきたことのある男である。


 かつて東莱郡の官吏を務めており、郡と青州が確執を起こした際、都へ郡の上奏を届けた。この時、機転を利かせて州側の上奏を切り破り、郡に有利な処分を引き出した。


 しかしながらこのことから州から疎まれるようになり、遼東郡に逃走した。この留守の間、彼の母の面倒を孔融こうゆうが見た。理由は不明である。そのことを知った太史慈はその恩に報いるため、孔融が黄巾軍に攻め込まれ包囲されていた際、太史慈は救援に駆けつけた。黄巾賊の激しい攻撃の中、太史慈は援軍を呼ぶ使者になることを求め許可されると、城外で弓の練習を始め敵兵の注目を集めた。


 それを何日も繰り返して、敵兵が「また練習だろう」と興味を持たなくなったところを、一気に単騎で敵の包囲網を突破し、平原の相を務めていた劉備りゅうびに救援要請の使者として赴いた。援軍が駆けつけると賊兵は囲みを解いて逃げ去った。


 救出された孔融は、以前にも増して太史慈を尊重し、


「あなたは我が若き友だ」


 と称揚した。一連の事態が収まると太史慈は母親にこの事を報告した。母親も彼を讃えた。


 このような経歴をもった太史慈が劉繇の元にやってきた時、ちょうど孫策軍が至ったため、ある人が劉繇に「太史慈は大将にできます」と勧めた。

 

 しかし劉繇は、


「私がもしも子義(太史慈の字)を用いたら、許子将(許劭きょしょう)が私を笑うのではないか」


 と言い、太史慈には軽重(虚偽。状況)を偵察させただけにした。


 劉繇のもとには許劭がいる。許劭はかつて曹操を評したことで有名な人物である。彼が評価した人物は天下に大きな名声を得るが一方で嫌われれば、没落するほどに影響力がある。劉繇はこれを恐れたのである。


 そんなことを考える余裕などは無いはずにも関わらず、これほどの影響力を持つのは許劭という人物の恐ろしさなのかもしれない。

 

 太史慈は一騎だけを従えて外出した時、突然、神亭で孫策に遭遇した。

 

 孫策は十三騎を従えており、どれも韓当、黄蓋といった孫堅の旧将ばかりであった。

 

 しかし太史慈は前に進んで戦い、孫策と向かい合い、一騎打ちを挑んだ。孫策も迎え撃ち、太史慈の馬を刺して太史慈の背に挿していた手戟を奪ったが、太史慈も孫策の兜鍪(兜)を得た。

 

 ちょうど両家の兵騎(歩兵と騎兵)が向かって来たため、双方とも解散した。


「名はなんという?」


 孫策は太史慈に向かって声をかけた。


「太史慈……」


 太史慈は短くそう答え、去っていった。


「太史慈か……」


 孫策は面白そうな男だなと思いながら、軍をまとめた。その後、劉繇は孫策と戦ったが、敗れたため、軍を棄てて遁走し、丹徒に走った。

 

 諸郡守も皆、城郭を棄てて奔走した。

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