皇帝、東へ
李傕と郭汜の対立は続いており、互いが互いを攻撃して月を重ねていった。この対立によって死んだ者の数は万を数えた。
六月、そんな中、李傕の将・楊奉は李傕を殺そうと謀った。だが、事前に事が漏れたため、兵を率いて李傕に謀反を起こして離脱した。
このようなことが続いたため、李傕の勢力は徐々に衰えていった。
ここで鎮東将軍・張済が陝から長安に戻ってきた。主導者争いに巻き込まれたくなかったために長安を離れていた彼は李傕の勢力が弱まったことから和解させやすくなったと思ったからこそ戻ってきたのである。
張済は李傕と郭汜を和解させて乗輿を暫く弘農に行幸させることを求めた。
献帝は洛陽に帰りたいと思っていたため使者を送って李傕と郭汜に双方が講和することと、献帝が東に向かうことを説得した。
使者が十回往復してから、郭汜と李傕がやっと講和に同意し、双方が自分の愛子を人質にして交換することにした。
しかし李傕の妻は息子を深く愛していたため、人質として出そうとしなかったため、和計(和約)が定まらなくなった。
しかも羌・胡がしばしば省門を窺いに来て、
「天子は中に居るか。李将軍は我々に宮女をくれると約束した。今、皆どこにいるのか」
と問うた。
献帝はこれを患い、侍中・劉艾を送って宣義将軍・賈詡にこう告げた。
「あなたは以前、職を奉じて公忠だったため、今でも栄寵に昇っている。今、羌・胡が路を満たしている。方略を考えてもらいたい」
賈詡はすぐに行動した。彼は羌・胡の大帥を招いて飲食し、封賞を与える約束をしたのである。
その結果、羌・胡が全て引き上げたため、李傕が弱小になった。
賈詡はその後、李傕の元に行き和解についてこれに従い、お互いに娘を人質にすることで和解することにした。
七月、車駕(皇帝の車)が東に帰るため、宣平門を出た。
献帝が橋を渡ろうとした時、郭汜の兵数百人が橋を遮って、
「これは天子ではないか?」
と言い、集まってきたため車が前に進めなくなった。
李傕の兵数百人がそれぞれ大戟を持って乗輿車の左右におり、兵達が交戦しようとすると、侍中・劉艾が、
「ここにおられるは天子であるぞ」
と大呼し、侍中・楊琦に命じて車帷(車の四周の帳)を高く挙げさせた。すると献帝が兵たちに対してこう言った。
「諸君はなぜ敢えて至尊に緊迫しようとするのか」
郭汜の兵がやっと退き、車駕が前に進んだ。献帝が橋を渡り終えると、士衆が皆、万歳を唱えたという。
夜、献帝は霸陵に至った。この時、従者が皆、飢えていたため、哀れんだ献帝は張済に食料を求めた。張済は官位の大小に従って飲食を分け与えた。
献帝は張済を驃騎将軍に任命し、三公と同等の官府を開かせた。また、郭汜を車騎将軍に、楊定を後将軍に、楊奉を興義将軍に任命し、全て列侯に封じた。
楊奉は白波賊の将から身を起こして勤王したため、「興義(義を興すこと)」という将軍号を与えられて寵用された。このことに楊奉は心から感謝し献帝を守りぬくことを誓った。
旧牛輔の武将・董承を安集将軍にした。
胡三省は、董承を霊帝の母・董太后の甥であるとしているが、『三国志集解』の作者・盧弼はこれを否定している。
郭汜は車駕を高陵に行幸させようとした。
しかし公卿や張済は弘農に行幸させるべきだと考えたため、大会を開いて議論しても決定できなかった。
献帝が使者を送って郭汜を諭した。
「弘農は郊廟に近いため、躊躇する必要はないではないか」
しかし郭汜はやはり従わなかった。そのため、献帝は終日食事をしないという抗議を示した。
郭汜はそれを聞くと、
「とりあえず近くの県に行幸するべきです」
と言った。
八月、献帝は新豊を行幸した。
郭汜は献帝を脅して西に還り、郿に都を置かせようとした。
しかし侍中・种輯がこれを知って秘かに楊定、董承、楊奉に伝え、新豊に集合させた。
郭汜は自分の陰謀が漏れたと知り、軍を棄てて南山に入った。
十月、郭汜の配下である夏育、高碩らが共に乱を為して献帝を脅し、西行しようと欲し、更には火を放った。
侍中・劉艾は火が止まないのを見て、献帝に他の一営へ出幸(出御)して火を避けるように請うた。
胡三省によると、当時は郭汜、楊定、董承、楊奉がそれぞれ自分の営を構えていたため、劉艾はどの営にするかを明言できないため、「一営」と表現してどこに行くかは献帝の意思に委ねたのだとしている。
楊定と董承が兵を率いて天子を迎え、楊奉の営に向かった。
夏育らが兵を指揮して乗輿(皇帝の車)を阻もうとしたが、楊定と楊奉が力戦してこれを破ったため、献帝はやっと脱出できた。
献帝は華陰に行幸した。
そこで寧輯将軍・段煨が皇帝の服御(服飾・器物)や公卿以下の物資を準備し、献帝が自分の営に行幸することを欲した。
段煨は楊定と昔から仲が悪かった。そのため楊定の配下・种輯や左霊が、
「段煨は謀反を欲している」
と称した。
これに対して太尉・楊彪、司徒・趙温、侍中・劉艾、尚書・梁紹がそろって言った。
「段煨は反しません。私たちの命を駆けても構いません」
ところが、董承と楊定が弘農郡の督郵を脅し、
「郭汜が来て既に段煨の営に居る」
と言わせた。献帝はそれを聞いて疑いを抱き、道南で野宿した。
楊奉、董承、楊定が段煨を攻撃しようとし、种輯と左霊を派遣して献帝に詔を下すように請うた。
しかし献帝はこう言った。
「段煨の罪がまだ明らかではないのに、楊奉らはこれを攻め、しかも私に詔を出させよう欲するのか」
种輯は頑なに詔を求めて夜半に至ったが、献帝は同意しなかった。
楊奉らは詔を待たずに直接、段煨の営を攻撃したが、十余日経っても落とすことはできなかった。
しかも段煨はその間に御膳(皇帝の食事)を供給し、百官にも食糧を与え、二心が無いことを示し続けた。
献帝は詔を発して侍中や尚書を派遣し、楊定らを告諭して段煨と和解させた。
楊定らは詔を受け入れて営に還ることにした。




