兗州
曹操は勝利の勢いのまま呂布の将・薛蘭と李封が駐屯する鉅野へ侵攻した。
これを知った呂布は薛蘭らを救いに行ったが、その時、既に薛蘭らは敗れてしまっていた。そこへやってきた呂布を曹操軍の騎兵隊を率いる曹仁、曹純兄弟によって奇襲が行われた。それによって呂布は逃走した。
薛蘭らを斬った曹操は乗氏(地名)に駐軍した。
そこで曹操は陶謙の死を知った。また、その後を受け継いだのはなんと陶謙の元へ援軍としてやってきていただけの劉備が受け継いだというではないか。
(一体、全体どうなっているのか)
劉備が徐州を得たことは理解ができないが、父と弟たちを殺した陶謙は天寿を全うしたという事実の方こそが曹操にとっては不快でしかなかった。
(伍子胥如く死体を掘り返して鞭打ちにしてやりたい)
曹操は先に徐州を取ってから戻って呂布を平定しようと考え始めた。それに荀彧が反対した。
「昔、高祖は関中を保ち、光武は河内を拠点にしました。皆、根を深くし、本を固めることで天下を制し、進めば敵に勝つに足り、退けば堅守するに足りたため、たとえ困敗があっても、最後は大業を完成できたのです。将軍は元々兗州を開始とし、兵を進めて山東の黄巾らを撃ち、平定されました」
胡三省は、
「当時、山東はまだ完全に平定されていないため、荀彧は誇張している」
とこの時の言葉に対して述べている。
「そのため百姓で帰心悦服しない者はいません。そもそも河・済(兗州の領域のこと)は天下の要地です。今、兗州は破壊されたとはいえ、なお容易に自分を保つことができ、しかもここは将軍の関中・河内でもあります。先に定めないわけにはいきません。今回、既に李封と薛蘭を破りました。もし兵を分けて東に向かい、陳宮を撃てば、陳宮は必ず西を顧みることができなくなります。その間に熟麦を収穫し、食糧を節約して穀物を蓄えれば、一挙して呂布を破ることができましょう。呂布を破れば、南の揚州(ここでは劉繇の勢力を指す)と結び、共に袁術を討って淮・泗に臨むことができましょう」
「もし呂布を捨てて東に向かへば、留める兵を多くすれば、用いる兵が不足し、留める兵を少なくすれば、民が皆、城を保たなければならないので樵采(柴刈り)ができなくなり、呂布が虚に乗じて略奪し、民心がますます危うくなり、ただ鄄城、范、衛を全うできるだけで(衛は濮陽)、その外は自分のものではなくなります。これは兗州が無くなるということです。もし徐州を平定できなかったら、将軍はどこに帰るのでしょうか」
「しかも、陶謙は死にましたが、徐州はまだ容易に亡ぼすことは難しいでしょう。彼らは前年の敗戦に懲りているため、懼れて団結し、互いに一体になっています。今、東方は皆、既に麦を収穫しましたので、必ずや堅壁清野(城壁を固めて郊外に何も残さないこと)して将軍を待ちます。これを攻めても抜けず、奪おうとしても獲る物がなければ、十日も出ることなく、十万の衆が戦わずに自ら先に困窮します。しかも以前、徐州を討った時、殺戮を行ったため、その子弟は父兄の恥を念じており、人々は必ず自ら守りを為して降心がありません。よって、たとえこれを破ることができたとしても、やはり領有はできないでしょう。物事には元から『これを棄ててあれを取る』という選択があるものです。大を選んで小を棄てるのは正しい選択です。安全を選んで危険を棄てるのは正しい選択です。その時の形勢を考慮して、根本に危険が無いのなら正しい選択です。今はこの三者に利が無いため、将軍が熟慮することを願います」
曹操は東征を中止した。
呂布が陳宮と共に一万余人を率いて再び東緡から来た。
曹操の兵は全て麦の収穫に出ていたため、残った者は千人にも及ばず、屯営も堅固ではなかった。曹操は婦人にも陴(城壁の低い部分)を守らせ、全ての兵を動員して呂布軍を防がせることにした。
屯営の西には大きな堤防があり、その南は樹木が茂って幽深としていた。攻めづらいところであった。
呂布は埋伏を疑い、左右の者に、
「曹操は詐術が多い。伏兵の中に入ってはならない」
と言った。
呂布は軍を率いて南十余里の場所に駐屯した。
その間に曹操の元に本軍が合流した。
翌日、呂布が再び来た。曹操は隄の裏に兵を隠し、半分の兵を隄の外に出した。
呂布が更に進軍すると、曹操は軽兵に挑戦させた。
両軍がぶつかってから、伏兵が全て隄に登り、歩騎が並進して呂布軍を大破した。前回の戦いで呂布軍の被害が大きかったため、以前のような強さを出すことができなかったため今回の敗北につながった。
曹操軍は鼓車を獲得し、呂布を追撃して営に至ってから引き返した。
呂布は夜の間に逃走した。曹操は再び定陶を攻めて攻略し、兵を分けて諸県を平定させていった。兗州の形勢は完全に曹操側に傾いたため、呂布は東に奔って劉備を頼った。
張邈は呂布に従い、弟の張超に家属を率いて雍丘を守らせた。
「曹操、なぜお前の方ばかりうまくいくのか……」
その後、張邈は袁術へ援軍を求める使者として袁術の元へ行ったが、部下の裏切りによって死んだ。
曹操を信じきれず、だからといって呂布に信頼されることも助けるほどの才覚を示すこともできず、一人孤独のまま死んだ。歴史の暗闇に堕ちていく彼に対し、曹操は輝かしい歴史の中で生き続けることになる。
曹操は張邈が死んだことを知る前に張超の守る雍丘を包囲した。
さて、劉備の元に逃げ込んだ呂布は劉備にこう言った。
「私と卿は同じ辺地の人だ(呂布は五原の人、劉備は涿郡の人で、どちらも辺境の地)。私は関東が兵を起こして董卓誅殺を欲したのを見た。しかし私が董卓を殺して東に出ると、関東諸将には私を安んじる者がなく、皆、私を殺そうと欲したのだ」
呂布は自分が漢王朝において英雄的な行動をしたと思っている。それにも関わらず、諸侯は自分を尊重しないと嘆いたのである。
呂布は劉備を帳内に招いて婦人の床の上に坐らせ、婦人に命じて劉備を拝させ、酒宴を開いて飲食して、劉備を弟と呼び親しみを示した。
しかしながら呂布という人は今までの行動を見ればわかるが行動に一貫性が無い。
「呂布は必ず裏切りますよ」
関羽はそう言った。劉備は頷きつつも彼は呂布を追い出すような真似はしなかった。