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三国志  作者: 大田牛二
序章 王朝はこうして衰退する

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処士

 桓帝かんていは詔を発して梁冀誅殺の功を賞した。


「梁冀は姦暴で王室を濁乱させた。質帝は聡敏早茂(「早茂」は幼い頃から能力が突出していること)だったが、梁冀が心中に忌畏を抱き、秘かに行動して毒で殺した。永楽太后(桓帝の母・匽氏)はまたとなく親近尊敬する関係であったにも関わらず、梁冀は遏絶(隔絶)して京師に帰ることを禁じ、私を母子の愛から離れさせ、顧復の恩(父母による養育の恩。「顧復」は繰り返し顧みるという意味)から隔てさせた。梁冀の禍害は深大であり、罪悪が日々増大したものである。しかし宗廟の霊に頼り、また中常侍・単超ぜんちょう徐璜じょこう具瑗ぐえん左悺さわん唐衡とうえい、尚書令・尹勳いんくんらが激憤(憤激)・建策したおかげで、内外が協同(協力)し、漏刻の間(わずかな時間)に暴虐を誅滅できた。これは誠に社稷の助けであり、臣下の力であるため慶賞を頒布して忠勳に報いるべきである。よってここに単超ら五人を封じて県侯とし、尹勳ら七人を亭侯にする(実際には郷侯、都郷侯もいる)」


 こうしてまず単超、徐璜、具瑗、左悺、唐衡が県侯に封じられた。単超は食邑二万戸、徐璜らはそれぞれ一万余戸与えられた。当世の人々はこれを「五侯」と言った。


 小黄門史・左悺と唐衡はこの時に中常侍に昇格になり、


 尚書令・尹勳ら七人も封侯された。


 続けて大司農・黄瓊こうけいを太尉に、光禄大夫・祝恬しゅくかつを司徒に、大鴻臚・盛允せいいんを司空に任命した。

 

 当時は梁冀を誅殺したばかりで、天下が異政(政治改革)を望んでいた。


 黄瓊は公位の筆頭に立ってから、州郡で素行が暴汚な者を検挙・上奏した。死徙(死刑や徒刑)に至った者は十余人に及び、海内がそろって称賛した。


 更に彼は汝南の人・范滂はんぼうを招聘した。


 范滂は若い頃から清節を磨き、州里の人々に敬服されていた人物である。


 彼はかつて清詔使として冀州を案察(調査・視察)したことがあった。当時の冀州は飢饉に襲われて荒廃しており、盗賊も群起していた。

 

 范滂は車に乗って手綱を操り、意気軒高として天下を清めようという志を抱いていた。守令(太守・県令)で貪汚な者は皆、范滂が来たと聞くと印綬を解いて去っていった。


 この時に范滂が検挙・上奏した者は全て衆議を満足させるものであった。


 後に桓帝が詔を発して三府の掾属に謠言を挙げさせた。


「謠言」というのは民間で流行っている政治を批判・風刺した言葉のことである。三公が長吏(県官)の善悪や民が苦としていることらを聞き取り調査を行い、條奏(箇条書きにして上奏すること)した。これが「挙謠言(謠言を挙げる)」という。


 范滂はこの機に刺史・二千石や権豪(豪強、豪族。権貴の者)の党二十余人を上奏した。范滂が弾劾した者が多すぎるため、尚書が、


「私的な理由による疑いがある」


 と譴責した。すると范滂はこう答えた。


「私が挙げた者が叨穢姦暴(貪婪・卑怯で姦悪・暴虐)で深く民の害になっていないというのであれば、どうして簡札(文書を書く木の札)を汚す必要がありましょうか」


 彼の言葉には二つの解釈ができる。一つは「彼らが民の害になっていないのならば、どうして私が敢えて簡札を汚して上奏文を書く必要があるのか」という解釈、もう一つは「彼らが民の害になっていないのならば、どうして彼らが私の上奏文を汚して否定する必要があるのでしょう(罪を犯しているから私の上奏文を恐れて批難するのです)」という解釈である。


「最近は会の日(三府の掾属が朝堂に集まる日)が迫促(切迫)していましたので、先に急とする者(急いで処罰しなければならない者)を挙げたのです。まだ明らかになっていない者は改めて考察・追及します。私が聞くに、農夫が草を除けば、嘉穀は必ず茂るものです。忠臣が姦を除けば、それによって王道が清まります。もしも私の言に貳(不実。偽り)があれば、甘んじて顕戮(死刑)を受けましょう」


 尚書は詰問できなくなった。












 尚書令・陳蕃ちんはんが上書して五処士を推挙した。豫章の人・徐穉、彭城の人・姜肱、汝南の人・袁閎、京兆の人・韋著、潁川の人・李曇の五人である。


 桓帝はそれぞれに対して安車と玄纁(黒と紅の布帛)を準備し、礼を備えて招いたが、五人とも応じなかった。

 

 徐穉は家が貧しかったため、常に自ら耕作していた。自分の労力によって得た物でなければ食べず、恭倹で義によって謙譲できたため、当地の人々がその徳を称えた。


 徐穉はしばしば公府に招聘されたが、決して行こうとはしなかった。


 陳蕃が豫章太守になった時、徐穉を功曹にするために礼を用いて招いた時、徐穉は辞退しなかったが、陳蕃を謁見しただけで去っていった。


 陳蕃は性格が方峻(方正峻厳)で、通常は賓客を接待しなかったが、徐穉が来た時だけは特別に一榻(「榻」は長椅子のこと)を設け、徐穉が去ったらすぐにかたずけて壁に掛けた。


 後に朝廷が「有道の士」を挙げた時、徐穉は自分の家で太原太守に任命されたが、やはり着任しなかった。


 徐穉は諸公の招聘に応じなかったが、彼らの死喪(死亡。訃報)を聞くと常に笈(竹や藤で作った箱。書物や衣服、薬物等を入れる)を背負って弔問に赴いた。いつも家であらかじめ一羽の鶏を炙り、一両の綿絮(綿)を酒の中につけてから乾かして、炙った鶏を包み、冢隧(墓道)の外まで至ると綿を水に浸して酒気をもたせ、一斗の米飯を準備し、白茅を藉(蓆。敷物)にし、鶏を墓前に置き、酒を地に撒いてから、謁(名刺)を残して去り、喪主には会わなかった。


 姜肱と二人の弟である姜仲海、姜季江は共に孝友(父母に対して孝行、兄弟に対して友愛)として名が知られていた。常に同じ布団で寝て、官府の招聘に応じなかった。


 彼はかねて姜季江と共に郡府を訪ねた時、夜間に道中で強盗に遭ったことがあった。盗賊が姜肱らを殺そうとすると、姜肱はこう言った。


「弟は年幼で父母の憐(愛)を受けており、しかもまだ聘娶(結婚)していません。この身を殺して弟を救うことを願います」


 すると姜季江が言った。


「兄は年も徳も私以上あり、家の珍宝、国の英俊というべき人です。私が自ら戮(殺戮)を受けて兄の命の代わりとなることを乞います」


 盗賊は二人のその姿に感じ入るものがあり二人とも放し、衣服や財物を奪っただけであった。


 二人が郡府に入った時、人々は姜肱に衣服が無いのを見て不思議がり、理由を問うた。しかし姜肱は別の口実を探して最後まで盗賊の事を話さなかった。それを聞いた盗賊は慚愧と後悔の心を抱き、精廬(精舍。学舎)を訪ねて徵君(徴士。官府に招かれた者。ここでは姜肱を指す)に会見を求め、叩頭謝罪して奪った物を返した。


 ところが姜肱はこれを受け取らず、酒食で労ってから還らせた。


 桓帝が姜肱を召したが、姜肱が来ないため、桓帝は彭城に命じて画工にその姿を描かせた。しかし姜肱は幽闇(暗い場所)に臥して布団で顔を隠し、


「眩疾(めまい、目くらみがする病)を患ったため、外に出たくない」


 と言ったため画工は結局、姜肱の姿を見ることができなかった。


 袁閎は袁安の玄孫である。袁安は明帝・章帝・和帝に仕えて三公に上った人である。名門中の名門である。袁閎は苦身して節を修め、招聘に応じなかった。


 韋著も隠居して学問を講授し、世務(治政の事)を修めなかった。


 李曇は継母が苦烈(酷烈)であったが、ますます恭謹につかえた。四時(四季)の珍玩を得るといつも先に母に進めたため、郷里がこれを法(模範)にした。


 桓帝は安陽の人・魏桓も招いた。


 同郷の人々が魏桓に上京を勧めましたが、魏桓はこう言った。


「俸禄を受け入れて昇進を求めるのは、その志を行うためである。今、後宮の美女は千を数えるが、これを減らすことができるだろうか。厩馬には万匹(万頭)がいるが、これを減らすことができるだろうか。左右に権豪がいるが、これを去らせることができるだろうか?」


 同郷の人々は、


「できないだろう」


 と答えた。


 魏桓が憤慨嘆息して言った。


「私を生きている間に出仕して望みの無い諫言を行い、皇帝の意志に逆らって殺されてから故郷に帰っても、上京を勧めた諸君には何の益もない」


 魏桓は身を隠して出仕しなかった。


 


 


 

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