黄泉に咲く花
他サイトの小さいコンテストで佳作をいただいたことのある短編です。
黄泉の花園には花守がいて、浄化の花を咲かせているという。
死してなお絶ちきれない想いは、やがて血のしたたるような深紅の牡丹になる。
久遠の闇の中、ほのかに光る花々はひどく美しくまがまがしい。
ここは地獄。
甘く薫る地獄。
1、死者がゆく国
ふと気付くと、荒涼とした風景のなかに立ち尽くしていた。
「ここは?」
真波は辺りを見回してつぶやく。石ころだらけの荒野がどこまでも広がり、所々うっすらと白い靄が漂っている。
「あの世だよ」
思いがけず近いところから声がして、真波は飛び上がるほど驚いた。ふりかえると老人がひとり、白い着物姿で立っていた。
「あの世?」
「死後の世界といったほうがいいかな」
「え……あたし死んだの?」
老人は痛ましげに真波を見る。
「まだ若いのに気の毒だね」
その言葉に真波は少し驚き、自分の顔に触れた。
吸いつくようなみずみずしい感触に息を呑む。それからシミひとつない両手をまじまじと眺め、薄桃色のほっそりした手指に見入った。
「お先に失礼するよ」
老人はそう言うと、ぐんにゃりと人の輪郭をゆがめて白い靄に姿を変えた。
「本当にお気の毒だね、きれいなお嬢さん」
声とともに遠ざかっていく。
真波はもう一度よく辺りを見回してみた。
白い靄はそれぞれ人ぐらいの大きさで、同じ方向に流れているようだ。地面に道らしきものはないが、どうやら遠くに見える大岩へ向かっているらしい。
「あの岩、なんだろう?」
とりあえず行ってみることにした。
「おい、ここはどこだ?」
横から声をかけられて見ると、中年の男が険しい顔をして真波を見据えていた。
「あの世だって」
「あの世!?」
「死後の世界」
真波は教えてくれた老人と同じように言い換えた。
「じゃあ、おれは死んだのか?」
「ここにいるってことはそうなんじゃない?」
「畜生!」
男は白髪まじりの頭をかきむしるようにして叫んだ。
「あいつらに一泡ふかしてやるはずだったのに、なんでおれが死ぬんだよ!」
真波は声をかける気にならなかったので、男を放ってまた歩きだした。
「おい待て!」
慌てて追いかけてきた男が、真波の肩に手をかける。
面倒くさいことになったなと思いながらも、真波は立ち止まった。
「どこに行く?」
「あの岩。みんな向かってるから行ってみようと思って」
真波は白い靄を指差した。
「あれ、みんな人みたいよ」
「なんでそんなこと知ってる?」
「人があれになるとこ見たから」
「どうやればいいんだ?」
真波はうんざりしてきた。
「あたしに聞かれても困るわ」
男は舌打ちをした。
「もう生き返れないのかよ?」
「そんなこと知らないわよ」
真波は言い捨てて歩きだした。
考えても解らないのなら行動してみるというのが真波の信条だった。多少せっかちだが人生これで乗り切ってきたのだと自負している。
「人生、か」
真波は呟いた。
「もう終わったんだ、あたしの人生って」
結局ずっと独り身だったことを後悔はしていない。本当に魂を分かち合えるような相手とでなければ共に生きる価値もないし、子孫を残したいとも思わなかった。
ただ、やり残した仕事のことだけは悔やまれる。
「完成させたかったな」
真波が覚えている最後の記憶は、煙草をふかしながら腕組みしてパソコンのディスプレイを睨んでいたことだ。
細かい活字がびっしりと並んだその画面が不意に真っ暗になって、気が付いたらここにいたのである。
「あの時もし倒れたんだったら、煙草ってどうなったの?」
今さらどうにもならないはずなのに、真波は妙に気になった。
パソコンが燃えるかどうかは知らないが、あの横には大切なノートが置いてあった。
自分の体や家に火がついて燃えてしまったとしてもあきらめはつく。だが、あのノートだけは燃えて欲しくない。自分のキャリアの集大成として仕上げるはずだった作品の骨子が細かく記してあるのだ。
それが燃えてしまったかもしれないと思うと、真波はいてもたってもいられないような焦燥感にかられた。
「あたしの生きた証そのものなのに」
思わず引き返そうとしたが、戻りようのないことに気付いて愕然とする。
「あれが失われたら本当に未完で……あたしの書きたかった結末は誰も知らないままになっちゃう」
おろおろと行きつ戻りつして、さっきの男のように頭をかきむしった。
「落ち着いてください、大丈夫ですよ」
涼やかな声に、真波はハッと我に返った。焦燥感が嘘のようにスーッと引いていく。
顔を上げると全身に黒い衣をまとった若い男が立っている。深くかぶったフードの下にマスクのような布をつけているため、見えるのは目だけだった。
「誰?」
「黄泉の国のスタッフですよ」
「スタッフ!?」
「案内係のようなものです」
真波は予想外の答えにあっけにとられた。
「 ここに来たら千曳岩の方へ引き寄せられるはずなのですが、なかなかお見えにならないので迎えに来ました」
「ふつうは自然に魂魄が分離するものなんですよ。そうなれば色々なことが解るようになるのですが、あなたのように魂魄一体のままだと無知なので案内が必要となります」
「ごめん、全然わかんない」
真波はこめかみに手を当てた。
「ま、誰でも最初はそうですよ」
やり手の営業マンのような口調がどうも怪しい。
「私はシールシャといいます。あなたの魂魄がきちんと分かれて輪廻へ戻るまでサポートしますね」
彼はマスクのような布を外してにっこり笑った。
「うわ、イケメン!」
この世の者とは思えないほど整った顔を見て真波は思わず声を上げた……いや、実際にはここは「あの世」なわけだけれど。
「そのように見えますか?」
シールシャは可笑しそうに言った。
「私は本来、男でも女でもないのです。あなたが望んだように見えるだけで」
そう言われても、真波の目には綺麗な顔をした若い男にしか見えなかった。これが願望の現れなのだとしたら、自分はなんて浅ましいのだろうと落ち込みそうになる。
「もう一人、案内するはずの方がいるのですが、その方にはまた違う姿に見えると思いますよ」
「一人ずつじゃないのね」
「こちらの世界も人手不足で」
シールシャは肩をすくめた。
「この頃は信心など無縁な方が増えまして。そういう方は魂魄が分離しないまま来てしまう確率が高いんです」
真波は自分も無宗教だったと思い返した。
「ここで待っててください」
シールシャは例の岩の前に着くと、連れとなる予定のもう一人を探しに行くと告げた。
「絶対に先に行かないでくださいね」
真波がうなずくとシールシャは黒い霧と化して一瞬で目の前から消えた。
そして、しばらく時間が経ったが戻って来る気配がない。真波にとって「待つ」という行為はとても退屈で耐えがたいものだった。
白い靄が次々と真波のそばを通り過ぎ、岩の向こうに消えていく。
「ちょっと見るだけ」
ついに真波は耐えきれなくなり、背丈の数倍はあろうかという大岩に手を付いて向こう側を覗き見た。だが集まった白い靄のせいで視界全体が白っぽくてよくわからない。知らず知らずのうちに足を前へ踏み出してしまった。
急に暗くなったと感じた瞬間、目の前の風景が一変した。
「綺麗……」
夜のような闇色を背景に咲き乱れる、ほのかな光を放つ花々。それが見渡す限り、一面に広がって甘い香りを漂わせている。
ひときわ大きな赤い牡丹を見つけ、思わず手を伸ばす。
「触れないで」
いつのまに現れたのか、いきなり男の手が横から真波の腕を掴んで牡丹から遠ざけた。
「これはただの花じゃない」
頭ひとつ分ほど高いところから声がして、見上げると形良く整った薄い唇が目に入った。怜悧な印象を与える切れ長の目が真波を見つめている。
眉目秀麗とはこういう面立ちのことを言うのだろうかと思いながら、真波の目はその男の顔に釘付けになった。シールシャと同じように、真波の願望が見せている容貌かもしれない。
だがその男の顔を見たとき、胸の奥深いところが疼くような不思議な感覚が真波を襲っていた。
「ここは魂魄を浄化する場所」
男は真波の腕をつかんだまま皮肉な笑みを浮かべる。
「案内もなしに引きこまれてくるとは、よほど深い業でもあるのか」
「あなたは?」
男が身に着けているのはシールシャがまとっていたのと同じ形のゆったりした衣だが、色は深い青だった。
まわりの闇色のせいか、衣の青色のせいか、男は凍りつきそうに蒼ざめた顔色に見える。
「わたしは黄泉の花守り」
どこか威厳を感じさせる声音だった。
2、ここは地獄
黄泉の花守りと名乗った男は、じっと真波を見つめた。その全てを見透かすような強い視線に、真波は肌が粟立つような恐怖を感じて後ずさる。
「あたし戻らなきゃ。待ってるって約束したし」
そう言っても花守りは掴んだ腕を放してはくれなかった。
「戻ることはできない。一人では行くなと言われなかったか?」
静かに口をひらいた花守りは、真波を引き寄せて腕の中に包みこんだ。
「なにするの!」
真波は動揺した。男の胸に抱かれたことなど、もう何十年もない。
「これに絡まれたら逃れることはできない」
花守りは真波の背後に手を伸ばし、何かを叩き払った。
真波がふり向くと、先ほどの牡丹から細長いツルのような触手が伸びていた。蛇のように鎌首をもたげ、隙あらば飛びかかってきそうな獰猛さを感じさせるものだった。
「ただの花ではないと言っただろう」
花守りは、その蒼ざめて美しい顔を真波に近づけて囁いた。
「穢れた魂魄を糧に咲く」
穢れた魂魄――それはチクチクと胸を差す響きだった。
自分の人生をふり返れば、お世辞にも清廉潔白とは言い難い。
真波は我が強い性格で知られていた。仕事でもプライベートでも、要求や意見を通すためにきつい物言いをする。友達といえば似たタイプの強気な独身女性ばかりで、あけすけに語り合う飲み会には男など寄り付きもしない。
だが、真波には絶対に口にできない過去の過ちがあり、知られたら自分のキャリアが音を立てて崩れてしまうと思っていた。記憶から消し去りたいと願いながらも、それはいつだって心の奥底からチラチラと顔をのぞかせ出番を待っている。
「捕まったらどうなるの?」
真波はおそるおそる尋ねた。
「この花に穢れを吸われた魂魄は浄化され、あるべきところに還る」
花守りは淡々と説明し、触手をうごめかしている花々の根元を指差した。
「穢れを吸い尽くされるまでの姿がこれ」
真波は生い茂る緑葉の奥に目を凝らす。
一見したところ、白っぽい根のようだった。だがすぐにそれが人の腕や脚だと気付く。
「ひっ!」
真波は身を震わせて、花守りにしがみついた。
花々の影でうごめく触手が、ミイラのように干乾びた人の身体にがっちり絡みついている。
何百、何千、いや何万かもしれない。おびただしい数の干乾びた屍が、この幻想的で美しい花園の下に隠れていた。
花守りも恐ろしいが、そのふところを離れたらたちまち花々に捕らえられてしまいそうで、真波は青い衣をぎゅっと握りしめて震えることしかできない。
「彼らはあなたと同じ魂魄一体の状態で、花に浄化してもらわないと輪廻に還れない」
「意識はあるの?」
「夢を見ている」
「夢?どんな?」
花守りは、ゆっくりと真波を見下ろした。
「それぞれが背負った罪、捨てきれない業に見合った責め苦を受けている夢」
死後に自分が犯した罪や業に対する罰を受けるというのは……?
「地獄」
真波はポツリとつぶやき、その響きに戦慄した。
「人の世で地獄とよばれているのは、確かにここのことだろう」
花守りの口調はあくまでも淡々としたものだった。
それが逆に恐ろしく感じられる。
真波は、誰にも打ち明けることなく封印してきた罪のことを思った。
生きているうちなら償えたはずだが、それをしないまま死んでしまった今、もう取り返しはつかない。
この罪のために、自分はここで花に絡めとられて干乾びながら、地獄で責めさいなまれる夢を見ることになるのか……深い吐息とともに目を閉じる。
「ごめんなさい」
真波は、まぶたの裏に浮かぶ忘れたくても忘れられずにいる人物の顔を、40年ぶりにまっすぐ見つめた。
真波は若いころ、一度だけ恋人と暮らしたことがあった。
小さな劇団に所属していた仲間で、真波は女優として、恋人は脚本家として夢を追っていた。
一緒に暮らしはじめて知ったのだが、恋人は小説を書きためていた。
膨大な資料と綿密な取材をもとに数年がかりで構想を練り続けている大作だった。
真波は人知れずそんな地道な努力を重ねてきた恋人をあらためて尊敬し、いつかこの小説で華々しく文壇デビューするはずと信じて疑わなかった。
だが、それはなかなか完成しなくて、苦悩しながら原稿用紙に向かい、書いては破るばかりの日々が続いた。
「おまえと暮らしはじめてからスランプになった」
恋人はある夜、酒に酔って真波にからんだ。
「読んでくれなんて一言も頼んでないのに、漢字が間違ってるだの史実とズレ過ぎてるだの、何様のつもりだよ。おまえが邪魔するから書けなくなったんだ」
「そんな!あたしは助けになればと……」
「ありがたいね。完成したら共同名義にでもするか?」
冗談じみた言い方だったが、ねじれた憎悪のようなものを感じて言葉を失ってしまった。
そのころの彼はアルコールに溺れかけていて、稽古場にまで酒臭い息を吐いて現れ劇団の主宰に注意されていた。脚本の直しを求められた夜など帰宅するなり暴れて部屋中めちゃくちゃにし、真波がたまらず外に逃げ出すほどだった。
そんな恋人を最初のうちは理解しようとしたし、機嫌を損ねないように下手に出ていた。
だが、うまく書けない理由を真波や周囲のせいにして荒れる姿が、次第に幼稚に見えて馬鹿らしくなってきた。
「あなたの邪魔になりたくないから出ていくわね」
真波はそう切り出した。本当は愛想を尽かしたからなのに、ずるい言い方だと今でも思う。
「好きにすればいい」
恋人は吐き捨てるように言った。
「おまえみたいに何の才能も個性もない凡人とは、はじめから合うはずなかったんだ」
女優という職業を目指していた真波にとって、その言葉は突き刺さるように辛辣なものだった。抜きんでた才能はないと自覚していただけに、体が震えるほどの怒りと屈辱を感じた。
どうしても許せず、必ず見返してやると誓った。
そして半年後、真波はある文学賞に小説を応募した。
別れた恋人が、もがき苦しみながら書こうとしていた題材で……。
蜜月だったころ、真波は彼の良きパートナーになりたいと思っていた。彼が集めた多くの資料を丹念に読みとき、図式や年表なども作成してノートにまとめて整理していた。
それを彼に活用してもらうことはついになかったし、かえって嫌な顔をされただけだったから、真波は荷物とともに持って出てきた。
同じテーマの小説を先に発表してやったら、彼はどんなに驚きあわてるだろう?
凡人と見下していた女に負けたと泣いて悔しがるだろうか?
真波は、その思いつきを実行したのだ。
もちろん簡単にすらすら書けたわけではない。
自作の構想ノートを元に、情念を断ち切るような思いで書き上げた長編だった。
だがまさか、それが権威ある文学賞を取ってしまうなんて真波は思ってもみなかった。
受賞の知らせがあったときは動揺し、本当のことを話して辞退しようと考えた。
けれども特別な賞という煌びやかな誘惑に負け、結局は華やかに装って授賞式に臨んでしまった。
もう後戻りはできない。
真波は女優の道を捨て、作家に専念すると決めた。少女時代からの夢を諦めたのは、元恋人への贖罪のつもりでもあった。
だがそのこと以上に大きな理由として、書くことに専念しなければ周囲の期待に応えられないと思ったのだ。元恋人と違い、真波が小説を書いたのは受賞作が初めてだったからである。
幸運なことに、もともと才能があったのか真波の小説はよく売れた。執筆依頼は途絶えることがなく、マスコミにも顔を出して美人作家などともてはやされた。
そして……元恋人が自殺していたと知ったのは、何年も経ってからのことだった。
3、深紅の牡丹
「凡人なのは俺」
マジックペンで壁に大きく書いてあったという。
料金滞納で電気もガスも止められた部屋の中に、ビリビリに破り捨てられた白紙原稿が散乱していて、テーブルに真波の本が置いてあったとも聞いた。
周囲の人々は書き遺した言葉を脚本家としての実力不足を悩んだものと解釈したようだが、真実は違う。その意味が解るのは真波だけだった。
さすがに衝撃が大きく、正直言って執筆どころではなかった。
だが、仕事に穴をあけるわけにはいかない。彼に対して犯した罪を誰かに悟られるわけには、どうしてもいかなかった。
真波は修羅となり、彼の存在を記憶の底に閉じこめ、二度と思い出さないことにした。
それからの日々は、ただひたすら書くことに没頭してきた。
何度か権威ある賞に輝き、顔立ちから若さとともに甘さも消え失せ、女優として舞台に立っていた頃の面影は感じられなくなった。
女としての幸せを捨てて執筆に人生をささげる姿を、真波はどこか他人のように見ながら、それでも止めることができないまま最期を迎えてしまった。
「処女作を越えるものを、あたしは書けなかった」
真波は追憶から戻り、瞼をひらいた。
「ずっと書きたいと願ってたのに無理だった」
認めたら負けだと思っていたのに、むしろ清々しい気持ちである。
「だから、集大成のつもりだったあの小説だって、いざ書き上げてみたら遠く及ばない出来だったかもね」
執着心が消えていく。ついさっき、あのノートがどうなったか気にして動転していたことが滑稽にすら思える。
「あたしはあの人が歩むはずだった人生を、横取りした」
真波はしがみついていた花守りの胸から離れ、しっかりした視線でその顔を見た。
「だから、地獄に落ちるのは当然なのよ」
花守りの表情が少し動いた。
「この牡丹に、あたしのケガレを吸ってもらうわ」
虚空をうごめく触手に、真波はゆっくり手を伸ばした。
「その必要はない」
花守りは穏やかな声で告げた。
「あなたは罪を心から悔い、たった今、強い念も欲も捨てた」
「え?」
「もう魂魄が分離しようとしている」
真波は自分の手が透けていることに気付いた。
手だけではない、体全体が透明になりかけている。
「三魂七魄に分かれた魂魄はしかるべき場所へ戻され、あなたは輪廻へ還れる」
言われるまでもなく、真波はもう全ての理をさとっていた。内側からわきあがる宇宙の叡智に、深い安堵と歓喜を感じて満ち足りる。
そして同時に、深い哀しみがほとばしるような激情となって真波を襲った。
「導いてくれてありがとう」
真波は一筋の涙を流した。
万感の想いをこめて花守りの顔を見つめる――遠い昔に死に別れてしまった、愛してやまない夫の顔を。
「また穢れた身で来てしまった」
花守りの顔に優しい笑みが浮かぶ。
「気にするな。人の世とはそういうところだ」
魂魄が分かれ始めた真波は、ここに留まることを許されない。もはや二人には視線を交わすほどの猶予しかなかった。
「待っている、いつまでも……」
花守りの言葉が終わらぬうちに真波の姿は白い靄となり、一瞬で上方に引かれるように消えた。
やがて。
しばらく身じろぎもせず立っていた花守りの背後に、黒い衣をまとったシールシャが現れた。
くたびれたスーツ姿の中年男を伴っている。さっき真波に話しかけた男だ。
「なんだここは?天国にしては暗いじゃないか」
耳障りな声でわめく男をふり返りもせず、花守りは牡丹の触手を撫でながら問う。
「おのれの罪を認めるか?」
「罪?おれが何をしたっていうんだ」
まるで身に覚えがないといった調子で、男は不満げに花守りの背中を睨んだ。
シールシャが男を憐れむように見て言う。
「ちゃんと罪を告白しないと地獄に落とされますよ」
「ああ?犯罪なんか万引きだってしたことない。女なら泣かせたけどな」
男は好色そうな目を隠そうともしない。どうやら彼の目にはシールシャが妖艶な美女にでもみえているようだ。
「おれはな、自分の才覚だけで億の金を動かす身分にまでのしあがった男だ。使えそうな奴らが寄ってきたんで好きにやらせてやった。金なんかやり様であっという間に何倍にも増えていくんだ。面白かったよ。けど、あの暴落で……」
表情を一変させ、握った拳をぶるぶる震わせながら男は叫んだ。
「都合の悪いことだけおれに押しつけて、金目のもの根こそぎ持ち逃げしやがった!こんなみじめな死に方したのも奴らのせいだ!地獄に落ちるべきなのはおれじゃない!」
「心臓発作で孤独死か」
花守りは冷徹な声でつぶやいた。
「妻を見殺しにした男にふさわしい」
男は凍りついたように立ちすくんだ。
「発作を起こしたのに薬を与えず息絶えるのを待っただろう?そして保険金で事業を興した……」
花守りはゆっくりふり返り男の目を見た。
「手にかけて殺したわけじゃない!あいつだって医療費かけて生き長らえるより、さっさと死んでおれの役に立ちたかったはずだ」
悪びれもせず言い切る男に、花守りは撫でていた触手をそっと放った。
「地獄で妻が待っている」
触手はしゅるしゅると勢いよく伸びた。
男はよける暇もなく絡めとられ、地面に引き倒されながらもがく。
「なんだこれは!」
恐怖にゆがんだ男の顔にも触手は容赦なく絡み、ぐるぐるときつく巻きついた。
そして、何重にも巻かれた身体がずるずると牡丹の根元に引きずられていく。
「助けてくれ!」
絶叫を残し、男は苦悶の表情のまま固まって動かなくなった。
「だから言ったのに」
シールシャが肩をすくめる。
黒衣をまとったその姿は人の身体をしていたが、首から上はいつの間にか馬のような獣頭になっていた。
「アシュバシールシャ」
花守りが声をかける。
「ご苦労」
虚空を見つめるその目は寂しげな光を宿していた。
「いえ……今回も導かれたのですね」
「あれにしてやれる唯ひとつのことだ」
花守りが珍しく溜め息をつくのを見て、馬頭のシールシャは心を痛める。
「おいたわしい」
この花園から出ることなく淡々と役目を果たし続けている花守りの孤独を思い、目を伏せた。
「あの方が再び神として転生するには、少しの罪も犯さずに生を終えなくてはならない。それなのに人の世はあまりにも汚く、清らかに生きるには酷すぎます」
「人の生は短い。何度でもやり直せばよいのだ」
「あのように若い姿でやって来るということは罪を悔いている証しですから、次の世こそきっと……」
花守りが幾度も繰り返してきた最愛の妻との一瞬の再会と別れを思い、シールシャは大粒の涙を流した。
「おまえが泣くことはない」
蒼い顔をやわらげて、花守りは穏やかに言った。
「わたしに尽きる命はないのだから」
「はい、ヤマラージャ」
シールシャは深くフードをかぶり直し一礼した。
「死者を裁く黄泉の王よ」
花守りは浅いうなずきを返すと冷徹な表情に戻って背を向けた。
そして花園の中へ分け入っていく。
その先には、別のシールシャが裁きを受ける死者を伴い待っていた。
馬頭の目にはそれが牛頭だとわかるが、死者の目にはまた違う姿に見えていることだろう。人に地獄とも冥府とも言われるこの世界で、常にありのままの姿で見られるのは黄泉の王ただ一人だけだった。
――気の遠くなるような長い長い時間の中で、かすかな可能性を信じて待つことしかできないなんて。
シールシャは深い溜め息をつき、満開に咲き誇る牡丹に目をやる。
「おまえたちが枯れることは、絶対ないだろうな」
ぼやきとともにシールシャは黒い霧となって、次の罪びとを案内するために消えた。
闇の中ほのかに光る花たちが声もなく見送っていた。
――完――
最後まで読んで下さってありがとうございました。