第三話
「待て、空色!」
声を荒げたタダヒトだったが、すでに遅かった。
次の瞬間には、空色の体を風が包み込んでいる。ローブの裾やフードが捲り上がり、中に着ていた服や髪の毛──どちらも純白だ──が、わずかに覗いた。
「大丈夫、だよ? 私だって、誰かを助けられるんだから」
直後、奇妙な現象が起こる。
少女の細い指の先に、一筋の傷が口を開けたのだ。
まるで目に見えぬカミソリで斬りつけられたかのように、白い肌から鮮血が滲み出す。
が、それだけだった。
数本の指に傷が走っただけで、ぴたりと風が止む。
「……なんだ、この程度か。あんまり落ち込んでなかったんだね」
つまらなそうな口調で彼女が言うと、今度は瞬く間に傷が塞がって行くではないか。
滴り落ちた赤い血も、幻のように消えてしまった。
「な、何なんですか、今のは……。どうして、指が」
「代わってあげたんだよ。あなたの苦痛を。
それより、助けに行くんじゃなかったの」
言いながら、空色は荒野に顔を向けた。警戒心の表れなのか、語尾に多用していた「?」がすっかり取れている。
「あの人たち、負けちゃいそうだけど……」
彼女の言葉のとおり、二人だけのギルドは劣勢だった。
当人らも言っていたことだが、やはり「無謀」だったのだろう。
それでもクーの顔に焦りはなく、純粋に戦闘に興じている様子だった。
豪快な笑みさえ浮かべ、彼はスレイブキャスターを操る。
「蹴散らせ、【ドン】! 狙うは王女サマの首だァ!」
【ドン】と言うのが彼の精隷の名前、もしくは愛称なのだろう。
見ると、羆ほどの大きさの牛が、立ちはだかる敵を薙ぎ倒していた。
その甲斐あってか、とうとう敵軍の陣形が崩れ、その先に大将であるメイヴの姿が見える。
「手足がなくとも、道は切り拓けるみてーだぜ? ……突っ込め、【ドン・クアルンゲ】!」
叫び声と共に、彼は自らも猛進する。どうやら精隷に指示を出すには、一定以上離れてはいけないらしい。
【ドン・クアルンゲ】は二本の角を標的に向け、蹄を鳴らして突き進む。
しかし、それでもメイヴの余裕が揺らぐことはなかった。
「あの迷信って、本当だったのかしら? 牛は赤い物を見ると、頭に血が上るって」
「あァ?」
本能的に何かを感じ取ったのか、彼の体にわずかにブレーキがかかる。
するとその瞬間、上空から急降下した黒い影が、【ドン・クアルンゲ】に襲いかかった。
影の正体は、白い羽毛を持つ巨大な鷲の精隷。
大鷲は、鉤爪を持つ足で相手の頭を掴むと、力ずくで地に伏せようする。
「姫様の御前です。頭が高すぎますよ」
その主であろう女生徒が、抑揚の乏しい声で言った。まっすぐに切り揃えた前髪と細い眉毛が神経質そうだが、その顔に表情らしき物は見当たらない。
彼女は自ら盾になるかのように「姫様」の前に立ち、半身になって得物を構える。
「ちっ、知るかそんなもん。俺ァ別にコノートの国民じゃねーし。
そもそもよォ……俺ァ元々身分もクソもねーのよ。ノラ犬みてーなモンだからな!」
クーは牙のような犬歯を剥き出しにして、やはり豪快に笑った。
その間にも、円盤ごと指を動かし続ける。
彼の精隷は前脚の踏ん張りを効かせ、少しずつ頭を持ち上げていった。
「……なるほど。どうりで、品性の欠片も感じさせないわけですね。
しかし、噛み付く相手くらいは選ぶべきでしょう。たった二人でコノート国に楯突くなど……身の程知らずも甚だしい」
「いやだから、絡んで来たのはそっちだろ」
「ですが、了承したのはそちらです。
……ところで、よろしいのですか? 私とお喋りをしていて」
「なに?」
するとその時、クーの左右を取り囲んでいた他の精隷たちが、一斉に彼の背後へと回り込む。
「ちっ! アイツらァ!」
髪の毛を揺らし、彼は咄嗟に振り返った。
そして、見開かれた鳶色の瞳が映し出したのは──
大量の敵に蹂躙される、味方の精隷の無残な姿だった。
「【アクリス】!」
男子生徒が僕の名を叫ぶ。
【アクリス】は巨体を誇るヘラジカに似た姿をしていた。
しかし猛攻を振り払うことができず、立っているのがやっとと言う状態だ。
大樹のように立派だったであろう角もへし折られ、体の至る箇所に傷を負っている。
「くそっ、こんなに簡単に!」
「ふふ、そんなことないわ。二人だけでよく持ち堪えたものよ。
けど……それももうお終いね」
冷酷な声で告げ、メイヴは指を躍らせる。
彼女の精隷は獰猛そうな獅子であった。鬣が長く、背中や額などを甲羅のような物が覆っている。
「存分に喰らいなさい、【ネメアン】!」
戦場を駆け抜けた【ネメアン】は、衰弱し動かない獲物に飛びかかった。磨き上げた黒曜石のように鋭い爪と牙が、【アクリス】を襲う。
「やめろ!」
堪らずと言った様子で叫び声を上げたクー。彼は、スレイブキャスターの本体から生えたレバーの位置を、自らの方へシフトさせる。
すると、それに呼応して、【ドン・クアルンゲ】の体から紅蓮の炎が噴出された。
「どけやらァァァァァァァ!」
“元素”の力を解放し、牛の姿をした精隷はついに大鷲を跳ね除ける。
が、しかし。
少しばかり、遅かったようだ。
甲羅を纏った獅子は獲物の喉元に喰らい付き、強靭な顎で骨ごと噛み砕いてしまった。
盛大に血が飛び散った──かと思うと、断末魔の声をわずかに漏らしただけで、精隷は文字どおり消滅する。
片膝をついたその主を、【ネメアン】は悠々と見下ろしていた。
「……ギルドマスターがやられた。やっぱり、あの人たちの負けだね」
崖の上で、誰にともなく空色は言う。
タダヒトたちはそれに答えられず、あっけに取られたように立ち尽くしていた。
戦場では、生徒たちが各々のスレイブキャスターを停止させたところである。
精隷は全て、光になって弾けた。
「レーグ……」
仲間の名を呟いたクーは、弱々しい足取りで彼に歩み寄る。戦争がを始まる前の威勢が、嘘のようだ。
体力を急激に消耗したのか、レーグは大粒の汗を浮かべ肩で息をしている。
「……すまない、クー。これまでのようだ。
抵抗はしない! 試合に負けた以上、俺の処遇は君たちに任せよう!」
立ち上がった彼は、メイヴらの方へ向けて怒鳴るように言った。
そして、自らのスレイブキャスターを肩から外し、敵陣の方へ放り投げる。
「いい心がけだわ。
シャノン、引導を渡してあげなさい」
「はっ」
彼女の声に恭しく答えたのは、大鷲を従えていた女生徒だった。
シャノンは音もなく動き、レーグの手放した物を拾い上げる。
そのままプレートのある方を下に向け、ハンドルを持ってスレイブキャスターを立てた。
シャノンは本体上部──体の前で構えた時上に来る方──に突き刺さっている、鍵に似たパーツをつまむ。
一度押し込んでからそれを抜き取ると、今度は手首を捻り、スレイブキャスターをひっくり返した。
裏側にも小さな丸い鍵穴があり、彼女はそこへ先ほどの鍵を差し込む。
すると、丸い蓋がぱかりと開き、中から円形の板──“ディスク”が飛び出して来た。
ディスクは一見して厚めの「CD」のような見た目をしており、役割もだいたいそれに近い。
つまり、これはある物を記録した媒体なのだ。
「おい、やめてくれ……」
その様子を目にしたクーは、懇願するように呟く。
しかし、シャノンの鋼鉄の如き横顔には届かない。
彼女は眉一つ動かさぬまま右足を上げ、
「頼む──やめろ!」
学園指定のブーツで、足元に転がったディスクを踏み潰した。
無情にも、彼の「願い」を絶つように。
瞬間、砕け散った残骸からオーロラに似た光が放たれる。
しかし、それも一瞬のことだった。
放出されたエネルギーの塊は、瞬く間に無に還る。
「……くそっ、仕方ねーのか。
ほら、俺のもくれてやらァ」
クーもまた、肩にかけていたベルトを外した。諦めるようにスレイブキャスターを差し出すも、どう言うわけかシャノンは踵を返してしまう。
まるで、「お前のには興味がない」と言うかのように。
「お前、どーして」
「いいんだ、クー」
レーグの声に、彼は驚いた様子で振り向いた。
そして、クーが何か尋ねるよりも先に、王女サマの声が降って来る。
「約束どおり、彼のディスクは壊さないでおいてあげるわ。これで貸し一つ、と言うわけね」
勝ち誇るようなメイヴの言葉に、彼は目を見開いた。
クーは仲間の姿をまじまじと見つめ、
「まさか、初めから俺を庇って……。──ふざけんな! 誰もそんなこと頼んじゃねーだろ!」
スレイブキャスターを持ったまま、食ってかかりそうな勢いで怒鳴る。
堪えきれなかったのだろうその声には、怒りにも増して悲痛さが滲んでいた。
「畜生、なんでだよ……!
だいたい、今回の戦いだって元はと言えば俺のせいで!」
「気にするな。悔やんだって、俺たちに『二度目』なんて物はない。
それに、これは自分で選んだことだ」
「けど!」
「とにかく、後は任せたぞ」
彼は、左胸から剣の形をしたエンブレムを取り外し、一人残された仲間に突き付ける。
クーは逡巡した後、無骨な手でそれを受け取った。
「……ああ」
掌に食い込むほど強く、彼はエンブレムを握り締める。
メイヴたちが去って行く間、クー・フーリガンはずっと俯いていた。
その肩を叩いたレーグも、彼女らとは反対方向に体を向ける。
精隷を失った彼は、学園へ在籍する権利をも失い、何より魔法を獲得する機会を逸したのだ。
それも、永久に。
彼自身も言っていたとおり、「二度目」などあるわけがないのだから。