第三十六話
レアンは伸ばしていた右腕を、力なく下ろした。
すると、その手首の断面からどろりと血の塊が流れ出す。
かと思えば、それはあっと言う間に人の手の形となり、彼の腕と繋がった。
少年は両膝に手を着き、肩を揺らして息を整える。
生徒たちはみな光の糸を引っ張りながらも、彼の姿に釘付けとなっている模様だった。
無論、彼らだけではなく、空色もだ。
(……凄い。──本当に、モリガンを倒すなんて!)
頬を染めた彼女は、組んだ両手を口許に当てがう。その右眼から透明な雫が零れ、頬を伝い落ちた。自然と涙を流してしまうほど、彼の成長──あるあは二人に訪れた「総合命題」──に、心が揺さぶられたのだろう。
空色は俯き、小さな手の甲で暖かな涙を拭った。
処刑人との激闘に決着が付き、荒野は静寂に包まれていた。どことなく、荘厳な雰囲気すら感じられる。
阿羅漢化によってクーの暴走を押さえ込んでいる為か、スレイブキャスターの誤作動はすっかり収まっていた。だからこそディスクが回転する音が聞こえて来ず、余計に辺りは静まり返っているのだ。
聞こえて来るのは、風の吹き抜ける声だけ。
まるで何か厳かな式典の最中のように、咳払いをすることすら躊躇われそうであった。
生徒たちは声も出せぬまま、少年がこの場を去るまで立ち尽くしていたことだろう。
──が、しかし、彼が立ち去るよりも先に、それはある男子生徒の手許で起こった。
彼──ギルド〈フェンリル〉の生徒だ──の鍵から伸びていた光の糸が、少しずつ解れて行くではないか。
ほどなくして、その男子生徒が異変に気付いた時、糸はぶつんと音を立てて、切れてしまった。
「──え?」
直後、彼が肩から下げていたスレイブキャスターが、再び誤作動を起こす。円盤が踊り狂い、ディスクが急速回転する怪音が響き渡った。
それを皮切りに、他の場所でも次々と光の糸が切れて行く。
「なに⁉︎ まさか──」
声を上げたロイは、すぐさま背後を振り返った。
彼の視線の先には、やはりうなだれている怪物の姿があった。
が、しかし、先ほどまでとはとこか様子が違う。わずかに開いた怪物の口からは、例の不気味な牙が覗いていた。
(クーさんの暴走が、また⁉︎)
再び始まった「渾沌」を目の当たりにし、フィアナは唇を噛み締める。
彼女の鍵の先から伸びた光も、すでに引き千切られる寸前のようだった。
瞬く間に糸は残りわずか──残っているのはフィアナ、ロイ、メイヴ、シャノンの四人だけだ──になり、枷が弱まった為か怪物が目を醒ます。
あらゆる人間の叫喚をオーバーダビングしたかのような声で、クーは咆哮した。
腕を広げ天に吼えるその姿を、空色は憐れむような表情で眺めている。彼女にとって、彼の安否などどうでもいいことのはずだ。だからこそ、空色は憐れんでいるのだろう。
彼女は少年を連れて、さっさとこの場を立ち去りたかったに違いない。
しかし、空色が踵を返しかけた時、彼はその真横を通り過ぎて行く。
「──え? タダヒト?」
すれ違いそうになった彼女は、追いすがるようにレアンの──正確にはその中身の──名前を呼んだ。
だが、マフラーをなびかせる彼の背中が止まることはなかった。
しばしその後ろ姿を見ていた少女は、やがて小さく笑い、
「……いってらっしゃい」
ただ一言、それだけ言って送り出す。
「……ああ」
まっすぐに前を向いたまま答えた彼は、瞬間、地面を蹴り付けた。
(さっきの戦いで、フラワーは使い切った……。けど、だからって見捨てるわけにはいかない!)
満身創痍のはずのレアンは、疾風の如き速さで生徒らの間を駆け抜ける。
フィアナやロイ、そして崖の上から戦場を見下ろすメイヴとシャノンも、当然ながらそれに気付いた様子だった。
「奴の暴走を止めるつもりか!」
眼鏡のツルに右手の指をかけて、ロイが声を上げる。
「けど、いったいどうやって……」
崖の上で、メイヴが呟いた。
「……もう一度、先ほどの攻撃をしかけるつもりなのでしょうか?」
額に汗を浮かべたシャノンが、誰にともなく尋ねる。
そして、フィアナが
「……お願い、します──クーさんを助けてください!」
少年の背中に向けて懇願した。
怪物の目の前に到達した彼は軽やかに跳躍し、拳を振りかぶる。
レアンは相手の顔面をめがけ、拳を突き出した。
──が、その攻撃はいとも容易く受け止められてしまう。
怪物の手はがっちりと彼の拳を掴んでおり、簡単に振り解けそうにない。
(だったら!)
彼はすぐさまもう一方の拳を握り締めるも、怪物の攻撃が届く方が早かった。
手首を掴み上げられ、レアンは苦悶の表情を浮かべる。よほど強い力で握られているのだろう。彼の赤い装甲に、わずかにひびが走った。
しかしレアンは諦めず、今度は右足で相手の横っ腹を蹴り付ける。
ようやく攻撃が命中した──と思ったのも束の間、怪物の皮膚が氷柱のように尖り立ち、彼の足を突き刺してしまったのた。
「ぐっ、あ……!」
足のすね辺りを刺し貫かれ、レアンは呻き後で上げた。黒い氷柱から、赤い溶液が滴り落ちる。
動きを止めた彼を見て、クーはのそりと右足を上げた。
そして、今度は容赦なく、少年の左膝を蹴り付ける。
──ばきり。
厚い木の板がへし折られるような痛々しい音が、そこから聞こえて来た。レアンは堪らずと言った様子で、絶叫する。
彼の左脚は無残にもくの字に曲がり、力なくふらふらと揺れていた。
怪物はレアンの両手を持ったまま、軽々と彼の体を持ち上げる。玩具やぬいぐるみでも扱うかのように。
実際、彼は糸の切れたマリオネットを思わせる状態だった。左右の手は封じられ、両の脚は負傷してしまって動かせない。
攻撃手段の一切を失い、後は怪物の乱杭歯に咬み殺されるのを待つしかないように思えた。
(俺は、もう……。──いや、まだだ!)
レアンは血が噴き出しそうなほど歯を食いしばると、何を思ったか体を反らす。
そう、全身に傷を負い両手両脚を封じられてしまった彼にも、まだ手段は残されている。
何故なら──
(俺は、俺には、まだ……!)
何故なら、少年にはまだ、立派な首が残っているのだから。
「いいかげんにぃぃ!」
レアンは最後に残された武器──自らの頭を、怒鳴り声と共に振り下ろす。
「目ぇぇ覚ませぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
直後、彼の放った渾身の頭突きは怪物の額へと激突する。
それはまるでダンプカー同士がアクセル全開でぶつかり合うような、壮絶な光景だった。いささか大袈裟な表現かも知れないが、そう思えるほど、力の込められた一撃だったのだ。
怪物と額を付け合わせたレアンは、しばし固まっていた。
クーもまた、身じろぎ一つしない。
彼らだけではなく、学園の生徒たち、ただひたすら立ち尽くすばかりだった。
まさか、またも時が停止したのだろうか?
──いや、違う。もう二度と、時が止まることはない。
そうしているうちに、少年の左耳に取り付けられていた通信装置──白い蛹に、亀裂が走る。
亀裂は瞬く間に蛹全体へ広がり、やがてダムが決壊するように、砕けた殻の破片が飛散した。
そして、中から飛び出して来た昆虫は高速再生された映像のように、たちまち翅を開いて行った。
羽化した蝶は、白い中に真紅の斑がある独特の翅で、青空の中を羽ばたく。
すると次の瞬間、蝶は眩しい光に呑み込まれた。
いや、彼だけではなく、荒野に立ち尽くす誰もが、檸檬色の光の中に消えたのだ。
全ての闇を浄化するようなこの輝きは、どうやら怪物の体から放たれているらしい……。
──やがて、浄化の光が完全に収まった時。
そこには一人の少年と、一人の男子生徒が倒れ伏していた。




