第三十四話
処刑用の巨大な斧を、モリガンはなんと片手で掴み取る。重厚感のある見た目に反し、それはすんなりと振り下ろされた。
彼女は獲物の先端──戦斧のように槍の刃先が付いている──を、怪物に向ける。
「……さすがに食い過ぎたか? ……まだ動けぬようだな」
モリガンの言葉どおり、怪物はすぐには動き出せそうになかった。ただ濁った瞳で彼女を見つめながら、首の辺りまで裂けた口を細く開けている。その隙間から覗く鋭い乱杭歯と紫色の舌が、本能を握り潰すような「恐ろしさ」を醸し出していた。
「……ならば今のうちに死ね」
情け容赦など皆無の声で言い、処刑人は今度こそ斧を振り上げる。
その様子を、フィアナは目を逸らすことなく見つめていた。
(クーさんが……殺されちゃう!)
彼女はエンブレムを握り締めたまま、弾かれるように走り出した。
精隷を失い精霊を使いこなせない今の彼女に、できることなどありそうもないが……。
(そんなの嫌! 見ているだけで何もできないなんて、私は!)
足を縺れさせながら、フィアナは彼らの間に割って入った。
そして怪物を庇うように、両腕を広げて立つ。
震える唇を血が出そうなほど噛み締めて、彼女は首をもたげた斧を睨み付けた。
──が、しかし。
本当の危険は、その背後から忍び寄っていた。
女生徒のすぐ後ろには、いつの間にか怪物の鉤爪が迫っていたのだ。
食傷気味かと思われていたクーは、意外なほど早く活動を再開したらしい。
「──え?」
肩越しに振り返ったフィアナの瞳に、指の本数以外は原型を留めていない彼の手が、映し出される。
怪物は狂ったような咆哮を上げながら、彼女の体を切り裂かんとした。
「……愚かな」
「興醒めだ」と言わんばかりの冷たい声で、モリガンは言い放つ。
刹那、黒い蛇が獲物に食らい付くかの如く、斧は振り下ろされた。
フィアナはとうとう堪え切れなくなったのか、瞳を閉じてしまう。
これ以上ないくらいの、「絶体絶命」。死神と悪魔に挟み撃ちにされるかのような状態だった。
目を瞑ったその脳内では、もしかしたらこれまでの記憶が走馬灯のように駆け回っていたかも知れない。だとすれば、思い出されるのはエリンでの父との生活や、魔導書のページを刻み込まれたこと、そして、学園に来てから出逢った者たちの姿だろうか。
(助けて、お父さん! ──タダヒトさん!)
女生徒が胸のうちで誰かの名を叫んだ、次の瞬間──
一陣の突風が、戦場を吹き抜けた。
盛大に舞い上がった砂塵を切り裂き、怪物の鉤爪が女生徒に襲いかかる。──かと思われたが、予想に反し、聞こえて来たのは硬質な物同士がぶつかり合うような高い音。
それもそのはずで、実際に爪とかち合ったのは黒い斧の刃だったのだ。
さすがのモリガンも、これには驚きを隠せなかったらしい。暫時、緋色の瞳を見開いた。
(……娘が消えただと⁉︎ ……馬鹿な)
彼女は瞬時に跳び退き、競り合いから離脱する。
そして数メートル後ろに着地すると同時に、彼らの存在に気が付いたようだった。
モリガンは目玉だけを動かし、両脇にある物を抱えた彼の後ろ姿を、睨み付ける。
そしてそこで、「ある物」のうちの一つであるフィアナは、恐る恐る瞼を開けた。
彼女の視界に飛び込んで来たのは、茶褐色の壁と化した地面だったはずだ。
しかし、すぐに自分が抱えられていることに気付いたらしく、フィアナは慌てて顔を上げた。
そして、荒野の中の誰もが──いや、崖の上にいる生徒たちですら──、一人の少年の姿に釘付けとなる。
「……よかった。なんとか間に合った」
独白のように呟いた彼は、膝を伸ばして立ち上がり、抱えていた二人をそっと地面に降ろした。
その全身は、SFの世界で量産されていそうな装甲に包まれている。不思議なことに、鎧にはこれまで受けて来た傷が一切残っていない。この短時間で作り直して来たのかと思えるほどだ。
──だが、真に特筆すべきはそんなことではない。
「……さ、さっきの男なのか? ……しかし、首を切り落とされたはずだぞ!」
喫驚した声で言い、ロイは眼鏡をかけ直す。彼も処刑の瞬間を目の当たりにしたのだから、当然の反応だ。
また、呆然と少年の姿を見つめていたフィアナは、こう呟いた。
「……色が、変わってる」
そう、彼の全身は彫像を思わせるような白から、鮮血の如き真紅へと変容しているのである。まるで、煮え滾る血潮が、体の表面にまで浮かび上がるかのように。
しかしながら、彼の変化は装甲の色だけではない。
白い喉を剥き出しにしていた首元が、光を編み込んでできたマフラーによって覆われているのだ。
そのマフラーはフラワーと同じく玉虫色をしており、長く余った両端が炎のように揺らめいていた。
「……何のつもりだ。……貴様のその姿は……」
彼の後ろ姿を睨め付け、モリガンは尋ねる。
すると、少年──レアン=カルナシオは、もったいぶるような動作で振り返った。
レアンの額からは、これも光でできた角とも触角とも取れない物が二本。稲妻型に折れ曲がりながら、後方へと伸びている。
また、左肩の装甲には何かのマークなのか、黄色い三本のライン──真ん中が太く左右の線が細い──が、斜めに走っていた。
──ほどなくして、先ほどの処刑人の問いに答えたのは、空色だった。
「“三位一体”……」
少年の陰に隠れるように佇んでいた彼女は、静かな口調で紡ぎ出す。
「覚悟した方がいいよ、モリガン。……ここからは、誰も知らない領域だから」
黄金の右眼は澄み渡っており、その言葉に一切の誇張がないことを物語っていた。
「……二百年越しに悲願を達成したとでも? ……今更そんなことをしたところで」
言いかけた彼女の声を掻き消すように、怪物が吼えた。
彼は首まで裂けた口を大きく開き、モリガンに飛びかかろうとしている。
「……貴様はしばらく黙っていろ」
横目にそれを見やりながら、彼女は無造作に腕を動かした。
黒い巨斧が、怪物の牙を受け止める。
クーはその刃に喰らい付き、力任せに嚙み砕こうした。
が、そうなるよりも先に、斧はコートから変化した時と同じように蠢く。
黒い虫の塊は瞬く間に怪物の顔を覆い、無理矢理猿轡でもするようにそれを締め上げた。
クーは苦しそうな声を上げ、どうにか拘束から逃れようともがく。
「……奴の処刑は先送りにするとして」
モリガンは、少年たちの方へ視線を戻した。
「……私は魔導書ならびに全ての精霊を葬る者。……その役目果たさせてもらう」
「わかってます。俺だって、初めからそのつもりで来てるんだ……」
レアンは、相手の眼差しを正面から迎え撃つ。
「あなたを倒して、今度こそ手に入れてみせる!」
「……やってみるがいい。……死に損ないが」
直後、二人の姿が消えた。
実際には、そう見えるほどの速度で、弾き出されていたのだ。
それぞれが立っていた場所の中間地点で、彼らは正反対の色をした拳を交える。
互いの攻撃をぶつけ合いながら真横に跳び、荒野の中を崖の反対側へと移動して行った。
レアンたちはもはや二つの影となっており、常人では目で追えぬほどの速度で攻防を繰り広げる。
しばし、呆然とその様子を眺めていたフィアナだったが、ふと不安げな顔を仲間だった存在へ向けた。
(クーさん……)
怪物は地団駄を踏むようにもがいており、その周囲には冷気や火の粉等──元素の片鱗が出滅している。
すると、目を逸らさずにいるだけの彼女に、声をかける者があった。
「……あの人のこと、救いたいの」
語尾に「?」を付けずに言ったのは、空色である。
フィアナは振り返り、喫驚した表情を見せた。もしかしたら、今まで彼女がいることに気付いていなかったのかも知れない。
「空色さん⁉︎ ──そ、それはもちろん……できることなら、そうしたいですが……」
「……なら、いいこと教えてあげるね」
「いいこと、ですか?」
不思議そうに首を傾げる彼女に対し、空色は怪物に目をやりながら答えた。
「あの人は今、周囲のスレイブキャスターのネットワークと、直接繋がっている状態にある。だからこそ、勝手にオルタナティヴスペルを引き出されてるんでしょ
。
だったら、そのことを逆手に取ればいいんだよ」
「な、なるほど。
でも、いったいどうすれば」
「阿羅漢化。……あれをやって、オルタナティヴスペルを自分の方に呼び戻すの。そうすれば、動きを封じることくらいはできるかも」
「阿羅漢、化……」
フィアナは珍しく消え入りそうな声で言い、俯く。
その蒼い瞳は、自信なさげに沈んで見えた。
しかし、すぐに自らの手の中の物が目に映ったらしい。
彼女は、掌に食い込みそうなほど強く、エンブレムを握り締める。
それから意を決したように顔を上げ、
「わかりました。私、やってみせます!」
「……そう。
もちろん、実際に阿羅漢になれなくても、効果はあると思う。要は引き寄せられればいいんだから」
「はい!」
力強く頷いたフィアナは、手に持っていた物を左胸のポケットにしまい、スレイブキャスターを構えた。
相変わらず円盤が踊り狂いレバーが馬鹿になっていたが、彼女は気にしていない。
フィアナは本体に刺さっていた鍵を抜き取り、プレートの根元に突き立てた。
深呼吸をしたフィアナは、怪物をまっすぐに見据えながら、唱える。
「阿羅漢化!」
それと同時に、鍵をプレート上でスライドさせた。
鍵が通り抜けた跡を、虹色の光がなぞる。
そして、彼女が右腕を真横に伸ばすと、鍵の先端から一筋の光が放たれた。
光は細い糸の形を取り、女生徒の鍵と怪物の体とを結ぶ。わずかながら、オルタナティヴスペルを呼び戻しているのだ。
(お願い、【でんさん】! 私に力を!)
フィアナは歯を食いしばり、光の糸と繋がった鍵を、両手で自分の方へと引っ張る。
彼女の姿を目にした〈フェンリル〉の生徒が、惚けたように呟いた。
「彼女は、何を……」
「……なるほど。阿羅漢化によって暴走を弱めるつもりか」
眉間に皺を寄せたロイが言うと、今度は別の生徒が彼に尋ねる。
「ロイ様、我々はどうすれば」
「……崖の上に撤退したコノートもすでに巻き込まれているようだ。このまま奴を放置すれば、彼らとの関係はますます悪化するだろう」
彼は電卓を打つように早口で言い、眼鏡をかけ直す。
「何より、これ以上同胞を失うわけにはいかない」
「では!」
「ああ。我々も彼女に続くぞ!」
ロイの号令に、鬨の声が湧き上がった。
それから、ギルド〈フェンリル〉の面々は一斉に阿羅漢化を試みる。
とうとう猿轡を噛み千切ることができたクーだったが、黒い羽毛が舞い散った瞬間、光の糸が八本も増えた。
クーの体から放射線状に伸びた光の影響か、彼の動きは次第に弱まって行く。
当然ながら、こうした光景は崖の上にいる彼らにも届いているらしかった。
「あれは……」
メイヴの漏らした声に、隣りから少年官僚が答える。
「おそらく、阿羅漢化の特性を活かし、オルタナティヴスペルを呼び戻そうとしているのでしょう」
「……どうやら、そのようね」
「姫様……」
「わかっているわ。私は大コノートの王族。どんな状況だろうと、下等国家なんかに屈するつもりはない!」
きっぱりと言い切った彼女は、にわかに尊大さを取り戻しているらしかった。
メイヴは大仰な仕草で腕を伸ばし、
「総員、阿羅漢化を発動させなさい! あの化け物を封じ込めるわよ!」
その合図を受け、〈トリスケリオン〉の生徒らも各々の鍵を抜き取る。
再び「阿羅漢化」と言う声が響き渡り、檸檬色の光が幾筋も放たれた。
光の糸に囚われたクーは、やがて完全に動きを止める。首まで裂けた口を閉じ、彼はうなだれるように下を向いた。
その様子を見つめていた空色は、回れ右をして、果てしなく広がる荒野に目を投じる。
彼女の祈るような瞳の先では、二つの影がぶつかり合っていた。




