第三十二話
〈『ノベルザナドゥ』内部〉
闇に包まれていた空が、再び高速で動き始める。
地平線の縁が白み始めたかと思うと瞬く間に朝日が差し込み、濃縮された陽光で「本の海」を照らす。
斜めに突き刺さった柱が歪な影を作り、その根本に縛られたままの「首なし死体」を呑み込んだ。
(……空色は、どうして最後にあんなことを……)
少年は座り込んだまま、首のない体で思考する。その頭上には、すっかり元どおりの青空が広がっていた。
(『どっちかわからなかった』ってことは、つまり……)
「本の海」の至る場所で、タイトルも著者名もない本が湧いて来る。これらの本は全て新たに生まれたのではなく、月に焼き殺された物が蘇ったのだろう。
つまり、彼らは本当の意味でどこにも行けず、永遠にこの空間の中で「死なずにいる」だけなのだ。
無数の「選ばれざる者」たちの姿を、月が見下ろす。まるで牢獄の前に居座る看守のように。
すると、その月の中に黒い小さな点が生じた。
シャープペンの先で付けた汚れのようなその影は、少しずつ彼の方へと近付いて来る。
ほどなくして、それは黒い翼を持つミミズクだと言うことがわかった。
ミミズクは次第に下降し、タダヒトの目──などないが──の前に着地する。
バサバサと羽を閉じた彼は、黄色い嘴から主の声を発した。
『久しぶりね、タダヒトちゃん。……と言っても、こうして本体に直接話しかけるのは、初めてかしらん。
知ってると思うけど、一応自己紹介ね。精霊文献再生局局長、ミンネ・ゼンガーよんっ。よろしく〜』
やはり中性的な口調で、ミンネは言った。
口が、そしてそもそも首がない為か、タダヒトは無言のまま彼の自己紹介を受け止める。
彼も少年が喋れないことは承知の上なのだろう。間を置かずに話を始めた。
『それはそうとして……空色ちゃんからいろいろと聞いたみたいね。……彼女が言っていたことは、全て真実──だと思うわ。今のところは、だけど』
多分に「含み」のある言い方である。
もしタダヒトに頭がくっ付いていれば、「今のところは?」と聞き返していたかも知れない。
『空色ちゃんの正体に関しては、私たちも完全に掴みきれていないの。……ただ、彼女の言動や知識から考えて、新祖本人であることはほぼ間違いないわ。もちろん、ここへ来る為の鍵を持っていたことも、証拠の一つね。
それに何より、彼女はあんな風に発見されたから』
空色はレアンと共に発見されたと言う。
その辺りの事情が、彼らが彼女を新祖だと判断した経緯と関係しているらしい。
『知ってのとおり、空色ちゃんはレアン=カルナシオと一緒に見つかった。二人は並んで置かれていた石棺の中で、それぞれ眠っていたわ……。
彼らを発見した私たち──ヴァルナの精鋭を集めた研究班──は、まず何をしたと思う?』
少年が答えられるわけもなく、また、ミンネも回答を促すようなことはなかった。
『答えは、「確認」よ。二人が本物の人間なのかどうかを、確かめたの……』
以前空色が言っていた話によると、ヴァルナ機関は[人間]の精霊に関する情報を、事前に掴んでいたらしい。
だからこそ、二百年もの間変わらぬ姿で寝ていた二人が、「どちら」なのか判別できなかったのだろう。
そしてその際、研究班はどのような方法で確かめたのか。
これに関しても、少女の言葉に答えがあるようだ。
──切ったり刺したり煮たり焼いたり──それこそいろいろしたんだよ?
かつてレアンに対して行われた、非人道的な実験。それはおそらく、彼と共に発見された少女に対しても──
『同じことをしたわ。レアン=カルナシオにしたのと、同じ「実験」をね。そして、二人の反応をそれぞれ観察した。そうすることでしか、「確認」のしようがなかったの。
……酷い話でしょ? 勝手に叩き起こしたクセに、人間かどうかわからないから痛め付けるなんて。
けど、そうでもしないと、私たちは安心できなかったのよ』
『本当、情けないわよねぇ?』と、ミンネは自嘲するように言う。
どうやら彼の中には、少なからず罪悪の念がわだかまっているらしい。
また、以前ミンネからの指令を受けた際、空色はどこか緊張した様子だった。もしかしたら、ヴァルナの人間に刻み込まれた恐怖は、未だ癒えていないのではないだろうか……。
彼女の呪いは他人にしか効果がないようだから、自分自身には使えない。
言い換えれば、誰も彼女の「心の傷」を肩代わりできないのだ。
『初めのうちは、毎日のように「実験」を行ったわ。彼女の体がどれだけ傷付こうと、あの溶液に浸からせれば元どおりに治るから……。そうやって、私たちは彼女を物のように扱った。
すると次第に、彼女が本物の人間だってわかって来たの。……加えて、新祖でしか知り得ないような知識や、記憶を持っていることも』
ミミズクは微動だにしないまま、主の声で囀る。ここにやって来た頃のハイトーンな喋り方は、すっかり鳴りを潜めていた。
『私たちは、ようやく空色ちゃんを人間扱いするようになったわ。具体的に言えば、溶液を注いだ棺桶から出して、白いベッドと監視付きの檻に移し替えた……。
それから、私たちは彼女の知識を利用することを考え始めたの。……レアン=カルナシオのことや、ここ「ノベルザナドゥ」のこと。そして……』
ミンネは躊躇いながらも、しかし意を決したように続ける。
『タダヒトちゃん、あなたのことも。……かつて新祖が計画していたように、私たちはあなたをレアンの中身に選んだ。
そこから先は、タダヒトちゃんも知っているとおりよ。空色ちゃんをあなたの元へ送って、失っていた首を再生してもらったわ』
そこまで言うと、彼は息をついた。
使い魔越しに語られた、知られざる空色の過去。彼女が実験動物のように扱われていたことを知り、少年は何を思うのか……。
首のないその姿からは、窺い知ることが難しい。
『……ねえ、タダヒトちゃん。あなたは、空色ちゃんを見てどう思った? 新祖だった頃の片鱗を感じ取ることも、あったかしらん。
……けど、それだけじゃなかったわよね?』
千切れた雲が、一人と一羽の頭上をゆっくりと流れて行く。
無限に広がる空の様子は一見幻想的だが、同時に寒々とした景色でもあった。まるで、どこまで行っても「生」にあり付けないことを、暗に示されているかのように。
『見た目どおり、普通の女の子として振る舞うことの方が多かったでしょ? 甘い物が好きだったり、他の娘にヤキモチを焼いたり。……そして、誰かのことを大切に想ったり……。大昔に神を殺した人間にしては、ずいぶんと可愛らしい言動よね。
私たちも、彼女の経歴と人格との「矛盾」には、気が付いていたわ。そして、こう考えることにしたの』
ミミズクは瞬き一つせずに、少年を見つめる。ガラス玉に似た瞳黄色いには、座り込む「首なし死体」が映し出されていた。
『彼女の精神年齢はあの見た目のまま──十代半ばほどで止まっているんじゃないか、って。……つまり、完全な「死」を免れあの姿となった新祖は、人格さえも無邪気な少女の状態に戻ってしまった。そして、そのまま彼女の中の時は停止した、と言うわけ。
考えてみれば当然のことよねぇ。だって、空色ちゃんはずうっと、封印されていたんだから』
確かに、ミンネらの考えが正しければ、空色の抱える「矛盾」についても説明が付く。
かつて神を殺し、自らに呪いをかけた魔道書の祖。
甘い物に目がなく、眠気に弱い無邪気な少女。
これらの貌はある意味どちらも本当の彼女であり、だからこそ「矛盾」が生まれるのだ。
言うなれば、二百年間「生きて来た」のと「封印されていた」のとでは、大きく違うと言うことか。それこそミンネの言うとおり、彼女の精神の成長は停止していたのだ。
『私たちは、本当に酷いことをして来たわ。だから、こんなことを言える立場じゃないことくらい、わかってる。……だけど、それでも、やっぱりこれだけはわかっていてもらいたいの。
空色ちゃんの過去がどうであれ、心は普通の女の子と同じ。あなたが見て来た彼女は、偽りの姿なんかじゃないってことを』
どうやら、彼がわざわざ使い魔を寄越してまで伝えたかったのはこの言葉であるらしい。
その胸に渦巻くのは、鉛雲のような罪悪感か、それとも自分たちが叩き起こした少女への憐れみか……。
いずれにせよ、「無責任」も甚だしい発言であることは確かだ。人によっては、「ふざけるな」と突っ撥ねていてもおかしくない。
しかし、幸か不幸か少年には口がなく、レスポンスなど皆無であったが。
ミンネは数拍間を置いてから、取り繕うよう口調を弾ませる。
『ごめんなさいね〜、一方的に喋りまくっちゃって〜。
それじゃあ言いたいことは言ったから、私はこれでっ』
努めて「無責任」さを強調しているのだろうか。自嘲的であり、自傷的とも思える「お道化」だ。
『と、そうそう。あともう一つだけいいかしらん。
タダヒトちゃんの胸にブッ刺さってるその槍なんだけどぉ……“アステリオス”って言う名前だそうよ? なんでも、ターゲットがどこにいようとも絶対に貫く、「魔法の槍」なんですってぇ』
いったい何の意味があるのか、最後にそんなことを付け加えると、
『じゃ、今度こそさようなら、タダヒトちゃんっ』
メッセンジャーは青空へと羽ばたいて行った。
ミミズクの姿はすぐに黒い点となり、やがて完全に見えなくなる。
やはり「本の海」に取り残されたのは、巨大な柱と「首なし死体」だった。
タダヒトは力なく座り込んだままであったが、その胸の中では今し方聞かされた話が駆け巡っていることだろう。
(……空色が、普通の女の子? ……俺が見て来た彼女は、偽りの姿じゃない? ……そんなこと)
手許に転がっていた本に乗せられた指に、力が込められる。やり場のない怒りを発散するように、彼は灰色の表紙に爪を立てた。
(そんなこと、俺だってわかってる! ──俺が一番知ってるんだ!
ずっと、ずっと俺は彼女と一緒にいた……だから、だから!──)
しかしそこで、彼の左手からすうっと力が抜けてしまう。
(──違う。そうじゃない……。空色と一緒だったのは、俺の分身だ。俺自身じゃない。
俺はいつも、見ていただけだ。ここから一歩も動かずに、流されるがままに傍観していた。……俺はやっぱり、どこまでも『ただの人』でしかないんだ……)
彼と言う存在は、インターネットなどに氾濫する「画一化された文章」に似ている。どこの誰が使っても変わらない、顔のないのっぺらぼう。水瓶の中のボウフラのように、際限なく沸いて来る有象無象に。
そして、こう言った文章は相手と対面することのない状態──あるいは傍観者的立場の時──に使われることが、ほとんどだ。一切自分の顔を見せずに、自室の椅子に座ったまま、同じように姿の見えない相手に向けられた文字の羅列。
まさしく「首」を持たない今の彼を表すには、ぴったりの言葉だろう。
(誰でもないし、誰にもなれない、ただの……)
よく「名は体を表す」と言うが、彼の場合は「体」の状態が「名」その物であったのである。つまり、「ただの人」であるからこそ首がなく、首がないからこそ「ただの人」なのだ。
(……なのに、空色は)
しかしながら。
「しかしながら」である。
(俺を、見付けてくれて……)
いつまでも「ただの人」でいることなど、果たして許されるのだろうか。
(俺を、助けてくれて……)
そして、いつまでも「ただの人」でいることに、満足できる人間などいるのだろうか。
(俺に、あの時……だから……)
──否。
(今度こそ、俺が)
そんな道理、まかり通るはずがない。
その程度の存在でいることを受け入れられる者など、いようはずがない。
(二回目なんかじゃなく、一回目が!)
タダヒトは両足を踏ん張り、両腕に力を込める。錆び付いた鎖が擦れるように軋み、悲鳴を上げた。
(本当は、ずっと嫌だったんだ! 彼女の隣りにいるのはただの分身で、俺自身じゃないってことが! 自分一人だけ、ずっと『死なないでいる』ことが!)
鎖は彼を逃すまいと抵抗を続けるが、それも長くは続かない。
内側からの力に耐え切れなくなった鎖は、とうとう引き千切られてしまう。
少年が立ち上がると同時に、鉄屑はじゃらじやらと音を立てて「本の海」に落ちた。
それから、タダヒトは胸から生えた黄金の槍へと、右手をかける。
(こんな所で!)
更に、もう一方の手で胸に近い部分を握り締めた。
どうやら、槍を自力で引っこ抜こうとしているらしい。
(こんな所で──いつまでも死に損なっていられるか!)
アステリオスは、次第に体の前へと引っ張られて行く。少年が奮闘を続けると、やがて刃の両端にあるかえしが、背中でつっかえるようになった。
(空色の言っていたとおりだ……。俺は、本じゃない)
それでもなお、彼は両手を体の前へと押し出す。もしタダヒトに顔が付いていれば、ギリギリと歯を食いしばっているところだろう。
返しのある刃は、少しずつ彼の体に食い込む。
血が噴き出すように、少年の背中から黒いヘドロが流れ出た。辺りに飛び散ったヘドロは小さな泡となって弾け、どこかへと消えて行く。
(世界に選ばれるんじゃなく……俺が世界を選ぶんだ!)
やがて、両手の甲にも黒い血が滲み始めた時──
とうとう、黄金の槍が勢いよく引き抜かれる。
胸と背中からヘドロを流したタダヒトは、アステリオスを右手で握り締めた。
前屈みになった彼はすぐさま体を起こし、空を見上げるような体勢となる。
タダヒトは半身になって脚を開き、槍を握った腕を弓を引くように構えた。
(今度こそ、行ってやる。──アルビオンへ!)
胸の内で決意を固めたらしい彼は、果てのない青空めがけ、槍を放つ。
タダヒトの手を離れた瞬間、アステリオスの周囲で青白い雷光が瞬き始めた。
すると、たちまち少年の体は解けて行き、渦を巻きながら、黄金の槍へと吸い込まれてしまったではないか。
タダヒトを吸収したアステリオスは、斜め上空を目指して発射される。
稲光を体中に纏い、黄金の槍は高速で空を駆け抜けた。
青ずんだ空気を裂き、千切れ浮かぶ雲を突き破り──
やがて、それは真昼の月へと辿り着く。
クレーターだらけの月面に突き刺さり、アステリオスはようやく動きを止めた。
かと思いきや、今度は猛烈な勢いで回転し始めた。
まるでドリルのように土を砕いて進み、槍は徐々に月面を掘り進める。アステリオスの刺さった場所を中心に、周辺の岩盤が棘のように隆起して行った。
それは瞬く間に全体へと広がり、まるで蕾が花開くかのように月面が捲れ上がる。
──やがて、槍の姿が完全に見えなくなった頃、月は白乳食の蓮の花と化していた。
青ざめた空に無言で浮かぶその姿は、まさしく水面から首を伸ばす蓮華その物。泥より出でて泥に染まらない花の中を、アステリオスはひたすらに突き進んだ。
生きるべき世界を目指して。




