第三十話
「ノベルザナドゥ」に広がる空が、地平線を軸にして回り始める
まるで定点カメラからの映像を早送りで再生しているかのように、急速に雲が流れ日が傾いて行く。
「空が、動いてる……。と言うことは、また」
呟いたのは、タダヒトだった。
「本の海」は夕焼け色に染め上げられ、かと思うとすぐさま濃紺の夜が訪れる。
青澄んだ空はどこかへと消えてしまい、今や一面に暗闇が広がるばかりだった。夜空と言うよりも、むしろ宇宙空間その物と言った方が適切だろうか。
唯一、青空の時と変わらないのは、大きな月がぽっかりと浮かんでいることだった。
月は完全に満ちており、アルビオンで見る物同様、銀色に輝いている。その強烈な光が、二人のいる空間を照らし出していた。
「また、あれが始まるのか……」
途方もない暗闇を見上げたまま、彼は打ちひしがれたような声で言った。
空色は言下に頷いてみせる。
「タダヒトも、見たことあるんだよね? これから起こることを」
彼女が言い終えた直後、二人の傍に転がる本が一冊、ひとりでにページを開く。
それに気付いたらしいタダヒトがそちらへ視線を向けると、また別の場所でパタリと音がした。そして、それを皮切りに十、百、千、万──瞬く間に数え切れない量の本が、至る所でページを開いたではないか。
「ここにある本たちは、全て世界にすら選ばれなかった存在。……けど、それでもまだ、世界に生まれることを望んでいるの」
花開くように文字の詰まった中身を露わにした本たち──それでも全てではなく、閉じたままの物も多い──は、やがて重力に逆らって浮かび上がる。
彼らはそれぞれ白い微光に包まれ、かと思うと一斉に空へ飛び立って行った。
地上から放たれた無数の光は、流星の群のように尾を引きながら、暗闇の中を泳ぐ。
彼らが目指しているのは、どうやら銀色に輝く月のようだった。
「あの月をはね、『扉』その物であり、同時に『門番』でもあるんだよ? だから、彼らは月を目指すんだって」
空色もまた、暗闇の彼方を見上げる。
黄金の瞳が向けられた先では、流星群が「扉」の目前へと差し掛かっていた。
「どこにも行けるわけ、ないのに………」
するとそこで、今度は月に異変が生じる。銀色に輝いていたはずのその姿は、瞬く間に赤々と燃え上がったのだ。
月は焼いた鉄のようにどろどろと煮え滾っており、その姿はまるでマグマの塊──いや、むしろ太陽に似ていた。
灼熱の星と化した「門番」の元に、本たちが何千、何万冊と群がる。しかし、それらは全て月に辿り着くよりも前に、その熱に触れ焼き焦がされた。
本たちは真っ黒な灰になったかと思うと、粉々に砕け散り、最後は跡形もなく消えてしまう。
そんなこの世の「無情」を描き表したかのような光景が、しばらくの間繰り返されていた。
「かわいそうだと思った? でも、仕方ないことなんだよ? 読まれない本なんてただの紙切れなんだから」
「……なんとなく、わかったよ。ここが、どう言う場所なのか。
なあ、空色……。俺もこの本たちと同じで、『捨てられた存在』ってことなのか?」
彼の問いに、空色は「ぐー」にした手を口許に当てて目を伏せた。
何やら答えに迷っている様子だったが、すぐに彼女は少年を見つめ、
「そんなことないよ? タダヒトは、本とは違うもん」
穏やかな口調で答える。
そしてすぐに、今の問いとは関係のなさそうな話を始めた。
「……かつて神を滅ぼした『私』は、彼らの所有していた『鍵』を奪い取って、ここに来たの。そして、片っ端から本を読んで行ったんだよ?」
月の熱に触れた本が焼き殺されて行く中、少女は紡ぎ出す。
その声からは、先ほどまでの得体の知れない雰囲気が、あまり感じられぬように思えた。
「その結果、『私』はアルビオンには存在しない『概念』を知った。幻獣や魔獣や妖精──そう言った、ありとあらゆる異形の生物が、本たちの中に載っていたから。
……そして、『私』はこの生き物たちをフラワーに与える体として選んだ」
「……じゃあ、新祖がアルビオンに伝えた精霊は」
「うん。みんな、ここにある本に書かれていたことを参考にしたんだよ?」
つまり、新祖は「選ばれざる者たち」から精霊召喚のヒントを得たのだろう。
そして、それまでのアルビオンには精霊──ありとあらゆる異形の存在──の「概念」はなく、また実在もしていなかったのだ。
言うなれば、アルビオンは架空の生物等の存在しない「ファンタジー世界」と言えよう。
「それから『私』は、たくさんの魔道書を書き上げて、世界に広めた。……そうしているうちに、あることを考えるようになったの」
空色はどこか遠くの風景を見るような瞳で、こう続けた。
「[人間]の精霊も造ることができるんじゃないかって」
「まさか──レアンのことか! つまり、彼を召喚したのも、本当は」
「そう、かつての『私』。新祖によって、レアンは生み出されたんだよ?」
後ろめたさを感じているのだろうか。その声は弱々しかった。
対して、タダヒトは瞠目したまま中途半端に口を開けている。
「本の海」からは未だに無数の白光が飛び立っており、「門番」の熱に触れては消えて行った。
「『私』はレアンの魔道書を造り、召喚することに成功した。昔の『私』は膨大な魔力を持っていたし、人体の構造にも詳しかったから……。
それで、レアンを召喚するまではよかったんだけど……一つだけ、予想外なことがあった──『私』が創り上げた彼は、空っぽだったの……」
言いながら、彼女は自分のローブの生地を握り締める。
「レアンの肉体を造ることはできたけど、肝心の魂までは、無理だった。
困った『私』はいろいろと考えた末、あなたを、タダヒトを使うことにしたんだよ?」
「お、俺を……?」
「うん。──タダヒトを、レアンの中身にしようとしたの」
「そ、それじゃあ、君は、その為に俺をここに呼び寄せたのか⁉︎」
上ずった声で、少年はさらに尋ねた。
しかし、それに対する回答がもたらされることはなく、空色は寂しげな顔で押し黙っている。
頭上では、暗闇を泳いでいた全ての本が焼き尽くされたらしく、月は再び美しい銀色の光を放っていた。
やがて、彼女は幽かに笑みを浮かべ、彼の瞳を見つめ返す。
「……ごめんね、タダヒト。私、もう戻るね?」
「空色……。待ってくれ。まだ聞きたいことが」
「大丈夫だよ? 次は、きっとうまくいくから……」
そう言った空色は、それまで大事そうに抱えていた魔導の仮面を、静かに足元に置いた。
そして彼女が膝を伸ばすと同時に、両袖からそれぞれ銀の刃が飛び出して来る。例の仕込み刀は、両の腕に施されていたようだ。
一歩前へと進んだ彼女は、左右の袖から生えた刀身をクロスさせた。斬れ味のよさそうな滑らかな刃が、タダヒトの首の両側に突き付けられる。
まるで、先ほど荒野で行われた「処刑」の再現するかのように。
「……俺は、また、君にこんなことをさせるんだな……」
「気にしなくてもいいよ? 私がやりたくてやってるんだもん。
……私ね、もう一度タダヒトと会えて、本当に嬉しかったんだよ? 二百年死に損なった私に残ったのは、ほんの少しの魔力とここに来る為の鍵──そして、この呪いだけだったから……。『私の呪いでも誰かの力になれるんだ』って、そう思えたのはタダヒトのお陰なの」
空色は黄金の右眼を潤ませながら、優しく言い聞かせるような口調で言った。
それは、彼女の心の奥底からじんわりと滲み出た、真実の言葉であるらしい。少なくとも、そう思わせるには十分なほど、暖かな響きがあった。
「だとしても、ダメだ。俺はもう、君が傷付く姿を見たくない。あんな苦痛を、味あわせたくないんだ。
それに……君に首を斬らせるだなんて」
「……やっぱり、タダヒトは優しいね?
「そうなんじゃないよ。俺は、『ただの人』ってだけだ……」
「ううん。優しいよ? だって、生き物扱いしてくれたんだもん」
「え?」
彼が見直すと、少女の笑みを浮かべていた。それは「年相応」、あるいはそれ以上に無邪気な物だった。
「私、レアンと一緒に見つかったでしょ? そのせいでね、ヴァルナの人たちは最初、私がどっちなのかわからなかったみたいだから」
「な」
タダヒトはその言葉の意味を理解できなかったのか、声を漏らすことしかできない。
中途半端に口を開けたまま石になった彼を見つめ、空色は腕を引いた。
刹那、交わった刃はハサミのように動き、慌てて何か言おうとした少年の首を、無情にも切断してしまう。
体と切り離された頭部は、不思議なこと空中に浮かび上がった。まるで無重力下にいるかのように、首はふらふらと漂いながら、少女の元へと引き寄せられて行く。
彼女は首が向かって来るのを認めると、両腕の仕込み刀をしまった。
それから、足元に置いてあった魔導の仮面を拾い上げ、ページを捲り始める。
「ええっと、だいたいこれくらいかな」
呟いた空色は本の真ん中辺りのページを開くと、右側の何枚かを破り取った。
彼女が無造作に放り捨てた紙は、すべて花びらのように砕けて消える。
ちょうどそこでタダヒトの生首──実際には魂の一部──が、空色の元へ到着した。
彼女は魔導の仮面を開いたまま反対向きにして、浮遊する首を受け止める。
二本のベルトをすり抜けて、首は本のページに顔面を着けた。
すると今度はこちら側の断面からヘドロが吐き出され、蠢きながら膨張して行く。
数分と待たずしてヘドロは人の体へと変化し、元どおりとなったタダヒト──の分身──がそこに現れた。
彼は意思を持たぬ人形のように、空色の目の前でぷかぷかと浮いている。
(ごめんね、タダヒト。……けど、今度こそ成功させてみせるから)
分身の背後に映る本体に目を向けていた彼女は、意を決した表情で踵を返す。
すると、次の瞬間、二人の姿はどこかへと消えてしまった。
広大な「本の海」は真の静寂に包み込まれ、巨大な柱と「首なし死体」だけが取り残された。
※
現実世界にて──
モリガンの革靴の底が地面に着いた。
瞬間、彼女はごくわずかにだけ──例により顕微鏡で見なければわからなそうなほど──、顔を強張らせる。
歩みを止めた「死の権化」は、肩越しに背後を振り返った。
冷酷そうな瞳の向かう先には、何もない。辺りに飛び散った血の痕だけを残し、精霊の死体が消えてしまったのだ。
生徒たちもすぐにそのことに気付いたらしく、誰もが驚きを隠せない様子だった。
(……奴の仕業か。……やはり時を止める魔法付加装置か何かを所持しているのだろう。……だとすれば面倒ではあるが)
対して、処刑人はすでに完全なる「無」表情へと戻っており、凍て付く視線を再び女生徒へ向ける。
(……この娘を助けないところを見ると味方と言うわけではないらしい。……ならばもう邪魔が入る可能性は低いだろう)
死神は、止めていた歩みを再開した。
彼女の向かう先では、緊張した面持ちのフィアナが[アンサラー]を握る両手に力を込める。その表情はすっかり青ざめており、震えを堪える為かきつく唇を噛み締めていた。
それでも彼女は信念を貫き、「死」から目を逸らすことはなかった。
しかし、そこへ追い打ちをかけるような事態が起こる。
しっかりと柄を握り締めていた[アンサラー]が、突如光になって消えてしまったのだ。
「あ、[アンサラー]? ──そんな、どうして⁉︎」
「……驚くようなことではない。……貴様がそれを使いこなせていないだけだ。
……だがしかしまだその精霊は生きている。……契約者の命を終わらせぬ限りはな」
「……だから、私のことも殺すのですね。先ほどの方のように」
「……最初からそう言っているはずだが」
感情のない声で言われ、フィアナは歯を食いしばる。
悔しげに相手を睨み付ける瞳は、「黙って死を受け入れる気など毛頭ない」ことを物語っていた。
すると、彼女の後ろからある人物が前に出て来る。
──それは、クーだった。
喫驚した表情を浮かべるフィアナに背を向けたまま、彼は髪を掻き毟る。
「わかったよ。てめえの意志がそーとー固えってことはな。
だからもう黙ってろ。てめえのセリフは早口すぎて読み──じゃねーや、聞き取り辛えんだよ」
そう言うと、彼は徐にブレザーの内ポケットへと手を突っ込み、
「マックール、こいつを持ってろ」
取り出した物を、振り向きもせずに投げて寄越した。
女生徒は面食らった様子だったが、弧を描きながら落ちるそれをどうにか無事キャッチする。
彼女が両手を開くと、その中にあったのは剣を模した形のエンブレムだった。
「クーさん⁉︎ これって!」
「てめえにくれてやるよ。そもそも、俺ァ柄じゃなかったんだ……」
言いながら、彼はプレート上の円盤に左手の指を乗せる。
「それより、てめえはさっさと逃げろ。巻き込みたくねーからよ」
「いったい何を」
フィアナが続く言葉を口にするよりも早く、クーは指を躍らせていた。




