第二十九話
空色はレアンの体の横に移動すると、彼の二の腕を持ち上げる。
「よいしょ、っと」
かけ声と共に腕を引っ張り、少年の体を仰向けにひっくり返した。血に染まった体の前面が上を向く。
続いて彼女は屈み込み、手が汚れることも気にせずレアンの胸に右手を押し当てた。
すると、何か機械が作動するような音が聞こえ、かと思うと、装甲の真ん中が薄く開く。
空色が手を離した瞬間、装甲は勢いよく左右に開き、その中からグロテスクな繊維が飛び出して来た。
無数の繊維は手のように本を持ち上げており、彼女はページを開けたままのそれを大事そうに掴み取る。
(よかったぁ、“魔導の仮面”は無事みたい)
空色は魔導の仮面を閉じて胸の前で抱え、膝を伸ばした。
すると、今度は少し離れた場所に転がっていた首の方で、ある出来事が起こる。
なんと、開きっぱなしになっていた口から、黒い渦巻きが吐き出されたのだ。
渦巻きは空中でグルグルと回りながら、人の形へと変化して行く。
ほどなくして地面に倒れ込んだのは、他でもないタダヒトであった。
精霊の口から飛び出た少年は、それこそ死体のように力なく横たわっている。彼はうつ伏せに倒れたのだが、顔だけは真横を向いており、そこには──
目を見開き叫び声を上げる瞬間のまま凍り付いた、凄まじい「形相」が貼り付いていた。
つまり、タダヒトにも魔導の仮面の下に「顔」があったのだ。
空色は神妙な表情で彼の姿を見つめていたが、そう幾許と待たずして少年の体は霧散してしまう。
さながら精隷が倒された瞬間や、スレイブキャスターの電源を落とし時と同じように。
タダヒトが消滅した後も、彼女は彼が倒れていた場所を何も言わずに眺めていた。
そうしている間に、少女が背を向ける先で、何かがバサバサと羽ばたくような音が聞こえて来る。
空色もすぐに気が付いたらしく、本を抱えたまま振り返った。
すると、そこ──凍り付いたまま動かないモリガンの頭の上──に、一羽のミミズクが降り立つ。
鴉のように黒い羽根を持つミミズクを見て、彼女は若干顔を強張らせた。
「……局長、今からあの場所へ向かいます」
それから、今度は表情を和らげ、
「タダヒトもも、待っててね? すぐにそっちに行くから」
どう言うわけかミミズクに向かって微笑みかけた。
いったい、彼女はどこへ向かうつもりなのか。そして、何故たった今消滅したばかりの少年に、「待っててね?」と言ったのか。
少女はこれらの謎に答えをもたらすかのように、そっと紡ぎだす。秘密の呪文を、唱えるように。
「……“龍人と蝮の門”よ、この声に応えよ」
瞬間、空色の体を緩やかな風が包み込み、ローブの裾やフードを揺らした。
彼女は片腕で本を抱き、もう一方の手を地面に向けて翳す。
「“選ばれざる者たち”の元へ、我を導き給え……」
更に呪文を唱えた刹那、空色の足元が薄っすらと光り輝いた。白い光は何か魔法陣の様な紋様を描いているらしく、彼女を中心にして浮かび上がる。
地面から放たれる光は強さを増し、鉄の歯車が噛み合い回るような重々しい音が、どこからともなく響き出した。
魔法円の上に立った空色は、片方だけの瞼をそっと閉じる。
かと思うと、次の瞬間、彼女の姿は跡形もなく消えてしまうではないか。
これにより、「一時停止」された世界で動ける者は、誰もいなくなったのたった。
※
〈謎の空間〉
青ざめた空の下、「本の海」が広がっていた。
まるで無限に沸いて来るかのように──実際、今も何冊か沸いて来た──、夥しい量の本で溢れているのだ。
タイトルも著者名もない灰色の本の表紙は、それこそ海面みたいに空の色を映し出す。
どこまでも続く広大な空間の中には、巨大な柱が一本、斜めになって突き刺さっていた。元々何かの一部だったのか、その先端は砕けている。
──そして、その柱の根元には、鎖によって縛り付けられている少年の姿が。
彼の胸の真ん中には黄金の槍が突き刺さっており、のみならず首から上がない。
まるで、囚われの身の「首なし死体」だ。
青空に薄く浮かぶ月が、何も言わずに彼を見下ろしている。
その少年の胸から生えた金の槍の端には、黒い羽毛に紐を結んだペンダントのような物が、一つぶら下がっていた。
──やがて、彼のスニーカーの底が向かう先に、一人の少女が降り立った。
言うまでもなく、空色である。
相変わらず魔導の仮面を片腕に抱えた彼女は、徐にフードを脱いだ。
絹糸のように白い髪と、真っ赤な眼帯のリボンが露わとなる。
「本の海」の上を歩き、空色は少年の傍へと歩み寄った。
「久しぶりだね? ──タダヒト」
彼女は、目の前にある学ラン姿の「首なし死体」のことを、そう呼んだ。
もしそれが本当に「タダヒト」であるならば、今まで空色と行動を共にしていた少年は、いったい何者だったのか……。
「待ってて。今、代わってあげるからね?」
柔らかく微笑んでから、彼女は左眼を覆っていた眼帯を外す。
果たして、真っ赤な眼帯の下から現れたのは、右にある物と変わらぬ黄金の瞳であった。つまり、空色の左眼は潰れてなどいなかった──あるいはすでに完治していたのだろう。
彼女の指の間をすり抜けて、眼帯は「本の海」に落ちる。
そのまま、空色は空になった白い手を、首のない少年へと翳した。
すると、先ほどここへ来る時と同じように、彼女の体の周囲で風が渦を巻く。どうやら呪いの力を行使するつもりらしい。
──直後、少女の指先に、一筋の傷が口を開けた。
しかし今回はそれだけでは終わらず、瞬く間に他の指や手の甲、そして手首までが見えない刃に斬り付けられる。
ローブの袖から覗く腕は鮮血に染まり、空色は苦しそうに顔を歪めた。
彼女が堪らず呻き声を漏らした時、「鎌鼬」はその華奢な首へと襲いかかる。青白い喉から盛大に血飛沫が上がり、「本の海」に降り注ぐ。
泣き叫ぶような悲鳴と共に、少女は膝から崩れ落ちた。見えない刃はそれでも血を吸い足りないのか、彼女の頬や額、そして左眼を貪るように斬り刻む。
──風が止んだ時、猫のように丸かった左眼は瞼ごとぱっくりと割れ、熟れた柘榴のように、傷口から赤黒い果肉を覗かせていた。
「……はぁ、はぁ」
全身を赤く染めながら、空色は肩を揺らして激しく呼吸をする。その顔は血と涙と脂汗によって、ぬらぬらと濡れていた。
彼女がじっとうずくまっていると、ほどなくして首なし死体に変化が現れる。
学ランから生えた首の断面がぶくぶくと沸き立ち、不気味に蠢き出したのだ。
断面から湧き出したヘドロのような物体は、苦しみもがくみたいに形を変え、やがてある物を作り出す。
──現れたのは、人の「頭」だった。
ヘドロは失われたはずの少年の頭部へと変化し、やがて完全に形を固定する。
空色が左眼を庇いながら面を上げた時、同時に少年も瞼を開いた。
血塗れの彼女の姿を目にした彼──タダヒトは、はっとした様子で声を上げる。
「空色! 大丈夫か⁉︎」
「……う、うん。平気だよ? ……でも、やっぱり痛いね……」
空色は弱々しく笑いながら、彼に答えた。すでに全身の傷は塞がりつつあり、流れ出た血もほとんど消えていた。
──潰れた左眼を除いて。
「……ごめん。いつも、俺のせいで……。
また、ダメだったな。……俺の複製は」
タダヒトは沈痛な表情で目を伏せる。特筆するに値しない平凡な顔貌をしており、長すぎも短すぎもしない黒い髪が、目許に陰を作り出した。
その顔は、先ほど消えた精隷の少年──タダヒトの言うところの「複製」──と、全く同じ物である。
「タダヒトは悪くないよ? 使い魔とは言え、相手はモリガンなんだから。敵わなくて当然だよー」
元気付けるような穏やかな口調で言ってから、彼女は足元に落ちていた眼帯を拾い上げる。もう一方の腕に、魔導の仮面を抱えたまま。
呪いの力を使っている間も、彼女はこの本だけは決して手放さなかった。
空色は器用にも、片手だけを使い眼帯を装着する。
「けど……」
「タダヒトだって、局長の使い魔で見てたんだからわかるでしょ? あれは不幸な事故みたいな物。気に病む必要なんてないんだよ? ね?」
「……ありがとう。
でも、不思議だよな。首がなくても『見える』なんて」
「そうだねー。
一応、仕組みは分身と同じなんだけどね? つまり、使い魔の視界に入った情報を、タダヒトの意識──魂その物が認識してると言うか……」
これまでの会話から察するに、どうやらタダヒト──の、「本体」とでも言うべきか──はミンネの使い魔を介して、分身や空色の様子を見守っていたらしい。
使い魔はキーアイテム──この場合は槍にぶら下げられた「羽根」だろう──さえ所持していれば、その主人でなくとも、入って来る映像や音声を共有することが可能である。この特性を活かし、「本体」はこの謎の空間から一歩も出ることなく、学園での出来事を見聞きしていたのだろう。
「なるほど……。
……なあ、空色。あの時、図書塔で処刑人が言っていたことだけど」
──おかしな奴がいるな。……まさか死んだ人間に会えるとは。
──二百年前貴様が死んで世界は変わった。
彼が言っているのは、こうしたモリガンのセリフのことだろう。
「あれは、どう言う意味なんだ? 君が封印されていたことと、何か関係があるんだろ? それに、ここのことも……」
タダヒトは躊躇うように語尾をすぼめたが、しかしすぐに意を決したらしく、
「そろそろ教えてほしいんだ。君が、本当は何者なのか。そして、ここはいったいどこなのかを」
相手の姿をまっすぐに見据え、そう続けた。
彼の問いに対し、空色は意外そうな表情を浮かべてから、俯く。
「……うん、いいよ? 確かに、タダヒトには知る権利があるし……教えてあげるね?
モリガンも言っていたとおり、私は一度二百年前に殺されたの。……だけど、完全には死ななかった」
青空の下、少女は幾分か声音を低くして紡ぐ。
「そして、死を免れてこの姿になった私を、モリガンたちが封印したの。……彼女たちの力でも、当時の『私』を殺すことは不可能だったから」
「二百年前……。──そ、それじゃあ、もしかして君は」
「うん、そうだよ? かつての『私』は、『新祖』って呼ばれてたんだ……」
少年は驚愕に目を見張り、彼女の姿を見直していた。
自らの首を再生し分身と行動を共にしていた少女が、実は精霊召喚技術の「生みの親」だったのだ。彼が喫驚したのも無理はなく、普通ならばおいそれと信じられる話ではないだろう。
しかし、空色の声や面持ちからは、この「告白」を信じざるを得ないような雰囲気が醸し出されていた。
それでなくても、彼女は精霊と共に封印されていた過去を持ち、不思議な能力──と言う名の呪い──まで有しているのだ。いくら信じられなくとも、真実として受け入れる他ないだろう。
「ほ、本当に、空色が……?
だ、だったらその呪いは? 君に呪いをかけたのも、処刑人たちなのか?」
「……ううん、違うよ?」
顔を上げた空色は、口角の両端を吊り上げた。
その笑顔は、なんとも歪だった。まるで皮膚の下に潜んでいた黒い蟲の群が、内側から皮を破って姿を現すかのように。
「私にこの呪いをかけたのは、『私』自身だもん」
彼は、咄嗟にその言葉の意味を理解できなかったに違いない。
声も出せずにいるタダヒトの足の傍では、タイトルのない数冊の本が、湧き水ように湧き出ていた。
「昔の『私』はね、強くなりすぎちゃったんだよ? 並大抵の攻撃じゃ、擦り傷すら付けられないくらいに……。
そしてそのうち、『私』は人間の感じる『痛み』と言う物を忘れてしまった。『痛み』を感じる機会が、完全になくなっていたの」
黄金の右眼にどこか遠くを映したまま、彼女は異様な「告白」を続ける。
千切れた雲が二人の頭上に差し掛かり、奇妙な形の影を落とした。
「何をされても、どんな目に遭っても、肉体的にも精神的にも傷付かない。そんなの、『生きている』とは言えないよね?
だから、『私』は自分自身に呪いをかけることにした。『痛み』と言う、生きている証拠を思い出す為に……」
空色の言葉を聞きながら、彼はただただあっけに取られている様子だった。再生されたばかりの顔からは、すっかり血の気が引いている。
「それにね、この呪いのいい所は、血が流れることでもあるんだよ? かつて神を滅ぼした『私』でも、まだ血は赤いんだってわかるから」
「……君は、本当に人間、なのか……?」
タダヒトは絞り出すように、渇いた声でそう言った。
「もちろん。
でも、同時に神でもあるかな。この世界における神は、所詮人間の延長だったから……」
「人間の……延長?」
「うん。要するに、彼らは『初めからヴァルハラシナプスを持っている人間』に過ぎなかったの。だから、『私』が神を殺したことで魔法が消えたのも、ただ単に『使える人間が減った』って言うだけなんだよ?」
「……つまり、かつての空色──いや、新祖だけになったってことか」
「うーん、一応『私』の他にも何人かは残ったんだけどね?
でも、『私』は神とは違って、魔法を独占しようとは思わなかった。みんなにも魔法を獲得できるようになってもらう為に、魔導書を作ったの。──ちょうど、ここに溢れてる本が、役に立ちそうだったから……」
空色のセリフを聞いて、彼は当初の疑問の「二つ目」を思い出したらしい。
生唾を──そんな物が今の彼にあるかは別として──呑み込んでから、恐々とした様子で口を開く。
「そうだ、ここはどこなんだ……? どうして、こんなに本が……」
「ここにある本は、すべて『選ばれざる者たち』。つまり、世界にすらなれなかった存在なの。……彼らはね、みんな捨てられてるんだよ?」
彼女は至って静かな声色で続けた。
「この世界ですらない場所──『ノベルザナドゥ』に、ね?」
少女がそう紡ぎ出した時、どこまでも続く青空に、ある変化が現れた。




