第一話
〈精隷制への移行から約二百年後、精隷学園敷地内──高原〉
雑草が青々と生い茂る丘の上、二人の迷子が立ち尽くしていた。
「参ったな。なんかもう、完全に人気がないんだけど……」
途方に暮れた様子で、少年が言った。黒い髪に黒いローブ、それから何故か黒い棺桶を背負っている。
しかし、真に特筆すべきはその顔か。
彼の顔面には古びた本が一冊、ページを開いた状態で貼り付いているのだ。表紙から生えた二本の革の紐で固定されたそれは、まるで仮面のように顔全体を覆っていた。
「やっぱり、一度引き返すべきか……。
どうする? 空色」
少年は隣りに意見を求める。
そこにはこれまたローブを纏い、フードを目深に被った人物が。
小柄で、服の上からでも線の細さが窺える。
「空色」とは謂わゆる「空の色」を表しているのではなく、どうやら人名であるらしい。
「うん。それは賛成なんだけど……その前に、休憩しない?」
「ああ、確かに歩きっぱなしだからな。取り敢えず、この辺りで休むか」
「うんっ、そうしよー?」
ほっとした様子で空色は頷く。声から察するに少女のようだ。
彼らは離れ小島のように顔を出している岩の上に、それぞれ腰下ろした。辺にはシロツメグサが生えており、三枚の葉と白い花を風に揺らしている。
少年は棺桶を立てて置き、自らの体に寄りかからせた。見るからに邪魔そうだ。
「ところで、聞きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「これって、結局何なの? いいかげん教えてよ」
「何って、棺桶だけど?」
「いやそれはわかるけど……なんで棺桶? こんな物携帯して、何か意味あんの?」
側面を軽く叩きながら、彼は尋ねる。どうやら金属製らしく、漆を塗ったみたいに光沢がある。
また、底板の部分にはベルトが二本取り付けられており、そこに腕を通して背負っていたのだ。
「あ、ダメだよ、あんまり揺らしたら。中身死んじゃうよ?」
「え、これ中の人生きてんの? マジで?」
「……あっ! い、いやいや、違うよ? 棺桶だもん、生きてるわけないない」
かなり動揺しているのか、彼女は慌ただしく両手を動かす。土砂降りの日のワイパー、あるいは予期せぬ再会に過剰なまでの興奮を見せる婦人のように。
「誤魔化すの下手だなー」
「ご、誤魔化してなんかないよ? 本当だよ?
だいたい、多少重くたってタダヒトには関係ないでしょ? 疲れるとか汗かくとかないんだし」
「まあ、基本的には」
タダヒトと言うのが彼の名であるらしい。表情その物は見えないが、タダヒトは釈然としない様子だった。
「だったらいいじゃん。ちゃんと後で説明するから、今は私の言うとおりにして? ね?」
「そう言うことなら、いいけどさ……」
首を捻りながらも、彼は意外と簡単に引き下がる。「流されやすい人間」なのかも知れない。
「ふう」
安堵の息を漏らした空色は、フードの中に両手を突っ込み、顔に浮かんだ汗を拭う。相当焦っていたのか、それとも単に歩き疲れただけなのか。
しかし、実際今日は天気がいい。快晴の空の下黒いローブなど着ていたら、生身の人間ならば汗をかいて当然だ。
会話の切れ目に、タダヒトは青い空を見上げる。その首筋には、汗粒一つ浮かんでいない。
そのまま思案に暮れているのか惚けているのか。動きを止めていた彼だったが、突然驚いたように体を硬直させた。
「ん? なんだろう、今の」
彼は首を回し、背中の方へ顔を向ける。
「タダヒト?」
「何か、人の声が聞こえたような」
「そう? 私にはよくわかんないけど?」
「……いや、やっぱり聞こえる」
断言したタダヒトは、すくりと立ち上がり、
「もしかしたら、道を聞けるかも。
ちょっと様子を見て来るよ」
「ええ〜。まだ座ったばかりなのに?」
「空色はここで休んでていいよ。疲れただろうし」
「でも、だったらタダヒトも」
「俺は疲れないからいいんじゃなかったのか?
大丈夫、すぐ戻って来るから」
彼女の制止には取り合わず、結局彼は歩き出した。
立てかけていた黒い大荷物を、その場に残して。
空色は倒れそうになった棺桶のベルトを、慌てて掴み取る。
「ち、ちょっと、棺桶は常に持ってないと──って、行っちゃったし。もう……」
少年の背中はみるみるうちに遠ざかって行った。
彼は軽やかな足取りで進み、高原の終わりへと向かう。
巨大な枯れ木の足元で立ち止まり、タダヒトは崖の下を覗き込んだ。
すると、先ほど彼が聞いたのは空耳ではないことが、すぐにわかる。
少年の眼下に広がる荒野には、黒い制服を身に纏った集団──学園の生徒たちがいたのだ。
数は二十に満たないほどか。
さながら西部劇のワンシーンのような雰囲気だが、これから行われることは「決闘」などではないらしい。
(あの人たち……何をしてるんだ?)
タダヒトは一人、首を傾げる。
すると、ちょうどそのタイミングで、足元から声が上がった。
「素朴な疑問があるんだけどよォ、聞いていいか?」
声の主は、ある男子生徒だった。
かなり体格がよく、髪の毛が盛大に爆発している。誰もが獅子を連想しそうな容姿だ。
また、他の者とは違い、指定のネクタイを着用しておらず、制服のシャツを大きくはだけさせていた。
彼は仲間と思しきもう一人の男子生徒と共に、十何名かの集団と対峙している。
──その中央にいた女生徒が、大儀そうに問いに答えた。
「何かしら。こっちは下手な問答などせず、さっさと始めたいのだけど」
鮮やかな赤い髪を左右で結んでおり──謂わゆる「ツインテール」である──、端の吊り上がった瞳が気の強さを表している。
割合整った顔立ちであり、「勝気な美人」と言う表現が似合いそうだ。
彼女は豊満な胸を自慢するかのように突き出し、余裕の笑みを浮かべる。
十五対二の状況だ、余裕があって当然だろう。
「いやなに、大したことじゃねーんだが……。
あんた、なんでウチにちょっかい出すんだ? 俺たちゃもう、あんたのご兄姉サマと戦って以来、このざまだ。
生き残ったのはたった二人。ギルドルームすら手放しちまった」
「……だから? それが何だと言うの?」
「これ以上、何が欲しいんだよ。俺たちから奪い取れるモンなんて、一つもありゃしねーんだぜ?」
「……なんだ、そんなこと」
長い尻尾の先を弄りながら、呆れたように呟く。
女生徒の左胸には、派手なエンブレムが輝いていた。すなわち、彼女がこの生徒たち──“ギルド”を率いているのだ。
「決まってるでしょう? まだ足りないからよ。完膚なきまでに叩きのめしてこそ、真に勝利したと言える。手足を千切られたとは言え、まだ立派な首が残ってるじゃない」
「……はあ。やっぱよくわかんねーな、王族サマの考えってのは」
「でしょうね。あなたと私じゃ、身分はおろか国も違うのだから。
で、疑問とやらはそれだけ? だったら、今度こそ始めるわよ」
「ああ、いーぜ。わかり合えねーってことは、十分わかったからな」
肩を竦めた彼は踵を返し、たった一人の自陣へと歩み寄った。
鬣を掻き毟る彼に、仲間が声をかける。彼もまた、制服の胸にエンブレムをつけていた。
「気にするな、クー。彼女の常套手段だ」
「わかってらァ。いくら俺でも、これぐらいじゃカッカしねーよ。
それよか、本当によかったのか」
「ああ。無謀なのはわかっている。だが、俺たちにも意地がある」
「……そーだな。首だけの状態でどこまで通用するか、試してみようぜ」
クーと呼ばれた男子生徒は、再び敵軍に体を向けた。
奥へと引っ込んで行く「王族サマ」の後ろ姿を、見せ付けられる形となる。
クーは目を細め、彼女の短いマントに刺繍された紋章──女神の首と三脚巴──を、睨んでいるようだった。
「任せたぞ、クー」
「ああ、任せろよ!」
互いに言葉を預け合うと、彼らは同時にある機器を手繰り寄せる。
肩から斜にかけていたそれは盾にも似た形状をしており、この学園の生徒なら誰しも携帯している物だった。
本体に収納されていたプレートが飛び出し、亀のように首を伸ばす。
二人はプレート上にある四つの小さな円盤に、左手の指を乗せた。
「「術式疾奏!」」
異口同音に唱え、本体中央のスイッチを倒す。
直後、虹色の光が、機体上を幾筋も駆け巡った。
それを見た女生徒は、髪の束を払いながら右腕を真横に伸ばし、
「こちらも行くわよ。総員、“スレイブキャスター”を起動!
さあ……この私、メイヴ・コノートに、勝利を献上しなさい!」
自らの率いるギルドに号令をかける。
──「コノート」と言えば“四大強国”の一角であり、のみならず彼女はその王女であるらしい。
メイヴの声に答え、その部下たちはスレイブキャスターを手繰り寄せる。
一斉に「術式疾奏!」と唱え、スイッチを倒した。
直後、両陣営の頭上が揺らぎ、それぞれの僕たちが姿を現す。
幻獣、魔獣、妖精など──ありとあらゆる異形の存在が、荒野へと降り立った。
「あれが、“精隷”……」
実際に目にしたのは初めてなのだろう。タダヒトは、眼下に広がる光景に釘付けとなる。
だからこそ、なかなか気付かなかったようだ。
戦場の様子を見守っていたのは、彼一人ではないことに。