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らぶのっと

作者: 定休日

とにかく、娯楽を沢山盛り込んでみました。

 季節は夏。

 輝く太陽は、街を燦々とじりじりと照らしつける。視界が真っ白になってしまったのではないかと錯覚させる程に、強く暑く輝いている。

 曲がりくねった坂道の頂上から望めるのは、白い壁の家々や、色鮮やかな緑。更に視線を向こうにやれば、青い海、青い空が見える。

 そこは、山と海に囲まれた海辺の街だった。別段栄えている訳でもなく、田舎でもない。

 少年の名は遠藤吉秋えんどうよしあき。この街で生まれ育ち、今年で十六歳になる。彼は、義務教育を経てはいるが、諸所の事情(家庭の事情とも言う)で高校には通っていない。けれども彼には職業があった。

 調和をはかる異能者。

 彼は、人外の異形いぎょうの者と、人間の間で起こるトラブルを解決する調停人ちょうていにんなのだ。

 と言っても、見習いだが。



 その日、とある踏み切りの前に少年が立っていた。上がったままの黄色と黒の遮断機、電車の到来を告げる赤いランプは当然の如く沈黙している。

 少年は気だるそうに呟く。


「立ち退きか…」


 彼は遊びに来たわけではない。仕事である。

 今回の内容は、迷惑滞在者に立ち退きの要求。

 それはというのも、今朝、地元の鉄道会社から風雲急を告げる依頼が舞い込んだ事から始まる。

 やかましい黒電話の受話器を取った吉秋が耳にしたのは、依頼人の開口一番に飛び出した、


『どうしても解決してもらいたい。もう、お手上げ状態なんです』


 という切羽詰った感じの嘆きだった。

 それまでの経緯を聞いた所、霊能力者や、魔術師に今回の件の解決を頼んだらしいのだが、どうやらインチキ業者だったらしく、解決には至らなかったそうだ。

 そこで、プロのご指名、と相成ったらしい。


『お願いします。このままでは、私達は…』


 あまりに悲痛な声で言うものだから、吉秋は引き受けざるをえなかった。


「あ〜、暑い」


 そう言いながら、シャツの襟首をぱたぱたさせている少年に、案内役として付いてきた小太りの駅員が、


「ここが例の怪奇現象が多発する場所なんです」


 げんなりした様子で手で踏み切りを指し示しながら言った。

 吉秋は踏み切りを目を細めて眺め、答える。


「こんな所に…」


 駅員は「ああ、最悪だ」と、手で顔を覆った。少年の台詞があまりにも頼りなかったからだ。こんな何処にでも居そうな少年が、とても異能の力を持っているとは思えない。

 今回もきっと失敗するんだろう。

 どう考えても、行き着く答えはそれだった。

 その根拠としては、『少年』という所が大きい。若いし、威厳も無い。何しろ、格好が胡散うさん臭かった。

 所々破け、痛んでいるジーンズに、黒いTシャツ一枚という飾り気の無い格好。今までのそれっぽい方々は、霊能力者なりなんなりそれらしい格好をしていたのにも関わらず…(インチキだったが)。

 駅員は思い切って、『小さな先生』に尋ねてみる。


「あの〜、先生。本当に解決できるんでしょうか?」


 吉秋は、振り返ってにかっと笑う。


「大丈夫ですよ。見たところ、大したヤツじゃありませんから」


 そう言い残し、少年はすたすた歩いて踏み切りの中に入っていった。駅員の疑問をその場に残して。

 少年は足を止め、思う。


(あ〜あ、かったりぃ。俺は、夜専門なんだよ)


 と、今までの少年らしさの欠片も感じられないひどく邪悪な顔で、仕事に挑む。

 彼は、熱気が吹き上がる踏み切りのど真ん中で、既にそれと対峙していた。背後では、小太りの鉄道員が怯えながら様子を見ている。

 吉秋は、眼光鋭くそれを見抜く。


「なるほどね…」


 踏み切りの真ん中には、もうもうとした湯気のようなモノが居た。霞んでいて目を凝らさないと見えないくらいの違和感の無さ。

 どうやら、これが迷惑滞在者らしい。

 吉秋は一度肩をすぼめ、吐息を吐くと共に、


(うっし、いっちょやりますか)


 気合を入れた。

 一歩一歩それに近づき、表情を豹変させる。黒いコンクリートから立ち昇るそれに対して、非常に爽やかな笑顔で話し掛けた。


「えーっと、君ってここに住んでるの?」


 その湯気のようなモノは、ゆらりと揺らめく。

 吉秋は、いかにもそれに同調するかのように、うんうん頷く。


「なるほどね。でもね、ここって人間にとって結構重要な場所だったりする訳よ」


 それは反応を示さなかったが、笑顔で続ける。


「んで、すっごく身勝手な事を言うようだけど、君がここで遊ぶと迷惑する人が居るんだよ。だから、もうちょっと離れた所に君が過ごしやすい場所を用意したから、そこに移ってもらえないかな?」


 少年の言葉が怒りの琴線に触れたのか、それとも怯えたのかは定かではないが、その湯気は突如として巨大化し、色付き、大きな熊のような物をかたどった。

 それを目の当たりにして微動だにしない吉秋。

 背後で「ひぃ」と小太りの駅員が悲鳴を上げる。

 こんな街中に居る筈の無い熊。一見、恐ろしいような場面ではあるが、街中の風景にそれはあんまりにも浮き過ぎていた。


「ん〜、どうしたもんかなぁ…」


 吉秋は苦笑いで言う。

 そのありありとした余裕ぶりが、癇に障ったらしいそれは、大きく咆えるような動作で、少年を威嚇いかくした。ただ、声は出ていない。

 吉秋は怪訝けげんそうに首を捻る。


「いや、威嚇っていうのはもっと、こう…」


 後方でびくびくしている駅員に反して、目の前の少年は僅かな動揺も見せない。

 次第にそれは追い詰められていく。


「んでさ、そろそろ決めて欲しいんだけど?」


 とうとう我慢の限界に到達したそれが、熊を象った大きな腕を振り上げた。

 攻撃しようとしている事くらい駅員にも理解できたが、少年は一切動かない。逃げもしない。

 やられる!

 思わず駅員は目を瞑った。

 熊の手が少年の体を真横にぐ。

 だが、青年は駅員に振り返って陽気に笑った。


「はは、大丈夫ですよ。こいつはオボロミシって言って、幻を人に見せて遊んでるだけの奴ですから、基本的に無害なんすよ」


 その声に目を開けた駅員の瞳には、青年の体から突き抜けている熊の腕が映っていた。異様な光景に驚愕を通り越した駅員は、ふらりと倒れる。


「あ」


 少年は、しょうがないなと呟きながら頭を掻く。そして、今まで穏やかだった表情を冷徹なものに変貌させた。


「まぁいっか。依頼人も気ぃ失ったことだし、こっからは本気でいくからな」


 少年は熊の腕が突き抜けたまま振り返ると、強烈な怒気を体から放出し、それでいて冷たく鋭い剣呑けんのんな目つきで湯気を睨み付ける。

 湯気はほんの僅かだが揺れた。というより、震えた。


「それで、移動するかしないか、どうする?」


 今までとは違った、敵意を剥き出しにた威圧的な声。口調も変わっている。


「返答次第では、痛い目みることになるぜ」


 そう言うやいなやジーンズのポケットに、手を入れる。ゆっくりと取り出したのは、ありきたりな、『札』だった。なにやら、ありがたい破魔の言葉が書かれている。

 少年は不気味に微笑むと、言い放った。


「俺の霊力を持ってすれば、お前を吹き飛ばす事なんか簡単だ。チリ一つ残さない」


 湯気は怯えたような反応を見せる。徐々に散り散りになり、熊の形も崩れていく。小さくなっていく湯気。

 頃合を見計り、少年はまくし立てる。


「さぁさぁ!消えたくないなら、とっとと決めな!移動するか、しないか!」


 そこで、湯気はふわりと掻き消えた。

 吉秋は、笑う。


「そうそう」


 すると、いつの間にか、ちょこんと佇んでいる昆虫が居た。トンボのような姿で、茶色の体に無色透明な羽が生えているどこにでもいそうな虫。

 少年はふっと笑みを漏らす。


「最初っからそういう素直な態度じゃないとな」


 と爽やかな笑顔で言って、次に取り出したのは、子供用の小さな虫かごだった。


「んじゃ、とりあえずここで大人しくしててくれ」


 少年は優しく虫を掴み上げ、かごに入れた。


「はい。任務完了!」


 少年には、霊能力は全く無い。もちろん、御札の未知なる力を発動させて、ドカン。なんて事は出来る訳がない。

 今のは完璧なる脅しだった。

 ただ、霊能力に関しては、だ。



 その後吉秋は、オボロミシを人気の無い山に逃がしてやり、依頼主である鉄道会社から謝礼金を受け取って、家路についていた。彼の手には白い封筒が大事そうに握られている。

 うっとりと呟く。


「はぁ〜四万か〜」


 何に使おうかな?

 服買って、釣り竿買って…

 新しい魔術書を買うのも良いかも知れない。


「良い物食うっていうのもアリだよなぁ〜」


 そんな風に夢を馳せていると、数分後には自宅の前についていた。遠藤という表札を構えた純和風の古びた邸宅。

 少年は迷わず家に入ろうとする。

 すると、突然玄関から出てきた何かと肩がぶつかった。


「どわッ」


 ばさっと、書類やら、生活用品やらが玄関に散乱する。


「ぬおッ。お、おお、吉秋よしあきじゃないか」


 吉秋に肩をぶつけ、散らばったそれらを掻き集めて旅行用のトランクに詰め込んでいる人物を見やる。無精髭ぶしょうひげに眼鏡、ほっそりとしてひょろ長の体格。

 父、吉隆よしたかだった。


「ん、父さん?どうしたんだよ。そんなに慌てて」 


 どこかよそよそしい父の態度に違和感を覚える。

 当の父は、ひどく慌てた様子で、一刻も早くここから立ち去りたいと思っているのが見て取れた。


「い、いや、母さんからの連絡で、今回の仕事の相手がヤバイらしいんだ。何でも、相手は鋼鱗種こうりんしゅだそうで、助っ人に呼ばれてな」


 ふーんと言いながら、父の奇妙な姿を下から上へと流し見る。

 目深にかぶった帽子と、夏だと言うのにスーツの上からこげ茶色のコートを羽織り、今から夜逃げでもしそうな格好だった。

 吉秋は、不審なものを見る目で父を見据え、疑わしげに呟く。


「鋼鱗種ねぇ…」


 父は、息子にまじまじと見詰められ、どぎまぎしている。冷や汗がだらだら流れている。

 鋼鱗種。詳しくは知らなかったが、やたら滅多に現れない異形いぎょうだという事は知識として持っていた。


「じゃ、じゃあ、一ヶ月くらいで戻るから…」


 そう言って、そそくさとその場を後にしようとして、くるりと吉秋に向き直った。


「あ、そうそう。晩飯は作っておいたから、レンジでチンして食べるんだぞ」


 吉秋は面倒くさそうに返事をする。


「ガキじゃないんだから分かってるよ」


 その反応が信用に値しなかった父は、ずいずいっと詰め寄る。


「それと!父さんが居ないからって、依頼を選り好みしたり、金をふんだくったりしないように!お前は、まだ調停人の免許持ってないだろう?」


 その指摘に、どきりとする吉秋。ついさっき四万円という謝礼を貰ったばかりだ。しかし、吉秋は頑として冷静を装う。


「この前の認定試験受かったし…まぁ、免許もそろそろ届くだろうけどな」


 父は、これでもかと念を押す。


「いいか?あくまでも調停人の仕事は金儲けが目的ではないのだぞ」


「わーってるって。俺達みたいなのは、この世のバランスなんだろ?」


 吉秋の言葉に、父は大いに頷く。


「そうだ。この世には多くの異形が住んでいる。そういう奴等と人の間で起こるトラブルを丸く治めるのが我等、調停人ちょうていにんの役割だ」


 真面目な表情で言う父を、吉秋は耳をほじりながら、適当にあしらう。


「はいはい。耳が腐るほど聞いたっての」


「…」


 憎たらしい吉秋の様子に、一瞬だけ憤怒の形相になった父吉隆。だが、必死でそれを飲み込んだ。

 ――おかしい。

 吉秋はそう思った。普段なら、ここで喧嘩の一つでも勃発する所なのだが、今日に限って不気味なほどあっさり引き下がった吉隆。


「う、うむ。わかっているなら問題無いのだ。お前は母さんに似て適当な所もあるが、才能もあるし、体力もずば抜けているから、大きな心配は無いのだが…」


 しかも、この地に残していく息子を心配しているような臭い台詞をばら撒いている。吉秋は拍子抜けな父の態度に、いつものペースを崩されてしまう。 


「え、あ、うん。…ちゃんとやっとくから」


 うむと頷いた父は、目深にかぶった帽子をくいくいっと直し、


「では、母さんの所に行って来るから」


 渋い顔でそう言うと、家の前に見計らったかのようなタイミングで現れたタクシーに乗り込んだ。

 吉秋は思わず叫ぶ。


「父さん、しっかりやれよ!」


 車内にまで聞こえるように、大きな声で言った。

 それに気付いたのか、父の側の窓ガラスが、開く。父は悲しみを堪えたような表情で、目頭を指で抑えながら呟いた。


「マジごめん」


「―――は?」


 予想だにしない言葉に、吉秋は目が点になる。

 何か謝る事でもあるのか。そう問おうとしたが、父の側の窓ガラスは無情にも閉まってしまう。


「運転手さん!早く車出して!」


 車内でそう叫んでいるのが体の動きで分かる。

 瞬く間にタクシーは急発進。タイヤが空回りする音をその場に残して、韋駄天いだてんの如き速度で走り去った。

 訳も分からず、家の前でぽつりと佇んでいる吉秋。同時に、只ならぬ雰囲気に怖気おぞけを感じ取った。

 ――無い。何処にも無い。

 ポケットをひっくり返し、とにかく捜す。が、どこにも見当たらない。

 吉秋の顔がみるみる青ざめていく。


(パクられた――――――!?)


 今日の報酬である、あの四万円が入った封筒が忽然と姿を消していた。


(まさか、あの時!?)


 彼の脳裏には、父とぶつかった時の映像が映し出される。

 ――絶対そうだ。

 推理は確信へと変わる。吉秋の中で、やり場の無い怒りが凄まじい速度で込み上げ、火山のように噴き上がった。


「あんのクソ親父ぃぃぃ!やりやがった!!」



 数分後、吉秋はリビングにて、四万円を窃盗した父の残したチャーハンを、半ばやけくそにかっ食らっていた。


「ちきしょー!俺の四万円!!」


 込み上げる悔しさを食欲へとぶつけ、チャーハンを口一杯に詰め込み、麦茶で流し込む。


「ぶは〜〜〜!」


 飲んだくれているオッサンのように、麦茶の入っていたコップをどんとテーブルに叩きつけた。

 そこで、ふと気付いた。


(まさか、鋼鱗種がどうのこうのって話も嘘なのか?)


 弾かれたように立ち上がり、どたばたと廊下を走る。階段の手すりに手を掛け、ききーっとブレーキを掛けた。目の前には、父の書斎へと続く扉。

 それを、


「チェスト―――!!」


 復讐も兼ねて、思いっきり蹴り破った。

 扉を開けた(破壊した)途端にむあっと熱気が押し寄せてくる。


「うッ…あっちぃ〜。窓開けとけよ!」


 日中にも関わらず薄暗い部屋に、古びた机が一つ。それを取り囲むようにして、本棚がずらりと建ち並び、魔術やら、霊能力に関する分厚い本が所狭しと保管されている。


「えっと、どこだったか…」


 少々迷いながらも、その中から『異形百科事典 著、遠藤桜』という分厚い事典を取り出し、どっかりと皮製の椅子に座った。

 机の上に本を開き、焦る気持ちを抑えながら、ぱらぱらとページを捲っていく。


「あった!」


 彼が止めたのは、他でもない鋼鱗種の解説欄だった。


「なになに…鋼鱗種。鋼のような鱗で体を覆われた蛇の一種。非常に希少な種で、中でも、天地創世、神々の時代から今を生きる種は、その気になれば世界を滅ぼせる程の力を持つ。後者のモノは、基本的にこちら側の世界に現れる事は無い」


 吉秋は、読み進める。


「力の強い個体になれば、人に化ける事も可能となる。鱗は高価で取引される為、乱獲が行われる事もあった。性質は獰猛かつ残忍――」


 ――ん?

 そこまで目を通した所で、ふと机の上にエアメールがあるのに気が付いた。手にとって、裏返してみる。


「母さんから…俺に?」


 かさかさと手紙を開くと、中には黒光りするプラスチック製のカードと手紙が入っていた。黒いカードには、吉秋の顔写真と調停人教会の刻印が刻まれている。

 調停人の免許証だった。

 吉秋の表情が、みるみる歓喜に満ちていく。


「うっあ!マジで!?今日から当然のように金が貰えるんじゃん!」


 きらきらと瞳を輝かせ、純粋無垢に喜ぶ吉秋。免許証を高らかに掲げ、狭い部屋でくるくる小躍りする。

 ひとしきり踊ると、興奮冷めあらぬまま同封されていた手紙を開いた。


「さっすが母さん!なになに…」


 読んでみる。


 吉秋へ。

 あなたも今日で16才です。とりあえず、おめでとうと言っておくわね。

 でも、気を抜いてはダメよ。遠藤家は代々調停人というこの世のバランスを保つことを生業としている事はあなたも知っているはず。あなたも一人前とはいかずとも、りっぱな調停人の一人。その証に、調停人免許証を同封しました。

 母さんってば、色々顔が利くから、発行を早めてもらったの。感謝してね。あ、因みに、成績はトップだったらしいわよ。母さんの教育の賜物たまものね。

 それは置いといて、これ以後、あなたは、一度ひとたび世に出れば、多くの魑魅魍魎ちみもうりょうと戦う戦士です。本当は、説得で解決することが一番の理想なのだけど、力ずくでということも往々にして起こる事。人と異形だからね。

 でも、だからこそ、気を抜かず精進してもらいたいと思ってるわ。

 母さんは吉秋の事応援してるから。

 母より。


「うぅッ…」


 吉秋は、思わず涙を流した。母の愛でではない。今までの苦労を自らたたえ、そして終止符が打たれた事に歓喜した涙。


「やった…ついに開放される。あのバカ親から!」


 というのは、彼の多難な人生が物語っていた。

 三歳の頃から、母によって魔術の英才教育を受け、五歳の頃からは、それに加えて母独自の色々な拳法の良いとこ取りの体術を無理矢理に享受きょうじゅさせられ、七歳からは父の思想鍛錬を受け、九歳からは剣術などの武器を用いた戦闘訓練を絶え間なく叩き込まれた。


「……一昨年に至っては、いつのまにか調停人の試験まで受けさせられていたこの俺が、ついに、ついに報われるときが来たのか!」


 吉秋は限りなく悪しき表情で、母からの手紙を見下ろすと、けけけと嘲笑った


「はっ、俺をサイボーグにするつもりか何か知らねぇけど、あんた達から教わったこの力で俺は生きていけるぜ。そこだけは感謝してやるよ!」


 少年は高らかに笑う。自分を縛る親という鎖は、たった今断ち切られたのだ。

 だが、手紙には続きがあった。


「ん?」


 追伸。

 あの時は、命が危なかったんだ。

 マジごめん、許してね。ヒントは私の本。

 ぐっどらっく吉秋。


 と、書かれていた。


「――はぁ?」


 吉秋は首を傾げる。吉秋の誕生日は一昨日おとといの筈である。

 ――親父も同じような事言ってたな…

 父母に謝られ、何が何やら分からない。ただ、一つだけヒントを得る事が出来た。

 命が危なかった。

 母の手紙の最期にはそう書かれていたのだ。


「なんなんだよ。そろってごめんって…。つーか、誕生日祝いの手紙を隠すって、親としてどうなの?四万円もパクるし」


 頭を掻きながら、『異形百科事典 著、遠藤桜』を手にしてみる。これは、母が出版した物で、その筋では中々有名な事典だ。調停人や魔術師、果ては霊能力者にまで重宝されていたりする百科事典で、そういった職業の者には眉唾物まゆつばものの代物である。

 内容は、至ってシンプルで異形の者について、どういう姿か、どう対処すればいいのか詳しく書かれてあり、多くの知識を得る事ができる。

 吉秋も、この本には何度か世話になっていたりする。

 改めて母の著本を眺めてみた。


「これがヒント?わっけわかんねぇよ」


 どう見てもただの本だった。

 吉秋は釈然としない気持ちのまま、書斎を後にする。

 丁度その時だった。

 古びた黒電話が、りーんと鳴った。なんだよこんな時にと呟いて、吉秋は受話器を取る。


「はい。遠藤っすけど」


「…」


 だが、返答は無い。通話は続いている。


(ん、無言電話?前時代的な奴だな)


 吉秋は少しも物怖じせず、大きく息を吸った。


「あんたなぁ!」


「あ、あのっ」


 偶然にも吉秋の怒声と、受話器の向こう側の相手の声がかぶさった。


「はい?なんか言った?」


 ぶっきらぼうな問いに、電話の向こうからおずおずとした声が返ってくる。


「…よ、よしあきさんという方は、ご、ご在宅でしょうか?」


 どこか控えめな細い声。高い声から女性である事は理解できた。

 ――もしかして記念すべきプロ初の依頼人?

 そんな期待もそこそこに、応答する。


「あぁ、俺っすけど?依頼か何かっすか?」


 すると、「わぁ」っと喜ぶような声が聞こえてきた。電話の相手は、吉秋と話せて嬉しいらしい。これには吉秋も悪い気はしなかった。

 自然と口調も丁寧になり、ハードボイルドチックに声も渋くなる。


「遠藤吉秋は僕ですが、何かご用件ですか?プロの調停人ですから、出来る限りの事はしますよ」


 そんな事を言いながら、心の中では、

 ――それなりの金は貰うけどね

 と、凄くよこしまに笑っていた。

 ところが、予想していたきゃぴきゃぴした感じの返事は返ってこず、その代わりに、


「…では、約束通り、今から貰いに参ります」


 どことなく暗い声でそう言い残して、一方的に電話を切られた。

 要領を得ない吉秋は首を傾げる。


「…約束?貰いに?何を?」


 けれどもすぐに、不可解な事が多い日だ、と深く考えず受話器を置いた。


(まぁ、そのうち来るって言ってたしな)


 ふと壁に掛けてある時計を見ると、まだ二時半。


「あ、そーだ」


 吉秋は二階へと駆け上がり、自分の部屋に入った。

 慣れた手つきでパソコンの電源を入れ、手をすり合わせながら、パソコンの画面が立ち上がるのを待つ。


「よし、きた。お気に入り〜お気に入り〜」


 すぐさまインターネットを開き、調停人協会のホームページへ飛ぶ。画面に映し出されたのは、太文字で書かれた『異形相談。トラブル解決』といううたい文句だった。

 吉秋はページの下部へとスクロールして行き、『新たなる調停人の星』という項目をクリックした。

 次のページには、『史上最年少調停人、著名な遠藤家のサラブレッド 遠藤吉秋』という言葉と共に、吉秋の顔写真が載っていた。

 吉秋は、ぱちぱちと手を叩く。


「フゥ〜!俺も有名人!有名人!」


 ――やっぱプロは凄ぇな。

 と、思っていると、窓の外からかぁ〜という鳴き声が聞こえた。振り返れば、窓ガラスをくちばしで突付いているカラスが居た。


「お〜、早速依頼ですかぁ?」


 からからと窓ガラスを開けると、ぴょんと部屋に入ってくる。一見普通のカラスと同様のものに見えるが、異様な事にそのカラスは目が無く、足が三本生えていた。


「ヨシアキ。イライ、モッテキタ」


 カラスは、かたことの日本語でそう言った。これは、調停人の連絡に用いられるヤタガラスという異形で、吉秋のペットでもある。調停人は、ヤタガラスを街に放ち、依頼が舞い込んでくるのを待つものなのだ。


「はいさんきゅ〜。ほら、お駄賃だ」


 吉秋は、机の上にあったマヨネーズを小皿に絞り出し、ヤタガラスに差し出す。

 ヤタガラスは嬉しそうに翼を羽ばたかせ、かぁーと一声鳴いた。そして、くちばしを、


「その前に、どんな依頼だった?」


 と思ったら、小皿が吉秋によって取り上げられてしまう。ヤタガラスは、かぁかぁ抗議する。


「内容が先だっての」


「キンキュウ。オオヌキデパート。カゲボウシ」


 大貫デパート。この辺りでは中々大きな百貨店だ。ということは、支払いもそれなりに良い筈。


「カゲボウシねぇ、物足りないけど…まぁ良いか!」


 吉秋は、机の引出しから耳栓を取り出し、ポケットに入れる。部屋を出ようとして、


「っと、ほら食って良いぞ」


 ヤタガラスに小皿を差し出す。


「クッハァ!ヤッパ、ピューピーノマヨネーズジャネェトナ!」


 吉秋はにっこり笑うと、家を出た。大貫でパートまでは結構距離がある。本来ならば徒歩で行きたい所だが、緊急と言っていたヤタガラスの言葉を思い出す。

 ――ここはチャリだな。

 そう判断し、物置からママチャリを引っ張り出して、またがった。


「うっし、行くぜ!」


 ペダルを踏む足に力を入れる。だが、動かない。


「ん?」


 不思議に思って振り向くと、目の前に人の顔があった。


「うおッ!だ、誰!?」


「こんにちは」


 いつの間にか自転車の後に少女が同乗していた。白いワンピースに身を包み、つばの広い白い帽子を目深にかぶっている。おまけに、夏だと言うのに赤いマフラーを首に巻いていた。

 少女は細い声で言う。


「デパートにお仕事に行くんですよね?ご一緒させてください」


「え、でも?」


「早くしないと、逃げられてしまうかもしれませんよ?」


 確かに少女の言う通りだった。既に問題が解決してから言った所で何も得られはしない。折角の報酬金も水の泡だ。


「私の事はお気になさらず。ただのかぼちゃか、じゃが芋とでも思ってください」


「じゃが芋って…」


 困り果てる吉秋。

 不気味すぎる。この少女は一体何者なんだろうか。だが、ここで足踏みしていたら、金に逃げられてしまう。

 そこで吉秋は思い出した。

 ――そういや、今日は変な日だったな。

 吉秋は一つ溜息をつくと、


「まぁ良いか…。しっかり掴まってろよ!」


 気分一新、通常よりも重いペダルを気合を入れてこぎ始めた。

 最初はゆっくりと走り始め、徐々に速度を上げていく。丁度、商店街を物凄いスピードで駆け抜けている時だった。

 後部座席の少女は、帽子が飛んでいかないように片手で抑えながら、吉秋に話し掛ける。


「あの!調停人なんですよね!」


 風の音に掻き消され、吉秋には上手く届いていない。


「誰が朝鮮人参だ、ぶっ飛ばすぞ!」


 しかめっ面で振り向いた吉秋。

 少女は精一杯声を張り上げる。


「だからぁ!ちょーてーにんなんですよねぇ!」


(あ、そうか、この子調停人志望なのか…)


 流れてゆく商店街の景色の中で、吉秋はそう思った。


「ああ!調停人ね!そうそう、今日からだけどな!」


 少女は不安そうに顔を伏せる。


「心配すんなって!新人だけど結構慣れてんだよ!無免許で親父に回ってきた仕事やってたから!」


「え?」


 せっせとペダルをこぐ吉秋は、優越感の真っ只中にあった。


「どこの家から勉強しにきたか知らないけど!俺が調停人ってのがどういうものかばっちり教えてやるよ!」


 この少女の存在が吉秋にとって自らの成長の証だったのだ。

 調停人になるには、下積み時代というのが存在する。調停人を志す者なら、誰もが必ず通る道で、本物の調停人の下で仕事のアシスタントを二年続けなくてはならない。そこで、調停人という仕事がどういう物なのか学ぶのである。吉秋についてきている少女がそれにあたり、吉秋が教える立場にある。


(俺も一人前なんだなぁ〜)


 のへへ〜っと笑っている吉秋を、少女が不審な眼差しで見る。


(なんだか、危なそうな人…)


 吉秋は、いつも以上に気を張って、がんがんペダルをこいだ。背後に、女の子乗りでシャツにしがみ付いている少女を乗せて。

 町を駆け抜ける高速自転車。

 吉秋は、ある程度デパートに近づいた辺りで、急に速度を落とした。


「おい、今日の相手はカゲホウシだ。どんなのか分かってるか?」


 少女は、口下に手を当てて考えている。

 どうやら知らないようだ。


「カゲボウシっつーのはな、夏特有の異形で…要するにセミだ」


「せみ?」


 少女は首を傾げる。


「ああ、体長三十センチくらいのでかいセミなんだけど、重要なのは鳴き声だ。あいつらは、パニックに陥ると馬鹿でかい声で鳴くんだよ」


 そう言って、いったん自転車を止める。ごそごそとポケットから耳栓を取り出し、少女に渡した。


「つけとけ。鼓膜もってかれるぞ」


 少女は一瞬ぎょっとして、いそいそと耳栓をはめた。

 それを確認した吉秋は、再びペダルをこぎ始める。ほどなくして、じ〜じ〜という音が、聞こえ始めた。


「最悪だ。もう鳴いちまってる!」


 もう数十メートル進むと、割れんばかりのセミの鳴き声が街中を響きはじめる。ヘッドホンをつけて、爆音でセミの鳴き声を聞いているような感覚。

 たまらず吉秋は自転車のブレーキをかけた。

 ――こっからはダッシュだな。

 耳に指を突っ込み簡易的な耳栓をする。そして後部座席乗ったままの少女を肘で小突いた。


「おい!ここからは走りだ!いくぞ!」


 少女はよろめきながら自転車を降り、駆けて行く吉秋の後姿を追った。

 角のタバコ屋を曲がり、横断歩道をニ、三箇所渡ると、大貫デパートについた。この辺りまで来ると、カゲボウシ鳴き声も凄まじい。


(お、アレか?)


 セミの大喝采だいかっさいの中、デパートの入り口で従業員が耳栓をしながら世紀末的な表情でうずくまっていた。

 そして、走ってくる少年をその目に認める。

 吉秋はその従業員の前で足を止めると方耳の指を外し、苦しい顔で調停人の免許証を見せた。


「あ、やっときてくれた。ありがとうございます!」


 と、従業員はぺこぺこ頭を下げているが、カゲボウシの大喝采のせいで吉秋には聞こえない。

 吉秋は、ジェスチャーで言葉が通じない事を教える。


(あ)


 従業員ははっとしてジェスチャーで返す。デパートの中を指差した。


(こちらです)


 そんな具合に、従業員は吉秋を案内するべく先にデパートの中へ入っていく。吉秋もそれに続く。

 数秒遅れてついた少女は、手を膝につき、はぁはぁ肩で息をする。その瞳には、デパートの中から手招いている吉秋。


「はぁ…」


 溜息を一つ、追いかけた。

 一階の生鮮食品売り場のエスカレーターを駆け上り、二階の洋服売り場もすっ飛ばし、三階の雑貨フロアを横切り、四階のジュエリーショップを完全に無視。

 五階の貸し店舗フロアの階段を昇った頃に、三名はようやく屋上へと続く扉の前に立っていた。


(この先です)


 そういう具合のジェスチャーで従業員は告げる。吉秋は頷くと、口だけの動きで「耳栓貸して」と言った。

 しかし上手く伝わらなかったのか、従業員はクエスチョンマークを頭上に浮かべている。

 少女はそれに気付き、吉秋の代わりに身振り手振りで伝える。


(耳栓貸してください)


 従業員は、ええと頷くと胸ポケットから携帯電話を取り出した。


(はぁ?)


 口を尖らせ、アメリカンばりに肩をすくめる少女。

 ――こいつらバカだ。

 吉秋は半分やけくそで、従業員の耳から耳栓を引っこ抜いた。


「ごめんなさあああああい!!」


「ぎゃ――――――――!!」


 昼の静寂をつんざく爆音が吉秋の耳に押し寄せるが、従業員から奪い取った耳栓をすぐさまはめる事によってなんとか持ち直す。

 その代わりに尊い犠牲を払ったが、そんな事には目もくれず、吉秋は屋上の扉を蹴り破った。

 少女は「え、いいんですか?」と、倒れた従業員と吉秋を見比べ、吉秋について行く方を選んだ。


(くっ…耳栓してても、めちゃくちゃうるせぇな)


 青い空の下、むんむん熱気を吹き上げるコンクリート。子供用の小さな列車やら、乗り物が数台無造作に転がっている。出店も幾つかあって、いかにもデパートの屋上といった光景だった。当然の如く、人っ子一人居ない。

 苦虫を噛み潰したような表情で突っ立っていた二人は、鳴き声が大きくなる方へと、ゆっくり進んで行く。


(見つけた)


 吉秋は事の原因をいち早く見つけ、指を指す。

 少女はそれに従って目でなぞる。

 そこには、子供にあげる為に用意されたらしい風船の束に絡まって、苦しそうにもがいている大きな黒いセミがいた。


(これですか?)


 少女は、黒いセミ、カゲボウシを指差して首を傾げる。

 吉秋は頷く。


(へぇ〜これが…)


 不思議な事に、少女は爆音をものともせず、その場にしゃがんで黒いセミをしげしげと見詰めていた。


(こいつ、耳がぶっ壊れてんのか?)


 そろそろ頭も痛くなってきていた吉秋は、一刻も早く事態に収拾をつけるべく、ずいっとそのセミの前に歩み出た。

 その時だった。


(――は?)


 何を思ったのか、少女が吉秋の前に立ちはだかった。


(やめてください)


 かばうように大きく手を広げ、吉秋とカゲボウシの間に立つ。彼女は悲しみを湛えた表情で首をぶんぶん横に振った。

 やめろ、と言っているらしい。


(何なんだこいつは…)


 さあっと一陣の夏風が吹き、少女の頭を覆っていた帽子が風に乗ってさらわれた。ふわりふわりと街へ流れて行く。腰元まで垂れていた赤いマフラーもはたはたとなびく。


(――な!?)


 吉秋は目を見張った。今までは良く見えていなかったが、その少女はとんでもなく美少女だったのだ。

 ぬけるような白い肌に、くっきりとした二重のまぶた。ルビーのように赤い瞳。艶やかで色素の薄いセミロングの髪。どこか人間離れした可憐な美しさだった。

 だが、すぐにカゲボウシの爆音で吉秋は我に返る。


(って違う違う!仕事に集中しないと…)


 吉秋は、少女の華奢きゃしゃな体を押し退け、カゲボウシの前に立ち、黒光りする巨体を傲然と見下ろした。


(やめて!)


 少女は、吉秋の背中をぐいぐい引っ張ってカゲボウシから引き離そうとするが、すぐに振り払われてしまう。

 当の吉秋は、とうとうしゃがみ込んでカゲボウシに手を伸ばした。


(いや、やめて!かわいそうだよ!)


 彼女は目の前で失われようとしている異形の命を守れない悔しさから、吉秋の背中をぱかぽか叩く。


(そんなのかわいそう!ひどい!)


 そして、数秒もしない内に、街を包み込んでいた爆音はぴたりと停止した。街に温かい静寂が戻る。

 少女はそれが何を意味するのか悟って、崩れ落ちた。


「か――ッ。耳痛ぇよ!でっけぇ声で鳴きやがって!」


 一方、吉秋はそう吐き捨てると、その場にごろんと仰向けになった。大の字になって、平穏が取り戻された青い空を仰ぐ。


「ひどい!」


 少女はおもむろに駆け出し、寝転がっている吉秋に馬乗りになった。

 突然の事に目を白黒させて驚いている吉秋。


「え、え、なに?」


 吉秋の襟首を掴んだ少女は、顔を真っ赤にしていた。


「どうして!」


 細い腕でぐらぐらと吉秋を揺さぶる。

 吉秋には何のことやらさっぱり分からない。


「いや、だから何が?」


 少女は、罪を罪とも思っていない様子の吉秋を睨みつけ、涙声で糾弾きゅうだんする。


「異形だって一つの命でしょ!何でそんなひどい事をするの!?」


「は?お前、何か勘違いしてない?」


 半目になって見ている吉秋に、怒り心頭の少女の動きは止まる。


「勘違いしてるのはあなた達だもん!異形だったら殺しても良いの!?人間の迷惑になったら殺されなきゃいけないの!?」


「はぁ?ちょっと落ち着けよ」


「あんなの見せておいて、落ち着け?あなた達は調停人なんて言って、異形を殺してるだけ!」


 吉秋は、彼女が何にそこまで激怒しているのか大体掴めてきた。


「お前なぁ、現実を見てから判断しろよ。ほれ」


 吉秋は指差す。少女の赤い瞳もそれを追う。


「あれ?」


 そこには、透明な羽を広げ、今にも飛び立とうとしている黒い異形が映っていた。


「生きてる?」


 カゲボウシはじじっと鳴いて元気良く飛び立った。

 吉秋は仰向けの状態で、


「達者でな〜。もうこんな所に来るなよ〜」


 と、手を振って見送る。ついでに馬乗りになっている少女を睨み付けた。


「んで、重いんだけどなぁ〜」


「え、わ、ごめんなさい!」


 少女は吉秋の上から飛び退く。

 吉秋は、ぱんぱんと服についた埃を払い、どこか寂しげに言った。


「お前の言いたいことは分かるよ。所詮しょせん調停人だって生き物だ。生き物に生き物を裁く権利なんて無いよな」


 少女ははっと驚いて、目を見開いた。


「世の中には、お前が嫌うような調停人も大勢いる。でもな、そんな奴等ばっかりじゃないんだぜ。調停人の調停人たる所以ゆえんは、全てを丸く収めること。それぐらい知ってるだろ?」


 吉秋はニ、三歩歩いて、空を仰いだ。

 カゲボウシを絡め取っていた赤や黄色の風船が、空を気持ち良さそうに昇っていく。


「人と異形の間で起こるトラブルを解決するのが俺の仕事。ただ、それはどちらか一方が悪いとは言いきれない。今日みたいに偶然ってこともあるし。故意に人を傷つける異形も居れば、異形の領域を侵す人間も居るんだよ」


 少女はそんな吉秋を熱い眼差しで見詰める。


「そういうのって、誰かが仲裁ちゅうさいしないとどんどん大きな問題になっちまって、最終的にひどい事になっちゃうだろ?だから俺みたいな奴が、異形と人との間に立ってるんだ」


 にっこりと微笑んで、少女を見やる。


「俺は、調停人の理想は双方を納得させる事だと思うよ。まぁ、親父の受け売りだけどな」


 ははっと吉秋は屈託なく笑った。

 少女は申し訳無さそうに、おずおずと口を開く。


「ご、ごめんなさい。わ、私の方がひどい事言っちゃった…」


 ――ん、この声どっかで…

 彼の中で何かが引っ掛かる。


「ん、いや別に良いって。俺も最初はそう思ってたし」


 ――聞いたことがあるような…

 魚の骨が喉に刺さったようなもやもやした感覚。もう少しでこの違和感の正体に気付くという所でである。屋上の入り口から、人影が。


「すいませ〜ん」


 声がしたほうを見やると、さっきの従業員が復活したのか、駆け寄ってきていた。


「あ、どうも〜」


 吉秋は、無闇やたらと明るい笑顔と声で、従業員の方に歩み寄る。


「で、異形の方はやっつけたんですね!?原因はどこに?」


「そりゃもうこてんぱんにしてやりましたよ。ただねぇ、チリ一つ残さず吹き飛ばしちゃって、死骸とか残ってないんですよ」


「あ〜、そうですかぁ」


「すいません。何しろ凶暴だったんで。あ、あと、夏の間だけ風船とか、何かが絡まる可能性のある物は、この屋上で使わないで下さい」


「え、どうしてですか?」


「いやね、今回の件とは関係無いんですけど、そういうのが無償に嫌いな霊が住んでるんすよ」


「ええッ!?悪霊ですか?」


「いえいえ、そこまでの奴じゃないですけどね。まぁ、俺の言った決まりごとを守って貰えれば、悪い事は起きませんよ。おはらいは、しといたんで」


「何から何までありがとうございます」


 そのやり取りを見ていた少女は、感嘆の溜息をついた。


「すごい…」


 全てが丸く収まっている。デパート側にはそれとなく事件の原因となった風船の使用の禁止を求め、迷惑をかけた異形は姿が残らない程痛めつけてしまったので差し出せないと言って無闇な混乱を避ける。

 一方あのカゲボウシの方は、傷付けず逃がす。こんな目に遭ってしまったあの異形は、二度とここには近づかない。

 少女は、小さく胸を抱く。


(よかった!いい人みたい)


 そんな風に思い直し、すこし意味ありげな微笑を浮かべた。

 吉秋は、とびっきりの爽やかスマイルで、従業員(話によると支店長)と話を続けていた。

 支店長は、もみ手をしながら、どこか気まずそうに切り出す。


「それで…遠藤様、料金の方なんですが、こちらも色々と被害がありましてですねぇ、あまり、その、大金は払えないんですよ」


 吉秋は、一瞬だけ不満爆発の表情になりかけたが、なんとか笑顔を取り繕う。ふと振り返ると、弟子とも言える少女がきらきらと輝く純粋な瞳で見ている。

 そう、今は手本となるべき態度を示さねばならない状況。

 それに、可愛い子の前でちょっと格好をつけてみたくなった。


「いや、僕そんなお金目当てとかじゃないんで」


 爽やかに微笑んで、手を左右に振る。


「それはいけません!我々はビジネスですからね、遠藤様もそうでしょう?」


 しかし、目の前でちらついている大金の魅力は強大だった。


「た、確かに、そう言われると…」


 揺らいだ吉秋の心を、支店長は見逃さない。


「では、双方の意見を取り入れて、これだけでどうでしょう?」


 支店長は、スーツのズボンのポケットから小さな電卓を取り出し、かたかたと打って吉秋に差し出す。


「―――な!じゅ、十ニ万!?」


 その六桁の数字は、吉秋にとっては革命的金額だった。今までは、基本的に一万円前後、ひどい時には、命を張って何千円なんていうのもあった。それが十ニ万円。

 ――プロってすげぇな。

 吉秋の脳内で、めくるめくビップ生活が繰り広げられる。あれ買って、これ買って、それ食って…

 その瞬間、吉秋の表情に影が差した。支店長にごにょごにょと耳打ちをする。


「わかりました。それで手を打ちましょう」


 支店長も社会の荒波に揉まれた企業戦士。そこは空気を読んで声を押し殺す。


「ありがとうございます。お支払いの方法はいかが致しますか?」


 吉秋は数秒考え、再び耳打ちした。


「二万現金で、残りは銀行振り込みって出来ますか?」


 ちゃっかり報酬は受け取った。



 数時間後。

 吉秋は、夕暮れの港で釣りをしていた。テトラポッドの上で胡座あぐらを掻いて、器用にも片手に釣り竿を握りつつ、もう片方で『異形百科事典 著、遠藤桜』を読んでいる。

 傍らのバケツには、数分前に釣り上げた形の良い黒鯛が一匹。

 幸運にも、その日の食卓は華やかになりそうだった。

 波間に浮かぶ黄色いウキを眺めながら、調停人志望の少女に尋ねた。


「そういやーさ、お前、どこの家から修行に来てるの?」


 仕事が終わったのに、何故か釣りにまでついて来た少女が、首を傾げる。


「どこの?う〜ん、苗字はヴィーヴィル」


「外国人か?わざわざここまで来るなんて珍しいな。普通は、その土地の調停人に習うもんだけど…」


 夕日を背に、漁船が港に帰っていく。


「へぇ〜、そうなの?」


「ま、そういうのもあるんだな。国際化の波ってやつか」


 吉秋は、そういう時代なんだなとしみじみ思う。

 調停人は世界各国に、様々な形態をもってして存在しているのだ。異形への対処の仕方も色々。


「こくさいか?」


 だから、この少女の存在も異文化交流みたいなものだろう。


「ま、色々あるだろうけど、頑張れよ」


「は、うん。あの―――」


 その時、何の前触れもなく、ちょぽんとウキが沈んだ。

 竿の先が僅かにしなる。


「うおッ!引いてる引いてる!アミ取って!」


「あ、はい!」


「ちげーよ!そりゃ、俺の釣った鯛だろうが!アレだよ!アレ!」


 吉秋が竿を引き、少女が魚を掬う。

 アミに入っていたのは、さっきのよりも一回り大きい黒鯛だった。


「おお!大物じゃねぇか!やったな!」


 喜ぶ吉秋。


「やったね!」


 嬉しそうに、頬を赤らめる少女。

 その時は、この少女を、そういう存在だとばかり思っていた。

 調停人志望の卵。

 命に対して無闇に真剣で、純粋で。

 世間知らずで、可愛い女の子。

 そう思っていた。

 吉秋は、釣り上げた鯛を、少女に差し出す。


「ほら、一匹やるよ。今日は俺一人だから、こんなに食えない」


 少女は戸惑いながら、それを受け取る。


「この、お魚を?」


 不思議そうな赤い瞳が、大きな黒鯛を眺めている。

 吉秋は、彼女に言った。


「ああ。お前も協力したんだから、命に感謝して、美味しく食べるんだぞ?それが殺生をする者の心得だ」


 それが彼のポリシーだった。


「美味しく、感謝して…」


「そう。せっかく生きてる命を摘み取っちまったんだ。責任ってのがあんだよ」


「責任…」


 少女は何故かうつむいている。


「ん?魚、嫌いなの?」


 吉秋は問う。

 刹那、少女は顔を上げた。その燃えるように赤い瞳は、何かの決意を秘めていた。


「わかったよ。私も、しっかり責任を果たすね」


(こいつ、魚を食うだけのことでどうしてこんなに真面目なんだ?)


 そう思いながらも、何だかおかしくなった。少女の命に対して真摯しんしな態度に、吉秋はとても好感が持てたのだ。彼は、命を粗末に扱う者を嫌い、大切にする者を好む性格。

 吉秋は、にかっと笑う。


「ああ。精々美味しく食ってやってくれよ」


 少女は大きく頷き、


「良く聞いてよしあき!」


 そしてえた。


「私は、メリュジーナ・ホワイト・ヴィーヴィル!」


「――ん?」


 笑顔だった吉秋の思考が停止する。


(こいつは何をトチ狂ってんだ?)


 全く意味が分からなかった。


「神々の時代から今を生きる大蛇、ヴィーヴィルの末裔まつえいなの!」


 一方、少女は強い決意を胸に宿し、言い放つ。


「誓約の下に、あなたを美味しく頂くからッ!」


「―――はい?」


 一瞬の内に凍りついた夕暮れの海辺。

 そこからが波乱の幕開けだった。




 とある世界に、小さな小さな白いお姫様がおりました。

 それは、お姫様が十歳の頃の話です。


「ジーナ、この人間の子供が、あなたのお婿むこさんになる子よ」


「この子が?私よりも小さいね」


「ええ。まだ子供だからよ。すぐに大きくなるわ」


「すぐってどれくらい?」


「そうね、誓約書は十六歳になったらだったから、あと十五年かしら」


「ふぅん、この子の名前は?」


「よしあき、よ」


「よしあきは私の事、好きになってくれるかなぁ?」


「その為には、ジーナが彼を愛してあげないとダメねぇ」


「わかった!ジーナは毎日ここでよしあきを見てるよ!」


 それから毎日、お姫様はその人間を見詰め続けました。

 彼の事を毎日想いました。

 どんな人なのかな?

 どんな声かな?

 私に優しくしてくれるかな?

 今、何を考えているのかな?

 次第に、お姫様の想いは募っていきます。

 早く会いたい。

 会いたいよ。

 会いに行くよ。

 待っててね。

 私の旦那様。




 夕暮れの港が窺える穴場的釣りスポット。

 鮮やかな橙色に染まる中、二人は向き合うようにして佇んでいた。方や、少し変わった人間の少年。方や、伝説の蛇。世にも珍しい組み合わせである。

 吉秋の手から釣り竿が落ちて、からんと音を立てた。

 その前で少女のセミロングで色素の薄い髪と、血のように赤いマフラーが風に揺れる。唐突に食べる宣言を果たした少女、メリュジーナである。

 落ちかけた日差しの中、彼女は呆然と立ち尽くす少年を力強く指差し、


「あなたの命は私の物!」


 いたって真剣にそう言った。


「…」


 吉秋は頭の中が真っ白になった。唖然とするしかない。


「ほら、誓約書だってここにあるんだよ?」


 メリュジーナは、ワンピースのポケットから何やら黒い紙を取り出し、突き出す。豪華な羊皮紙に、白いルーン文字が連なっていた。


「――なッ、誓約書ぉ!?」


 吉秋は耳を疑った。

 魔術を使う吉秋にとっては、契約書や誓約書は絶対の存在なのである。契約内容を破れば、たちまち力をうしなってしまう。

 少女はそれを持っていた。


「ちょ、ちょっと貸してくれ!」


 吉秋は、信じられないという様子で、少女の手から誓約書を掠め取った。豪華な黒い羊皮紙に、金の縁取り。見るからに高価で格式高い印象だ。

 さっと目を通す。


「なになに、遠藤桜、遠藤吉隆は、息子吉秋が満十六歳になり次第、その身をヴィーヴィルの姫、メリュジーナに差し出す事をここに誓いますぅ!?」


 少女はこくりと頷いて契約書の最後の辺りを指差した。


「ほら、署名もしてあるよ」


「い、印鑑も、うちのじゃねぇか」


 とどめのように、誓約書の最後には捺印なついんまでしてあった。偽装や偽物ではない事は明らかだ。元より、魔術に関わる契約書の類は偽装などできないが。


「――――」


 ふわりと吉秋の意識が遠のき、視界が真っ白になった。


「だ、だいじょぶ?」


 怪訝そうな表情のメリュジーナ。目を剥いている吉秋の顔の前で手を振ってみるが反応は無い。あわわと慌てた。


「ね、ねぇ、起きてよ!」


 目玉に息を吹きかけてみても、ほっぺを抓ってみても、全く動かない。メリュジーナは吉秋の鼻と口を塞いでみた。

 みるみる吉秋の顔が青ざめていく。

 と、その時、


「何でじゃああああああ!!」


 魂の叫びと共に吉秋はこちらの世界に帰還した。同時に、手の中にあった誓約書を放り捨てた。


「あー!何するの!?」


 少女はぴょんとジャンプしてこれをキャッチ。二度と離すまいという様子で大事そうに胸に抱いた。

 吉秋は大声で咆えている。


「どちくしょ〜〜〜〜!!あのバカ親がああああああ!!」


「…ッ」


 復讐に燃える吉秋の雄叫びに、少女は怯えて目をつむった。その前で、凶悪な表情の少年がくつくつと笑い始める。


「そ、そういうことか。俺は、この時の為に鍛えられていたわけだ」


 ふっふっふと、不気味に笑う。どこか遠く、同じ空の下でにたにた嘲笑っている両親(想像)が何とも憎らしい。

 吉秋は邪悪な表情で、発端である少女を目の端に捉える。


「ひッ」


 メリュジーナは小さな悲鳴を上げた。


「おい。この契約書は、いつ交わされたものだ?」


 少女は粗野な様子の吉秋にびくびくしつつ、語り始めた。


「こ、この誓約書は、あなたのお父様とお母様が十五年前にロンティエンに訪れた時に交わされた物なの」


「ろ、ロンティエン!?それって、蛇の神様が住んでる世界じゃ…」


 この世のどこかにある世界。龍が最初に降り立った伝説の大地。それが鋼鱗種の世界ロンティエン。吉秋は、いつの頃か魔術書で読んだ事があった。

 そこから来たという少女が言う。


「うん。あの人達は、異形の百科事典を作りたいとかで、世界中を周っていたんだって。その道中でひどい怪我を負って、それで私のお母様がお助けになられた」


 あのバカ親はそんな事してやがったのか、と吉秋は行方を握り拳をわなわな震えさせる。


「ってちげーよ!何でそれが俺の命に関わるんだ!」


 少女はあっさりと言う。


「お母様はタダでは助けないもん」


「とんでもねぇお母様だな!」


 苛立つ吉秋。誓約書が本物である以上、従わない訳には行かない。だが、それが意味するのは、死。

 認められるわけが無い。

 一方少女は、


「ヴィーヴィルは、そうやって数を増やしていくの」


 などと、聞いてもいない情報を勝手に喋っている。

 吉秋は心の中で舌打ちをした。


(ちッ、異形め!)


 下手をすれば、指名手配にされそうな悪い顔だ。

 メリュジーナは続ける。


「それで、あなたのお父様があなたの命と引き換えに、妻の命を助けてもらった、というわけ」


「とんでもねぇお父様だよ!」


 いよいよ話が見えてきていた。要するに、吉秋は母の身代わりに蛇のお姫様に売却されていたのだ。それも、自分の知らない場所で。


「や、野郎…そういうことだったのか。どうりで逃げ出す訳だよ」


 全身から吹き上がる怒りを、こうなる事を知っていながら逃げ去った父に向ける。拳を噛み合わせ、ぼきぼきと骨を鳴らす。

 今度会ったら、ぼっこぼこにしてやる。

 固い決意をした。

 少女は怯えた調子で、腰までだらりと伸びているマフラーをくるくると手に絡ませ、吉秋に尋ねる。


「お、お分かりいただけた?」


「いただけるか!人身売買は法律上禁止されてんだよ!」


 吉秋の大きな声にきゅっと目をつむったが、それでもメリュジーナは勇気を出して言い放った。


「い、異形には関係ないもん!それは人間の話でしょ!」


「ぐっ」


 吉秋は返す言葉に詰まった。その通りだったからだ。しかし、はいそうですかという訳にはいかない。

 命が懸かっているのだ。


「やかましいわ!とにかく、俺はイヤだからな!゛お前なんか″に食われるのは!」


「――ッ」


 彼女の真紅の瞳が、うれいを帯びる。眉をハの字に曲げて、表情が言い得ぬ悲しみを湛えた。

 けれども吉秋は混乱している為、とうとうそれに気付かない。


「誰が、゛蛇女″の餌なんかになるか!」


 その言葉を放った直後。吉秋は、勇ましく言ったのも忘れて、一歩後退りした。

 経験と勘が、彼を無意識のうちに動かしていた。

 少女の髪が、ふわりと逆立つ。


「…ひどい」


「え?」


 底冷えするような、背筋が凍り付くような声。

 異様な空気が周囲を包み込む。

 吉秋の視界には、ぷるぷると体を震わせているメリュジーナが映っていた。

 少女は俯いたまま、声を荒げる。


「ひどい!」


 めきめきめきめき。


「え、ちょ―――――」


 耳障りな音と共に、少女の肉体が変化していく。

 何かが少女の腰辺りから生えた。うにょうにょとワンピースのすそから這い出し、ダイヤモンドのような美しい輝きを放つ。それは、煌びやかな純白の鱗がびっしりと生えた白い尻尾。丸太のように太いそれが、少女のワンピースのすそからにょっきりと顔を出して、波打っていた。

 吉秋は目を丸くする。


「尻尾!?」


 少女は依然震えながらぼそぼそと呟く。


「ひどい…お前なんか…なんて…あんまりだよ」


 びりびりびりびり。

 今度は背中が盛り上がり、ワンピースが裂ける。そしてそれは、夕日を浴びて、大きく広がった。

 その人間では有り得ないシルエットに、吉秋は驚愕の声を上げる。


「い――――!?」


 メリュジーナの背中から、コウモリのような翼が現れていた。夕日の色よりも深く赤い色。真紅の翼。

 突如として肉体を変化させた彼女の口から、涙声の悲鳴にも似た怒声が響く。


「どうしてそんなイジワル言うの!?私だって、好きでこんな事するんじゃないのに!!」


 同時に、うねうねとのたまっていた尻尾が、ぴしゃりとコンクリートに叩きつられた。

 ばがーん!

 吉秋の表情が戦慄に染まった瞬間だった。


「……」


 むちのような要領で叩きつけられた尻尾は、見事にコンクリートをえぐっていた。ぱらぱらと破片が辺りに飛び散る。


「…ま、まじっすか」


 吉秋の全身から冷や汗が噴出する。背中もべとべと。

 メリュジーナは顔を上げ、潤んだ瞳で吉秋を突き詰める。


「あなたが言ったんでしょ!取った命は、美味しく感謝して食べろって!」


 それでも吉秋は激しい剣幕で言い返す。


「まだ取られてねぇ!それとこれとは別だっての!」


 少女は大きな声に体をびくりと引きつらせ、胸に手を縮込ちぢこめる。今にも泣き出しそうな表情。


「…なによぅ。私のせいだっていうの?」


 明らかに怯えた瞳で見ている。

 しかし、吉秋にはそんな事は関係なかった。


「てめーみたいな異形に食われてたまるか!こっちはこれからなんだよ!免許取ったばっかりなんだよ!」


「そ、そんな……」


 すると、少女の体ががっくりとうなだれた。首が垂れ、腕もぶらんと揺れた。

 メリュジーナは消え入りそうなか細い声で呟く。


「…わかんない」


 突然張り詰めはじめた空気に何かを感じ、強く警戒する吉秋。


「お、おい―――」


 吉秋は、彼女の肩に手を置こうとして、止めた。今までにつちかった調停人の直感で、なにやら、嫌な予感を感じたからだ。

 少女は、誰に言うわけでもない言葉を、囁く。


「私に…どうしろっていうの?」


「何を言って――」


 異形と化した少女は、胸に渦巻く不満を、滅茶苦茶に、出鱈目に、


(もう、わかんないよ)


 力に変えて全部吐き出した。


「うわあああああああああん!!」


 その刹那、


「なッ!?」


 彼女の周囲の空気が、破裂した。

 雷でも落ちたような爆音。少女を中心に、凄まじい衝撃波が発生し、吉秋を薙ぎ倒す。


「ぎゃああああ―――!!」


 衝撃の波に乗って吹き飛んだ吉秋の体は、コンクリートに打ち付けられ、ごろごろと転がった。しかし、伊達に鍛えられてはいない。

 地に這いつくばる寸前に受身を取り、まるで体操選手のような動きでくるりと一回転して着地した。


「な、なんだ!?この馬鹿力は!」


 辺りを見回してみる。人気の無い穴場の釣りスポットが幸いして、どうやら巻き込まれた一般人は居ないようだ。

 そして、爆心地を見る。

 一瞬の内に起こった爆発の傷跡。その中心で、少女が肩で息をしていた。


「はぁ…はぁ…」


 疲れた様子で、両手を膝について息を切らしている。

 吉秋には分かった。


(ヤバい!!)


 今の出来事は、少女の体中の魔力が一気に放散されたものだ。しかも、ただそれだけで衝撃波。周囲のコンクリートにも、引き裂かれたような亀裂が生じていた。

 力の強い『精霊』レベルの力が無ければ、こうはならない。


(これはヤバ過ぎるぞ!)


 吉秋の恐怖も他所に、メリュジーナは涙を堪えているのか、嗚咽おえつを漏らしていた。


「うッ…ひぐ…」


「な!?」


 吉秋は目を見開く。

 少女の体の周りで、発散しきれなかった力が、火花を散らしてさえいたからだ。


(こいつは…)


 とんでもない化け物だった。こんなのとやりあったら、いくら調停人でも命が危うい。

 吉秋は、とにかく落ち着かせようと、説得を試みる。


「うおい、落ち着け!とりあえず話し合おう!そして、分かり合おう!」


 しかしメリュジーナは両手で耳を塞ぎ、頭をぶんぶん振った。


「〜〜〜〜〜〜ッ」


 まるで聞きたくないと駄々をこねる子供のように。


「もう、知らない!知らないんだもん!」


 そう言いながら、尻尾をばちこんばちこんそこら中に叩きつける。その度に、コンクリートが粉々に砕け、破砕音が響き渡った。もう辺りは滅茶苦茶だ。

 見る限り我を失っている。

 これ以上この場が破壊されるのは、調停人として阻止しなくてはならない。


「おい!やめろ!落ち着けってば!」


「私は、悪くないもん!」


「ちッ、言葉が通じないのか!?」


 説得を断念するのを余儀なくされた吉秋は、『暴れる異形』を取り押さえようと、暴れ回る尻尾の波に、突撃した。


「よッ!はッ!」


 乱雑に振り回される尻尾を、体を傾け、しゃがみ、ジャンプしてかわす。かなりの反射神経だ。


「うおっと!こんなの俺にかかれば―――」


 しかし、最後のジャンプがまずかった。


「あ」


 着地の瞬間、吉秋の右足を尻尾が払った。

 吉秋の体が前のめりに傾く。


(まずい)


 そう思った頃には、遠心力を乗せた次の一撃が、真横に迫っていた。

 衝突。


「――ぬごッ!」


 吉秋の体は、くの字に曲がったままテトラポッドを越えて、飛んだ。勢いが失われる頃には海に落下。

 波間に盛大な水しぶきが上がった。

 かすんだ意識の中、オレンジ色の海にゆっくりと沈んでいく。


(ちくしょう…こんなに強い異形は、はじめてだ…)



 巨大な水しぶきを目の当たりにして、メリュジーナは凍りついていた。自分のしてしまった行為に恐怖し、その場にぺたりと座り込んでしまう。


「どう、して、こんな、ことに…」


 ひどい事をしてしまった。

 もしかしたら、死んでしまったんじゃ…

 駆け寄って、海を覗いてみる。ぶくぶくと泡立ってはいるが、浮上してくる気配は無い。


「そんな…、うそよ。うそって言ってよ!せっかく会えたのに!」


 少女は叫ぶ。


「よしあき!」


 水面に泡が一斉に噴き出した。


「ふぇ?」


 その一瞬、


「うおおおおおおおッ!!」


「きゃああああ!!」


 海面から飛び出した吉秋が、メリュジ―ナに組み付いた。ごろごろと転がり、もんどりうって、吉秋が少女の上になる。


「くおらぁ!暴れるんじゃねぇ!」


「い〜〜や〜〜ッ!離して〜〜〜ッ!」


 じたばたともがき暴れる少女。

 吉秋は、即座に彼女の両手を押さえつけ、ついに『暴れる異形』を組み伏せる事に成功した。


「これで動けまい!」


「〜〜〜〜〜〜ッ!!」


 みるみる少女の顔が赤くなっていく。


「俺はこう見えて、体力には自信があるんだよ!さぁ、大人しく――」


 目尻に涙を浮かべていた。


「へ?」


「バカ―――――!!」


 吉秋はすっかり忘れていた。今しがた゛それ″で弾き飛ばされたばかりだということを。


「しまった!尻尾がまだ――」


 ばちこ〜ん!


「うぎゃあああああ!!」


 少女の純白の尻尾が、組み付いていた吉秋をまたもや真横に叩き飛ばした。今度は陸側に飛び、数回地面で跳ねた後、吉秋は力無く転がった。


(…ぐッ、絶対に骨が折れた。複雑骨折に違いない)


 うつ伏せになりながら、自分の体が動くか確かめる。どうやら、問題無い。ほとほと、自分の体の頑丈さに呆れた。


「負けるかぁぁぁ」


 吉秋は調停人の誇りにかけて立ち上がる。これ程までに力のある異形を放置しておいたら、それこそ問題が起きてからでは何もかも手遅れだ。

 と、考えられるように、ふらふらとしてはいるが、意識ははっきりしている。


「くッ…あ、あたまが、くらっくら、する。なんつ〜『化け物』だよ…」


 メリュジーナのつぶらな瞳が、キッと険しく変化した。


「――よしあきのせいッ」


 ダン!

 怒れる想いを片足に乗せ、力強くコンクリートを踏みつけた音だった。


「…なんだって?」


 声の主を見やる。


「よしあきのせい!全部、こんな風になったのも、こんな想いをしなきゃいけないのも!ぜ〜んぶよしあきのせい!」


 訳の分からない事を言っている少女。

 またも不穏な空気を感じた吉秋は、実に下手くそな作り笑いでなだめようとする。


「れ、冷静に、冷静になれ〜」


 メリュジーナはようやく自分の不満の原因に気が付いていた。

 だったらどうすれば良いのか。

 答えは一つ。

 少女の真っ赤な瞳が、吉秋を睨み付ける。


「やっつけてやる!」


 吉秋の顔から血の気が引いた。


「―――え?」


 メリュジーナは、人差し指を天高く掲げる。


「――!?」


 吉秋の顔が驚愕に染まる。けれど、脊髄反射のように素早く身構えた。

 調停人の経験から、そういう動きを取らざるを得なかった。というのも、メリュジーナの指先に莫大な魔力が集束していからだ。

 その量から、何か、ドえらい攻撃の準備に入ったらしいことは明白。しかし、吉秋にも類稀なる魔術の才能があった。今まで、幾度となく死線を潜り抜けてきた。彼は調停人。

 そう、調停人なのだ。

 吉秋は身を奮い立たせ勇ましく、力強く言った。


「お、おおおお!やってやるよ!かかってこいやああああ!」


 白い指先が、吉秋へと向けられる。

 メリュジーナは冷徹な微笑を浮かべ、呟いた。


「――凍っちゃえ」


 その瞬間、指先から冷気がほとばしった。青い光が、吉秋を呑み込まんとするべく、迫る。


(――げッ!?)


 吉秋の中で激しく警鐘が打ち鳴らされる。彼の脳内コンピューターが、めまぐるしく計算し。弾き出した結果は、


『これ、当たったら死ぬね』


 だった。


「避けろおおおおお!!」


 しゃにむに真横に跳んだ。

 吉秋の居た場所を、青い光が薙ぎ払う。凄まじい音にかぶさり、光が触れた地面から、ガガガガガガガっと氷柱が突き立った。


「た、助かっ―――!?」


 自分の回避能力に感心しながら息をついたのも束の間。振り向けば、地面、海を通り越して、遠くの山まで白い一筋の線が入っていた。一瞬で形成された白線。

 彼女の攻撃によって生じた結果を見た吉秋は、冷静に思案を巡らし、


(勝てません!)


 一秒もかからずそう理解していた。

 そうこうしている間に、メリュジーナの指先が再び吉秋に向けられる。


「よけないで!」


 びゅんと閃光が飛び、その軌跡きせきから、氷柱がばしばし発生する。


「のわッ!!」


 咄嗟に横に転がり、間一髪でこれをかわす。


「―――うッ!」


 吉秋はごくりと唾を飲んだ。

 見れば、顔から数センチも離れていない場所から、鋭利えいりな氷の先端が突き出していた。

 もう少し反応が遅れていたら、さっくり串刺しになっていただろう。


(こりゃ、今日が俺の命日になるかもしれねぇな)


 それでも吉秋は淡く高揚を感じていた。久しぶりのピンチに、武者震い。

 ほんの少しだけ、楽しそうな表情で、目の前の異形を見据える。 

 ことごとく攻撃を避けられてしまったメリュジーナは怒り、尻尾を振り回しながら地団太じだんだを踏んでいた。


「どうしてよけるの!?当たってよ!」


「当たれるか!こんなの一発KOだろうが!」


 そう言い返しながら頭の中で、状況を覆す作戦を練る。


(くッ!どうする!?)


 このままでは、かちんこちんに冷凍されてしまう。或いは、鋭い氷柱で串刺しに。しかも、その後ばりばり食べられる。

 絶対にイヤだ。


(なんて趣味の悪いやつなんだ。しかもガキみたいな行動を―――)


 そこで、


(ん、ガキみたい?)


 吉秋の瞳が不気味に輝いた。彼は、この絶体絶命の状況で活路を見出したのだ。

 やにわに少女の背後を指差し、 


「あ―――ッ!空飛ぶパンダ!」


 と、叫んだ。

 彼の中で、子供イコール、パンダが好きという方程式が成り立っているのである。半分はやけだ。

 しかし奇跡的にも、この古典的な引っ掛けに騙されてしまったのは他でもないメリュジーナ。


「え?」


 メリュジーナはつい振り向いてしまう。


(かかった!)


 吉秋は、振り向き、少女とは反対の方向に一目散に走り出す。

 彼が思いついたのは、『逃げる』という作戦だ。

 だが、その前に、


「お返しだ!とっとけこの野郎!」


 距離をとった吉秋。

 ずぶずぶずぶずぶ。

 彼の夕日を浴びて長く伸びた影が、あろうことか波立ち、何かが飛び出した。黒い巨躯、たてがみ

 漆黒しっこく獅子しし。影で形成された化け物だった。三メートルはゆうに越えるそれは、鼓膜をつんざくような咆哮を上げた。


「グアオオオオオオオオオ!!」


「――なに!?」


 体が揺れるような圧倒的な爆音に、すぐさまメリュジーナは振り返った。


「――え」


 今の今まで居なかった化け物がそこに存在していた。そして、それを従えた吉秋が、不敵に笑っていた。


「そこでしばらく遊んでな!」


 吉秋の声で、漆黒の魔獣が牙の生えた口を開き、


呪縛じゅばく!」


 どろどろした影の塊をメリュジーナに向かって放出した。

 メリュジーナの瞳が見開かれる。


「――ッ!!」


 目の前に、黒い塊が迫っていた。

 逃げようとしたが、間に合わない。影が衝突し、メリュジーナの体は呑み込まれた。

 そこは、漆黒しっこくの暗闇。


「キャ―――ッ!何これぇ!?」


 吉秋の魔法。契約精霊『グレンデル』の力の一つ。影で相手を束縛する力だった。

 影に取り込まれたメリュジーナは身動きが取れない。おまけに外も見えない。


「真っ暗―!動けないー!」


 黒い球体の中できゃあきゃあ喚いているメリュジーナを確認すると、


「グレンデルの影だ!ちょっとやそっとじゃ破れねぇよ!」


 そう吐き捨て、吉秋はわき目も振らずに逃げ出した。影の獅子がその後に続き、吉秋の影にどぼんと飛び込み、姿を消す。

 吉秋はとにかく、どうしたらこの状況を丸く収めれるのかを考える時間が欲しかった。

 こういう時の『あの本』を求めて走る。


 一人、影の中に取り残されたメリュジーナ。最初こそはじたばた足掻いていたが、急にそれを止めた。


「…鬱陶うっとうしい」


 彼女は、この厄介な影の牢屋にブチ切れたのだ。

 全身の力を燃え上がらせ、


「放して―――!」


 一気に放散させる。

 内側からの膨大な破壊力に影が膨れ上がり、瞬時に砕け散る。


「…はぁ…はぁ…」


 ばちばちと不完全燃焼した魔力の火花を散らしながら、少女は辺りを見回す。


「どこに行った!悪い奴!」


 メリュジーナのルビーの瞳が、今までとは違った意志を宿していた。

 しかし、目標は影も形も見当たらない。


「逃げたのね!」


 彼女は真紅の翼をばさばさと羽ばたかせ、夕日の沈んだ夕闇に舞い上がった。

 風を切って上昇。ある程度の高さから、自分に攻撃した少年を探す。


「ぜ〜〜ったいに見つけてやるんだから!」


 『敵』をやっつける為に。



 遠藤家、書斎。

 吉秋はふらふらとした足取りで、ようやくそこに到着していた。


「はぁ…もうダメ…」


 言いながら、机にダウン。全身全霊の力で走ってきた為、息が上がっている。


「し、死ぬかと思った。助けてくれよ母さん」


 突っ伏したまま、目の前にある『異形百科事典』に手を伸ばし、


「…頼む」


 藁にもすがる想いで開いた。

 無論探すのは、あの少女が名乗ったヴィーヴィルという異形の詳細だ。索引から、う行

で探す。


「あ」


『ヴィーヴィル、八百七十五ページ』


「母さんありがとう!生まれた時から感謝してた!」


 心にも無い嘘をつきながら跳ね起き、急いでページを捲る。


「どれどれ、ヴィーヴィル『鋼鱗種』に分類される大蛇…」


 あのバカ親父!


(「今度の仕事の相手が鋼鱗種らしいんだ――」)


 今朝のあの台詞にはそういう意味があったのか、と父を呪う。大方、嘘をつけない性格の父は、うっかり鋼鱗種と口走ったのだろう。

 しかし、そんなことをしている場合ではない。

 焦る気持ちを抑え、文を読む。


「全身を硬質の鱗で覆われており、ルビーの瞳を持つ。有翼。蛇には珍しく、冷気を操るのを得意とする種族である。メス単一の性で、繁殖の際には外部からオスを求める傾向にあるようだ。普段は温厚かつ実直な性質だが、一度怒らすと手がつけられない。極めて希少。こちら側の世界には現れない」


 確かに。

 魚を釣った時の嬉しそうな笑顔と、変化へんげし、蛇女と化した姿を思い出してそう思った。


「基本的には、鋼鱗種の項を参考とする」


 吉秋は昨日、途中で読むのをやめた鋼鱗種の頁を開こうとした。

 その時である。

 強大で、身震いする程の魔力が近くで集束するのを感じ取った。


(バカな!?もう来やがったのか!?)


 即座に頭を本で覆い、身をかがめる。

 間を置かず、それは放たれた。

 どが〜ん!

 直後、稲妻のような爆音が頭上で炸裂。ぱらぱらと、木の破片が吉秋に降り注いだ。


「――んな!?」


 見上げると、天上が綺麗さっぱり吹き飛ばされていた。

 それどころではない。書斎もろとも家が、上半分が粉々に破壊されている。

 吉秋は意志とは無関係に、この世のものとは思えない悲鳴を上げた。


「ぴゃ〜〜〜〜!!」


 錯乱さくらんする吉秋の頭上から、聞き覚えのある声が降って来る。


「逃げられないよ!悪い奴め!」


 屋根も壁もが消失し、満天の星空がうかがえる。そこにあの少女が浮かんでいた。赤い翼を広げ、純白の尾を生やしたヴィーヴィルの姫君。彼女の指先は、やはりこちらに向けられていた。

 吉秋は、怒りに任せて怒鳴りつける。


「てめー何しやがんだ!家が滅茶苦茶に!うああああああ!!」


 そこまで言って、瓦礫の山の中で頭を抱えてうずくまる吉秋。住み慣れた家が破壊されたのにはかなりのショックがあった。

 少女はふわふわ浮かびながら、あの子供のような口調で言う。


「…なによぅ、私が悪いって言うの?」


「あったりめぇだろうが!弁償しろ!この蛇女!」


「…な」


 少女の瞳が、悲しみと戸惑いを帯びる。しかし、瞬時に怒りに変化した。 

 もう一度、指先に魔力が集中する。


「うわッ、よせッ!!」


 吉秋は、すぐさまその場を離れる。瓦礫がれきを押し退け、間一髪で路上に踊り出た。


「なんなのよぉ――!」


 少女の叫びと共に、思った通り青い光が炸裂した。

 ちゅど〜ん!

 今度こそ家が全壊した音だった。

 けれども、吉秋に振り返っている時間は無い。とにかく逃げなければ。泣きながら、夜道を走り出す。


「ちきしょ〜〜。何なんだよ、あいつは!」


 半べそで、全力で逃げる。片手に『異形百科事典』を抱えながら。

 その背後から、


「待て―――――!!」


 と、メリュジーナがばっさばっさと羽音を立てながら追いかけてくる。空を飛べる分蛇女よりもタチが悪い。


「飛ぶとか反則だろうが――――!!」


「反則なんかじゃないもん!」


 逃げ行く後姿を追うのに夢中になっていたメリュジーナは、すぐ目の前に電線が張られている事に全く気付かない。


「きゃ!」


 じぐざぐに張られていた電線に、びよんと弾かれる。この間にも、吉秋は夜道を疾走していく。次第に、距離が離されていく。

 真紅の瞳が焦りという激情を帯びた。


「もう!邪魔しないでよ!」


 電線を純白の尾で叩き切り、逃げ行く背中を追う。ぐんぐん加速し、吉秋の手前まで追いついた。

 それにともなって、メリュジーナの指先から冷気の光が、マシンガンの如く乱射される。もちろん、吉秋を目掛けて。


「このこのこのこのッ!」


「やめてくれ〜〜〜〜!!」


 冷気の豪雨ごううの中。吉秋は、人間の限界を凌駕したスピードで走り、飛び跳ね、転びながらも、少女の攻撃を避けまくる。それでも、激化した攻撃は吉秋の体を掠める。 


「ぎゃああああ!!冷てえええええ!!」


 服に穴が開き、ジーンズが裂けた。


「えい!もうッ!」


 メリュジーナの両の人差し指から、交互に放たれる光がびゅんびゅん飛び、吉秋を外し、ブロック塀や、道路を出鱈目に凍てつかせていく。


(こいつ、街を!)


 その時、とうとう堪忍袋の尾が、切れるのを通り越して爆発した。吉秋は光を避けて跳躍ちょうやくし、塀の上に軽やかに着地。

 しゃにむに空飛ぶ蛇女に向かって指を突き立てた。


「もう許さねぇ!メリークリスマスだかイリュージョンだか知らねぇが、どうなっても文句は言えないからな!」


 憤怒の形相の吉秋に、メリュジーナはびくりと体をすくませ、ぱっと電信柱の後ろに隠れた。


「いや!乱暴しないで!」


 首を横にぶんぶん振っている。


「乱暴してんのはそっちでしょうがあああああ!!」


 吉秋は収まらない。


「俺までは良かった、だけど、人間に迷惑かけるのは見過ごせない!」


 少女は一瞬驚いたような表情になり、自分の胸を抱く。


「そ、そんな事してないもん!」


「じゃあ、後を見てみやがれ!」


 おどおどしながら振り向く。そこには、電線が無造作に垂れ下がった電線がじじっと火花を散らし、至る所が凍りついた無残な街並みが広がっていた。


「そ…んな」


 自分のしてしまったらしい事をようやく理解し、戦慄する少女。

 吉秋の中で、責任感と使命が燃え上がる。


「調停人として、お前を倒す!」


 少女は瞳に涙を浮かべ、ぷるぷると震えだした。


「いや、いやだよぉ…」


「お前は人の領域を侵した!覚悟しろよ!」


 夜の闇で大きくなった吉秋の影から、先ほどの魔獣がずぶずぶと湧いて出現する。


「グウウッ!」


 吉秋は再び少女を指差し、鋭い声で檄を飛ばす。


「グレンデル、焼き払えッ!」


 鋭利な爪をアスファルトに食い込ませ、四つの足で大地を掴む。


「ゴアアアアアアア!」


 そして、黒々と裂けた口から、炎の奔流が吐き出された。凄まじい熱波が一気に広がる。まるで、爆発が起きたような衝撃。

 避ける範囲が無いほど大きな炎。


「キャ――!」


 たちまちメリュジーナを呑み込み、紅蓮が燃え盛った。

 吉秋が持つ最強の術。グレンデルの吐息ブレス

 強大な火炎に包まれ、宙を舞っていた少女が力を失い、ぼとりとその場に落ちる。


「やった……か?」


 吉秋は恐る恐る、その様子を覗う。


「……んッ」 


 しかし、少女は体がすすだらけになってなおも、むくむくと上半身を起こす。

 メリュジーナの姿に吉秋は目を見張った。


「な!?」


 鋼鉄をも溶かすグレンデルの吐息をもってしても、服が破けているだけでその体には傷一つ無い。最強の術だったのに。

 吉秋が戸惑う中、メリュジーナはぺたりと座り込んだままうつむいている。


「手加減しても俺の最強の術だぞ!?お前、不死身か!?」


 赤い瞳を潤ませ、少女は悲痛な声で呟く。


「せ、せっかく…おしゃれして来たのに…」


 ぼろぼろになってしまった自分の格好を見て、なげいていた。


「お、おしゃれ〜〜?」


 人の家を破壊しといて何を言うとるんじゃこいつは、と少女の不謹慎な発言に、怒りが込み上がる。


(こっちは家が滅茶苦茶になってんだぞ!)


 メリュジーナは手でワンピースの裾を握り締め、ぼろぼろと涙を流しはじめた。


「うぐ…、ひっく…もうヤダ。よしあきと仲良くできないよぉ…」


 吉秋は、意味不明な言葉を漏らした少女を動揺した眼差しで見る。


「――な、何を言ってるんだ?」


 仲良く?

 俺と?

 どうやら、複雑な事情があるようだ。

 吉秋は塀の上からふわりと飛び降り、少女に近づく。彼の眼差しは、彼の理想とする調停人のそれだった。


「どうしてこんな事したんだ?」


 少女は、瞳から零れる滴を手で拭いながら泣きつづける。


「ヤダよぅ。もうこんな事したくないよぅ」


 判断する限り、乱暴だが悪い奴ではない。吉秋は、少女の肩に手をやった。


「話してくれ、俺は調停人だから何とかしてやれるかもしれない」


 しかし少女は盛大に泣き始めてしまう。


「ふえ〜〜〜〜〜〜〜ん!!」


 その瞬間から、ごごごごごと、地面が揺れ出した。消えかけたメリュジーナの魔力が嵐のように吹き荒れる。


「な、え?ちょ、何これ!?」


 今までとは何もかもが桁違い。そこに居るだけで恐怖を感じさせる圧迫感。

 メリュジーナは泣き喚く。


「ふぇ〜〜〜〜ん!!」


 彼女の体が光を帯び、明滅めいめつを繰り返す。まるで、鼓動を打っているかのように。

 唐突に空気が冷え出した…と、思ったら、今度はブリザードのような冷たい嵐に変わった。


「は?痛い。ちょ、これ、寒いとかじゃなくて、痛いだよ。むしろ熱い!」


 真夏なのに極寒の風が、道路を、街を凍り付かせはじめる。

 吉秋の体に戦慄が走った。


「グレンデル!逃げるぞ!」


 吉秋の一声で、漆黒の魔獣から影の翼が広がる。


「グオッ!」


 グレンデルは一声咆えると、吉秋の襟首を咥えて夜空に舞い上がった。風を切って飛翔し、あっという間に街を見下ろせる高さまで上昇した。


「くッ!なんだ!?」


 目も眩む閃光が街を包む。

 夜が一気に掻き消された。

 光の中を、魔獣と少年が飛ぶ。


(なにが起こってるんだ!?)


 そして、閃光を突き抜けた。

 元の、静寂に包まれた真夏の夜。だが、吉秋はそこで信じられない光景を目にした。


「街が…」


 街が、山が、海が全て凍りつき始めていた。

 そして、有り得ない、恐ろしい光景。


「化けた…のか?」


 凍てつく悲劇の中心に、大蛇が佇んでいた。

 ビルほどの巨体。純白の体色に映える真紅の翼。全身から凄まじい魔力が発散されていて、その周囲を稲妻が取り巻いていた。

 伝説の異形、ヴィーヴィルの姫。その降臨こうりんだった。


「シャアアアアアアアアアッ!!」


 街を震撼させる大蛇の咆哮ほうこう

 夜空を飛ぶ吉秋は、少女の変わり果てた姿に息を呑んだ。


「…最悪だ。早くしないと街がぶっ壊されちまう…」


 白蛇の赤い瞳が、吉秋を咥えたグレンデルを捉える。


「いッ!?」


 同時に、ばっかりと開いた口から冷気の奔流ほんりゅうが夜空を突き破った。青い光が、吉秋に向かって驀進ばくしん

 凄まじい冷気の中、グレンデルは紙一重という所で急旋回。見事に攻撃をよける。

 吉秋は攻撃の後を目で追った。

 目標を外された青い光が、雲を突き破り天空を裂く。


「……え?」


 そして口を開けたまま思考が停止。

 藍色の夜空に、ぱっかりと大穴が開いていた。


「……あんなのくらったら、マジで死ぬ!」


 我に帰った吉秋は、相棒、漆黒の魔獣に指示を出す。


「グレンデル、出来るだけ高く飛んで時間を稼いでくれ!その間に突破口を見つけるから!」


 グレンデルは咆哮と共に、影の翼を羽ばたかせる。


「絶対に当たるなよ!お前は良いけど、俺が死ぬ!」


 メリュジーナの攻撃をかわしながら飛翔する魔獣。その口に咥えられた少年は、最後の頼みの綱である本を開いた。


「シャアアアアアアアッ!!」


 夜空に、もう一つ穴が開く。


「ひぃぃぃぃぃッ!」


 吉秋は悲鳴を上げながら、鋼鱗種の対処法を読む。そこにはこう書かれていた。


『絶対に鋼鱗種に攻撃をしてはならない。不快にさせてもいけない。その時点で敵と認識されてしまう為だ』


「しまったあああああああ!!」


 この時点で、既に二回も攻撃している。おまけに怒鳴ったりもしてしまった。

 後悔先に立たず。


「俺のバカ――――!!」


 そうか、あの少女が暴れたのは俺のせいだったのか。

 とうとう理解した吉秋の顔から、表情が消えた。

 だが、調停人が諦める訳には行かない。なんとしても、最後まで戦わなければ。

 更に先を読み進める。

 その間にも、メリュジーナの攻撃は激しくグレンデルを襲う。

 青い閃光が、大蛇の口から何本も何本も飛び出している。


『鋼鱗種が暴れるのには必ず理由がある。不快なことが近くにあるのだ。それを取り除いてやればいい』


 回避に伴う速度と遠心力で上手く息が出来ない。けれども吉秋は考える。必死で考える。


(あいつが不快に思う事?)


 吉秋は泣きながら、荒れ狂う大蛇を見る。

 思い当たる事は一つ。 

 あ、俺じゃん。


「俺に死ねという事かああああああ!」


 頭に来た吉秋は、おもいっきり本を投げ捨てる。


「しまッ―――」


 そして、後悔した。

 くるくると回転しながら夜空を舞う『異形百科事典』。重量も手伝って、かなりのスピードで落下していく。

 そして、ごい〜んと、大蛇メリュジーナの頭部に激突した。


「ひやああああああああ!」


 吉秋は両手を顔に当てて泣き叫んだ。

 蛇の頭部に、ぷっくりとたんこぶが現れ、青筋がビシっと浮き出る。どう解釈しても、100%怒っていた。


「ジャアアアアアアア!!」


「ちょ、ごめん!今のは、不可抗力!」


 メリュジーナの口から、激怒の一撃が飛ぶ。


「グレンデルよけ―――ッ!?」


 そこまで言って、吉秋が止まった。

 冷気の光が接近する途中で、破裂し、無数の氷のつぶてに変化したのだ。矢のような速度で、四方から飛来する氷。グレンデルの回避も間に合わない。


「ダメだ!羽を閉じろ!」


 夜空を舞っていた魔獣は、吉秋を包み込むようにして翼を閉じる。途端に凹凸が消え、ただの黒い球体へと変貌を遂げる。グレンデルという魔獣の姿を捨て、防御に集中した球体に形態を変化させた。

 闇夜を落ちていく影の塊を氷の礫が襲う。

 衝突し、引き裂き、貫いた。

 吉秋は影の中で、胎児のようにうずくまる。


(あいつには、勝てない。どうすれば街を救える。どうすれば丸く収められるんだ…)


 勝てない。

 でも、街は救わなければならない。

 調停人だから。

 夜の闇の中を、影の球体が一直線に落ちていく。

 その下には、猛り狂う大蛇。ルビーの瞳が禍々しく輝いていた。

 気持ちの悪い浮遊感。聞こえるのは風の音。眼下にはビルの屋上。


「シャ――――!!」


 メリュジーナの威嚇いかくの声が聞こえる。

 あっという間にビルの屋上を通り過ぎ、次は硬い地面が近づいてくる。

 その時、グレンデルが最後の力を振り絞り、吉秋の体を宙に弾き出した。


「な!?」


 影の中から突然吐き出され、ネオンの上を舞う吉秋。ぐるぐる回転する視界のなかで、落下とは逆の 方向に向かっている感覚だけは分かる。

 代わりに漆黒の魔獣が地面に激突した。というより、衝突の瞬間に闇の中へどぼんと飛び込んだ。

 吉秋の体はふわりと弧を描き、ビルの屋上に投げ出される。

 おかしな形で、着地。


「ぐべッ」


 冷たいコンクリートの感覚に、何故か眠気すら感じる。

 もう、このまま寝てしまった方が……


「う、おおおおおおおッ!!」


 吉秋は、調停人の誇りと意地だけを頼りに、ぎこちなく身を起こす。


「こぉんの野郎ぉ…」


 吉秋の瞳に、憤怒の色が浮かび上がる。

 眼前に大蛇の顔があった。白い鱗に包まれた、真紅の双眸そうぼうが、彼を見据えて微動だにしない。


「いい加減にぃ…」


 もう一度、グレンデルを呼び出そうと、魔力を滾らせ――ようとして、止めた。

 これでは、普通の調停人と一緒ではないか。

 急に、穏やかな表情になる。


「っと、そっか…お前は、悪くないんだったな」


 どこか、観念したような笑いを絞り出し、大蛇の前で、心を落ち着かせる。

 この騒ぎの原因は吉秋。そして、収められるのも吉秋。

 自分の不幸っぷりに、何だかおかしくなった。


「はは……本当に今日は最悪の日だ」


 不快なことを取り除く?

 そんなの簡単な事じゃないか。 

 彼は調停人。異形と人とのトラブルを解決するプロ。

 溜息を一つ、穏やかな声で言った。


「俺の事が気に入らないんだろう?」


 両手を広げる。


「誓約書の約束も果たさなきゃいけないし」


 肌に突き刺さるような冷気の中、まぶたをゆっくりと閉じる。

 そして、覚悟を言葉にした。


「――ほら、食っていいぞ」


「シャ―――!!」


 大蛇が、吉秋に迫る。

 吉秋は心の中で、思えば最低の人生だったな、と走馬灯さえ浮かんでこない一生を自嘲した。


(こんな事なら、恋愛の一つや二つしておくべきだったかもなぁ)


 やり残した事も多々あるが、これはこれで笑えるじゃないか。

 伝説の蛇に食われました。

 このシュールなネタを手土産に、天国で一笑い取ってやろう。

 そう思いながら吉秋は穏やかに、全てを受け入れる。



 その姿を、純白の大蛇が静かに見詰めていた。

 凍りついた街が閃光にくらむ。

 輝く光の中から、星屑のような煌きを舞い散らし、少女が少年の前に降り立つ。



 冷たいビルの屋上で、吉秋は首を傾げた。いつまで経っても、蛇に丸呑みにされる気配は無い。

 吉秋は不思議に思って目を開けた。


「…あっれ?」


 いつの間にか、大蛇の姿が消えていた。何処にも居ない。代わりに、泣き声が聞こえてくる。


「…うぐッ…ひっく」


 吉秋はその方を見やる。


「…お前」


 少女が小さくうずくまって、泣いていた。

 あの、可愛らしい少女の姿だった。


「うぅッ…こんなことしたくない…。こんなつもりじゃなかったのにぃ」


 えぐえぐと嗚咽を漏らしている。

 吉秋は、空虚な目で尋ねる。


「ど、どうした…。俺を食うんじゃないのか?」


「そ、そんな事したくないもん。ひぐ…そんな事しに来たんじゃないもん」


「は?」


 吉秋には訳がわからない。

 どういうことだ?


「ずっと、今日を待ってたのに。会えるのを…楽しみにしてたのに。ずっとずっと、小さい時から、よしあきを見てたのに!」


「―――え?」


 俺を見てた?


「私の、旦那様になる人に会えるのを楽しみにしてたのに、全然仲良く出来ない…」


 だんなさま?


「はは…なるほどね…」


 そういう事か。

 吉秋はようやく理解していた。

 ヴィーヴィルはメス単一。要するに、外部から婿を迎える。

 あの誓約書は、吉秋が食われるのではなく、彼女の配偶者になるという事を記してあったのだ。

 吉秋の胸に、何か、ぐっとくるような熱い気持ちが芽生える。言葉には出来ない複雑な心境。


「…なぁ、泣くなって」


「今日まで、お嫁さんになる為に、がんばって勉強したのに!」


 この子は、決して暴れたかった訳じゃない。吉秋を困らせたかった訳でもなかった。

 ただ、会いに来ただけ。


「どんな人か凄く不安だった…」


 彼女は、ずっと長い時間、吉秋が十七歳になるのを待っていた。遠い遠い異国の地で、いつか出会える日を待ち望みながら。

 そして、ようやく出会えた。だが、


「良い人だと思ったのに、なのに、やっと会えたのにこんな事になっちゃって…」


 色々な勘違いや思い違いで、街を滅茶苦茶にしてしまった。


「こんな筈じゃなかったのに…」


 悲しみに耐え切れず、


「これじゃあ、お嫁さんになれないよぉぉぉぉぉ」


 凍りついたビルの屋上で、メリュジーナはわんわん泣きはじめてしまった。

 吉秋は居たたまれなくなり、泣きじゃくる彼女の前にしゃがんだ。


「な、ちょっと、泣くなよ」


 突然少女が吉秋にしなだれかかる。


「のわッ!」


 吉秋を下に、そのまま倒れる二人。

 メリュジーナは、吉秋の胸をぽかぽか叩きながら泣き喚いた。


「ばかばかばか!どうしてイジワルばっかりするの!?」


 同時に彼女は彼の心も叩いていた。胸の中で震えている少女を、見る。

 吉秋と一緒になるために、はるばるロンティエンから尋ねてきた女の子。

 異形でも何でもない。

 今、彼の胸で泣いているのは、ただの女の子だった。

 なのに、俺は―――


「…ごめんな」


 吉秋は囁いた。

 彼の胸で震えていた少女は叩く手を止めて、顔を上げる。

 つぶらな瞳を、元の赤さよりも、更に赤くさせて、形の良い眉をハの地にさせていた。


「――?」


 吉秋は真紅の瞳から流れている涙を、そっと拭いてやる。

 少女は目を丸くさせた。


「悪かったよ。悪口言ったり、怒鳴ったりして。炎もだしちまったな、熱かっただろ?」


 メリュジーナのルビーの瞳が、申し訳なさそうな表情の吉秋を映す。

 吉秋は、朦朧とする意識で続ける。


「ずっと、俺が十七歳になるのを待ってたのか?」


 少女は驚いたまま声も出せず、首の動きだけで答える。


「うん」


 吉秋は心にある感情を、飾らず、素直に言葉にした。


「ありがとう。凄く嬉しいよ」


 冷たい冷気の中、メリュジーナの動きが数秒止まった。ただ、夜風に赤いマフラーが靡いている。

 彼女は、数秒経ってから、ようやくその言葉の意味を、理解した。

 すると、また涙が零れた。

 メリュジーナはそれを手の甲でごしごし拭いながら、途切れ途切れに言う。


「十五年間、ずっと、待ってたよ。毎日毎日、よしあきのこと、考えてたよ…」


「十五年!?」


 心拍数が跳ね上がる。吉秋はこんなに不安定な自分を感じたのは、はじめてだった。


(え、そんなに前から、こいつは、俺に、会う、ために?)


 体温が上昇していく。

 吉秋の強く速い鼓動は、メリュジーナの手の平にも伝わる。どくんどくんと、大きく強く、彼の心臓が動いているのが分かった。


「どきどき、してるの?」


 吉秋は自分自身に動揺しながら、答える。


「た、多分…」


「わ、私に?」


「お、恐らく…」


 瞬間、少女の顔が発火したかのように、ぼっと朱に染まった。すぐさま立ち上がり、てててっと吉秋から離れた。彼女の心もまた、激しく波打っていた。

 吉秋は、真っ白になってしまった頭のまま、ゆっくりと身を起こす。ふらりふらりと、弱々しい足取りで、背を向けているメリュジーナに近づいた。

 夜風に靡く肩までの髪、何故か巻いている長いマフラー。そして、ぼろぼろになってしまったワンピース。元々は、純白の綺麗なワンピースだったが、今は煤だらけだ。

 彼女の言葉を思い出す。


(「せっかくおしゃれしてきたのに…」)


「今日の為に、おしゃれしてきたんだよな?」


 メリュジーナは、自分の胸を抱く。

 恥ずかしいけれど、勇気を出して、少しづつ答える。


「ほ、本当はね、五年前に、赤いお洋服で行こうって決めたんだけど、二日前に着てみたら、着れなくなっててね…」


 吉秋の脳裏にはありありと想い浮かぶ。

 鏡の前でどの服にしようか悩んでいるのが。そして、着る筈だった服が着られなくて、おろおろしているのが。

 吉秋は可笑しくなって吹き出した。


「あっははははっ」


 あんまりバカらしくて、腹を抱えて笑った。


「ど、どうして笑うの!?」


「だ、だってお前、体の成長を計算に入れていなかったんだろ?」


「う…」


 吉秋の中で張り詰めていた緊張が、全て、そこで消え去った。安堵のあまり、体の力がふわりと抜け落ち、その場に座り込む。


「だ、だいじょぶ?どこか痛いの?私が、ひどいことしたか…ら?」


 吉秋はただ、そこぬけに清々しい笑顔で、少女を見る。


「それは、お互い様だろ?」


「そうなの?」


 もっと聞きたい。そんな欲求に駆られた。


「他には、どんな準備してきたんだ?」


 メリュジーナは、手を胸の前でこねながら言う。


「人間の事、たくさん勉強したよ。お料理も、生活も…」


 これも想像しやすい。恐らく、まな板の前で悪戦苦闘してきたのだろう。


「大変だったよな」


「…うん。火傷もしたし、手も切ったんだよ?」


 彼はただ単純に、嬉しかった。一人の女の子が、自分を思い続けてくれていた事が。

 十五年という歳月が、彼女の想いの強さを物語っていた。


「本当にありがとう」


 メリュジーナは申し訳なさそうに、またもや眉をハの字に曲げた。


「どうして、お礼言うの?私、街も、吉秋の家も壊しちゃったのに」


「俺さ、知らなかったんだよ、お前のこと。だからパニくっちゃって、ひどい事言っちまった。頑張ってきたのにあんなこと言われたら、誰だって頭にくるよな」


 思い出したように、真紅の瞳に涙が浮かぶ。


「怖かった。怒った吉秋の目…」


 その様子から判断するに、かなり怖い思いをさせてしまったらしい。

 吉秋は正座を組むと、謹んで頭を下げる。


「ごめん。許してくれ、この通りだ」


「ううん。私こそごめんなさい」


 首を横に振ったメリュジーナに、根本的な事を聞いてみる。


「んで、どうして俺を食おうと思ったの?」


「よしあきが食べろって言うから…」


「もしかして、取った命は〜ってヤツでか?」


「うん。よしあきは食べられたいんだなって思った」


 少々の沈黙。

 どちらからともなく、笑い出した。


「あっははは!自業自得かよ!」


「あははは!そうだよね、食べられたいわけ無いよね!」


 色素の薄い髪に、一つ、冷たいものが舞い降りる。

 それは、風に乗ってふわりと吉秋の視界にも入った。


「おい、見てみろ」


「え?」


 メリュジーナは、吉秋の視線をなぞる。


「わぁッ」


 深い藍色の空に、白が咲き乱れていた。闇を埋め尽くすほどに、降りしきる純白の牡丹雪ぼたんゆき。月の光を反射させ、辺りを淡い明るさに包んでいた。

 静けさを取り戻した街が、歓喜に沸いているようだった。


「綺麗だな」


「うん、とっても」


 大空を見上げた二人。

 ルビーの瞳が、美麗な景色を映す。

 夏の夜の白々とした景色。それは、天空を裂いた大蛇の冷気によって、しんしんと舞い降りた怪異だった。

 或いは、奇跡だった。

 白く、温かい奇跡。


「雪なんて初めて見た!」


 メリュジーナは、嬉しそうにその場でくるくると踊り始めた。まるで、彼女自身が雪になったかのように。

 両手を大きく広げ、ステップを踏み、跳ぶ。

 胸が、心が熱い。


「嬉しい」


 少女は、小さな胸の内だけには秘めておけられない程の歓喜を、大粒の雪の中で、舞に昇華させる。

 凍りついたビルの屋上に咲いた、一輪の花。

 ただ、無邪気に少女は踊る。


(でも、もっと楽しいのが良い)


 メリュジーナは、ルビーの瞳を閉じ、吉秋の前に立った。そして、ワンピースの裾を持ち上げ奥ゆかしくゆっくりとお辞儀をして見せた。


「私と、踊ってもらえませんか?」


 頬を桜色に染め、少年の返答を上目遣いでうかがう。


「え?でも、俺、ダンスとか知らないし…」


 メリュジーナは吉秋に駆け寄り、その手を取る。


「だいじょぶ、私も知らないから!」


「いや、今――――」


 そこまで言いかけた吉秋の戸惑いも聞かず、両手を引っ張った。


「ほら、踊ろう!」


「あ、おい!」


 吉秋はつまづきながらも連れ出され、月に照らし出された白銀のステージに踊り出た。

 ヴィーヴィルの少女と、牡丹雪が降り注ぐビルの屋上で、出鱈目なステップを踏む。

 たった二人だけの、二人きりの舞踏会。

 音楽も無い。

 祝福の鐘も鳴らない。

 ダンスもぎこちないけれど、それでも、メリュジーナは笑顔だった。

 白い雪が、拍手をしてくれていた気がしたから。

 吉秋が、戸惑いながらも笑顔を見せてくれたから。


「よしあき!ジーナって呼んで!」


「うわッ、っとと、ジーナで良いのか?」


 少年は、少女に振り回されながら、名前を呼ぶ。


「もう一回!」


「えぇ!?」


「早く早く!」


 吉秋は叫ぶ。


「ジーナ!」


 嬉しい。


「もっと!」


「ジーナ!」


 メリュジーナは思う。

 人間界に来て、良かった。

 出会えて本当に良かった。


「よしあき!私、幸せだよ!」


「……」


 少年の瞳には、微笑む可憐な少女が映っていた。

 真紅の瞳。

 白い肌。

 色素の薄い髪。

 煤だらけのドレス。

 何故か、赤いマフラー。

 不思議な少女に恋をした。

 彼の恋の相手は人間ではない。

 それでも、初めて、淡い恋をした。


「よしあき」


「な、なんだ?」


「ありがと…う…」



 そして、少女は倒れた。



 唐突だった。

 凍てついたコンクリートに、静かに、緩やかに、少女は沈んだ。


「おい…どうした…」


 吉秋は、震えながら少女の頬に手を伸ばす。たった今手に入れたものを、確かめるように。ゆっくりと、怯えながら少女の頬に触れた。

 メリュジーナは、氷のように冷たい。


「ジーナ?おい…」


 少女の首に手を添えて、そっと抱き起こす。今までが嘘のように、ぐったりと全身の力が抜けてしまっていた。

 生気が感じられない。

 あんなに元気だったのに。


「うそ…だろ?」


 何が?

 どうして?

 悪い冗談だ。

 真紅の瞳は閉じられたまま。さらさらの髪も、もう揺れない。

 あの、おどおどした細い声も返ってこない。


「うわあああああああ!!」


 蛇の少女を抱き。吉秋は叫んだ。

 一言、返事が聞きたくて。


「うッ……く…」


 胸が張り裂けそうだった。心が、締め付けられて、息をするのも苦しくて。


「これから…じゃ、ねぇのかよ…」


 溢れる涙を堪える事が出来ない。


「俺の、嫁さんになりに来たんだろうが!」


 吉秋の小さくなった影が、静かに波立つ。


「グゥゥ」


 聞き慣れた声に振り返ると、漆黒の魔獣が現れていた。おどろおどろしい体躯に似合わず、ちょこんと座って、尻尾を振っている。


「グレンデル?どうして、呼んでもいないのに…」


「グルルルル…」


 グレンデルは甘えたように喉を鳴らし、吉秋の腕に鼻面を擦り寄せる。


「俺、どうすれば…」


 服を甘く噛み、腕を引っ張った。


「な、何を…」


 吉秋をずるずるとメリュジーナから引き剥がし、


「グレンデル?」


 のっしのっしとたくましい足取りで、横たわる少女に近づいた。


「フン…フンフン」


 少女の体の匂いを嗅ぎ、鼻先で揺らしている。メリュジーナの体の冷たさは、グレンデルにも伝わったようだった。

 漆黒の魔獣は夜空を見上げる。

 本来ならば蒸し暑い夜の筈が、冷気と共に雪が舞い降りてくる。


「グルッ」


 雪が鼻に付着し、ぶるぶると身震いをしてそれを振り払う。魔獣は何を思うのか、夜空を見詰めていた。

 そして、全身の毛を逆立る。


「!グレンデル、何を――!?」


「グオオオオオオオオッ!!」


 間髪いれず、大きな咆哮を上げた。激しい遠吠え。同時に、影の牙の間から盛大に烈火が溢れ出す。 吉秋の指示も無く、ひとりでに灼熱の吐息を放出した。


「ぐッ」


 凄まじい熱波を受けた吉秋は反射的に腕で顔を覆う。魔獣の足元には、メリュジーナが横たわっている。


「やめろ!ジーナが!」


 吉秋は、圧力の伴う火炎を吹き上がらせるグレンデルに近づく。

 夜空に燃え盛る紅蓮ぐれん。魔獣のほむらが、月明かりよりも強く、辺りを橙色に染め上げている。


「一体どうしたんだよ!?」


 吉秋の声。それを受けて、魔獣の口から途絶える事無く紅蓮が勢いを増す。

 夜空へと昇った炎が、四散し、小さな火の粉となって吉秋の立っているビル降り注ぐ。


「もう良いから!やめてくれ!」


 焦げ付くような灼熱の中、グレンデルの首を抱き締め、落ち着かせるが、それでも炎を吐き出す事を止めない。

 魔獣は紅蓮を放出し続けた。たとえ主が止めようとも、ただ、炎を吐き続けた。

 吹き上がる熱波。雪と火の粉が、混ざり合い、幻想的な空間を作り出す。


「グレンデル!!」


 吉秋の悲鳴とも怒声ともつかない大声で、グレンデルの炎がようやく掻き消えた。

 周囲を取り巻いていた熱波が霧消むしょうし、元の静寂を取り戻す。


「どうしてこんなことするんだ!!」


 叱責の声に、漆黒の魔獣の瞳が穏やかに吉秋を見据える。嬉しそうに尻尾を振っていた。


「お前は――」


 吉秋の瞳に怒りと悲しみが混ざり合う。

 その時、


「…ッ」


 魔獣の足元の少女の体が、僅かに生命活動を見せた。


「!?ジ…ィ…ナ?」


 いても立ってもいられず、少女に駆け寄り、抱き起こす。


「ジーナ!!」


「んん……」


 ゆっくりと、まぶたが開く。唇から、あの声が吐息と共に漏れる。


「よ…し…あき?」


 息を吹き返していた。手の平から確かに感じる、少女の命の鼓動が。それを、放さぬよう、強く、強く抱き寄せた。


「ジーナ、良かった!」


 ジーナは状況が良く分からず、目をしばたたかせている。


「あれ……私…?」


 きょろきょろと辺りを見回す。消えかけた火の粉と、雪が宙を漂っている。随分様変わりした風景だった。

 おもむろに手を首に当てる。


「そっか…」


 平熱よりも大分体温が低くなっていた。


「充電が切れちゃったんだね…」


 吉秋の顔が疑問に満ちた。


「…は?充電?」


 目を細めた吉秋に、ジーナははにかんだような笑顔で答える。


「うん。私、体温が低くなると、電源が落ちちゃうんだ」


 とても元気そうに笑っていた。


「…」


 え?

 死んでたんじゃねぇの?

 真顔のまま、凍りついた吉秋。

 メリュジーナは、吉秋に抱かれているのもあって、恥ずかしそうに胸に手を縮込める。そして、やはりおずおずと言った。


「ほら、私…蛇だから」


(あ、蛇って体温低くなると動けなくなるんだっけ。ってことは――)


 さっきのは、動けなくなってただけ?

 吉秋の表情がみるみる仏頂面に変わっていく。どこか呆れたような声で、胸の中の少女に尋ねてみる。


「…冷気を操るのに?」


 メリュジーナは恥ずかしそうに顔をそむけた。胸の前で人差し指同士をくっつけたり離したりしながら、耳まで真っ赤にさせている。


「しょ、しょうがないじゃん。蛇なんだから」


「……」


 さっきまでの熱い気持ちが、うそのように冷たくなっていく。

 何?

 自分で周囲の温度を下げて…

 それで、体温が低くなって…

 じゃあ、勝手に自滅しただけ?

 吉秋の肩が、ふるふる震え始める。


「よ、よしあき?」


 ルビーの瞳に映った吉秋は、炎のようなオーラを燃え上がらせていた。その表情たるや、悪鬼羅刹あっきらせつの如く憤怒の形相だ。

 メリュジーナの額から、たらりと嫌な汗が流れる。


「も、もしかして…怒ってたりする?」


「当たり前じゃあああ―――――!!」


 そんなやりとりを、漆黒の魔獣が見詰めていた。


「ご、ごめんね?心配した?」


 眠そうにその場に寝そべって、瞳を閉じる。その尻尾は、ぱたぱた振れていた。


「ふざけんなこのやろ――――――!!」


「きゃー!ごめんねー!」


 月に照らされたビルの屋上で、子供のように追いかけ合う二人。人間の少年と、蛇の少女。

 ただ、心から楽しそうに。

 二人はここから、始まっていく。

 


 その日。この海辺の街は、異常気象に見舞われた。

 夏という季節に、突如訪れた寒気。

 それはたった一瞬で、昼には元通りの姿に戻った。

 熱く、蒸し暑い夏。

 ただ、住民は口を揃えて言う。

 昨日の夜は、過ごしやすかったと。





はい。というわけで、いかがでしたでしょうか?

面白く読んで頂けたら光栄です。

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