貴方の胸に還る日まで……
蒲公英様の「ひとまく企画」参加作品です。
一つの空間で繰り広げられる物語をテーマにした企画となっています。
ベッドと剥き出しのトイレと棚とサイドテーブルだけのある部屋で、私は今日もただ生きていた。壁に埋め込まれたTVから毎日代わり映えもしない能天気な番組が流れ続けている。その中にある世界がどうしようもなく遠く感じて私は視線を窓へと向ける。白いブラインドの隙間から太陽の光が見える。空を見たくてコントローラーのボタンを押しブラインドを開けようとするが、誰かがそこを通っていく影が映る。それで開けるのを止めてしまう。その窓は腰の辺りから上は大きなガラスとなっていて、開放的で素敵な空間に思えそうだが、ガラスの向こう側は外ではなく通路。そしてその先に本当の窓があり外がある。つまりその通路からはこの部屋は丸見えとなる。
仕方がなく私は視線をTVの画面に戻すものの、そこで行われているテンションだけが高いバカバカしい内容に嫌気がさしてきて大きく溜息を吐く。隣の部屋を訪れている人の気配は感じるが、その声は不思議とコチラに聞こえる事はない。面会者は一度に二人までと規則があるのに、隣はいつも三・四人で連れ立ってくる。しかも入れ替わり立ち代わり。だからブラインドが開けられずしばらく空を見ていない。
つまらないと思いつつも、テレビを消せないのは、ソレが、私が今感じることの出来る唯一の外だからだ。そしてまた溜息をつき、枕に顔を押し付けた。
初めて此処を見たときまるで動物園みたいだと思った。ガラス張りの部屋の中にいる私を、見学者は外の廊下から眺める。そういう構造だからだ。
動物園ではなかったら牢獄、もしくは実験施設の幽閉部屋。
私が何故こんな部屋にいるのかって?
それは二か月程前に遡る。ちょっと怠いなという事が最初の自覚症状だった。しかし梅雨に入る鬱陶しい季節という事もあり、気候の所為と流していた。
そんな時、職場で正面に座る咳エチケットという言葉を知らぬ主任と一日過ごした結果風邪をうつされ、次の日病院に行くと肺炎と診断された。何故そこまで短時間で激症化したのか分からず、家で高熱に苦しんでいたら病院から連絡があった。血液検査の結果異様な数値が検出されたので、大病院で診察受けるようにとのこと。不安を覚えつつ夫に付き添ってもらい病院に行き、そこで出た診断は『急性白血病』だった。
もうドラマですら使われなくなった悲劇の証ともいえる難病に私が? 高熱で頭も上手く働かなった事もあり、現実味すら湧かず呆然としている間にも私は強制入院させられ此処にいる。肺炎による熱と身体中の痛みに苦しみのたうち回っているうちに一週間があっという間にに過ぎた。熱が見せた悪い夢と思いたかったが、正気に戻ってみても尚無菌病棟にいることで、それが現実であることを認識せざるえなくなり放心するしかなかった。細菌やウィルスに抗う術を一切持たなくなった私は、看護婦やお医者さん以外とは接触する事も出来ず、夫や両親や友人とはガラス越しで、外と中だけで繋がった電話で話す事しか出来ない。お見舞の品や洗濯物も、専用の棚を使いやり取りする。持ち込まれるモノと病院から出される洗濯物等の汚れた物は別の棚で分けて管理されるという念のいれよう。洗濯された寝巻きも道中細菌つかないように二重のビニール袋に入れて運ばれ、外のビニールをとってから棚入れる事なっている。お見舞いの人も前室で上着や不必要な荷物をロッカーに預け、念入りに手洗いして消毒をし、マスクをしてやっとそのエリアに入る事が許される。熱があったり咳している人は当たり前だがマスクしようが入る事は出来ない。ここはそういう所なのだ。
私の今いる無菌室は室と言いつつ、完全に密閉された空間ではなく、二面は壁だが、ガラス面の反対側はビニールカーテンとなっていて、その向こうは医療スタッフの活動スベースとなっている。その為そこを行き交う様子が常に感じられる。私が、もう少し元気になればそこから部屋を出て無菌病棟内は移動する事も出来るようだが、微熱が取れず体力の下がった私には、点滴ポールを杖代わりにこの部屋内の移動するのが精一杯だった。トイレまでは人のお世話にならない。それがせめてもの私の意地。
抗癌剤の副作用か、精神的なものか、まだ肺炎の後遺症が残っているのか、食事が取れず、食べても吐いてしまい、体重はみるみる落ちている。
見舞いに来た友人らには『なかなかスリムになったでしょ! 怪我の巧妙ね♪』と自虐的なギャグを言っているものの、目に見えて落ちていく体重の身体を見て感じるのは恐怖だけである。身長百六十ちょっとある私が四十六キロってありえない数値である。
結婚して太り、あんなに苦労してダイエットしたのに関わらず結果でなかったのに、『人ってこうも簡単に窶れていくものなんだ』と感心もしてしまう。
退屈な入院生活、見舞は有難い。しかし今の私は抗癌剤の副作用で髪もズルズルと抜けていったことで、悲惨な状況になっている。そんな頭を帽子で隠し人が来る度に『今日は調子いいの』と笑顔を作り嘘をつくのも疲れてくる。寝たふりしてやり過ごす事もするようになってしまった。
そんな生活を続けていたある日、夜中に突然目が覚めた。その時感じた衝撃が何か分からなかったが、何か空気が緊迫している。カーテンの向こうのスタッフが慌ただしくしている様子が伺われた。隣の部屋へ人が引っ切り無しに忙しなく出入りしているようだ。
だがその状態も一時間くらいすると嘘のように静かになった。明け方大きな何かが移動されるキャスターの音が聞こえ、それからはスタッフの目立った動きが感じられなくなる。
静けさの中、私の身体がどうしようもなくワナワナ震えてくる。必死で自分の身体を抱き締めて震えてを止めようとするけれど収まらない。
「ァッ、ア、ァ」
ガチガチ震える唇から声が漏れそうになるのを、唇に手を宛てなんとか止める。ガタガタ震えながら時間を過ごし、結局一睡も出来ず朝を迎えた。
朝の検診に来た看護婦さんに勇気を出して聞いてみる。
「お隣さん、大丈夫でした? 夜、体調崩されたみたいですが」
「あら、ごめんなさい起こしちゃったかしら? ちゃんと夜眠れています?」
看護婦さんは少し哀しそうな笑顔をして、そんな感じで話を逸らしていき、質問に答えてはくれなかった。
私は朝からブラインドを開け、見舞い者面会用通路を見つめ続ける。十時になり面会時間が来ても、あれだけ人が訪れていたお隣への面会者は一人も来ることはない。
隣の部屋の窓から見えなくなった私の部屋の前で、面会者が繕っていた笑顔を止め絶望から泣き出したり、虚ろな表情になっている人達を見るのが辛くて下ろしていたブラインド。だけど今日は開けて彼らがくるのを心から待っている。自分の勘違い、思い違いであってほしいから。しかしその誰も訪問してくる事は無かった。
午後見舞いにきた母親に隣の部屋について聞いてみたが『誰も居らず。空き部屋になっているようだ』という答えが帰ってきた。
お隣さんは亡くなってしまったんだ。
そう再認識して私は大きく息を吐く。
会ったことも見たこともなく、名前すら知らない人。でも同じ病気で同じ病院に入院していた。お隣さんは私にとって他人ではなく、未来の自分。
私に笑いかける母の顔を見つめる。私程ではないにしても、母もこの数ヶ月で痩せてしまった。そしてこの母親も今はガラスの向こうで笑みを浮かべ話をしているけど、この部屋の前から去ったら虚ろな表情となってしまうのだろう。母の他愛ない会話を楽しんでいるうちに疲れてきたのと、寝不足による睡魔が今更来たのかウトウトしてきて、気が付けば意識が飛んでいた。起きたら、ガラスの向こうには誰もおらず、外は夕方になっていた。私は久しぶりに見る二つのガラスの先にある真っ赤に輝く夕焼け空を瞳に写す。綺麗だとも、哀愁とかも何も感じず少しずつ暗くなって行く世界を見つめ続けた。
夜、面会時間終了三十分前に夫がガラスの向こうに現れた。走って来たのだろう額に汗が滲み、肩が呼吸で上下している。営業で外を歩きまくっているからだろう。その肌は焼けていて健康的だ。マスクを外し、私に笑いかけてくるその笑顔に切ない気持ちになる。その流れる汗を拭いてやりたいし。その頬に触りたい。その胸に縋りつきたい。
「ねぇ、圭ちゃん……離婚しよう」
耐え切れずそう口にした私に夫は困ったように笑い『何故?』と聞いてくる。
「こんなボロボロの嫁、圭ちゃんの人生にとって邪魔なだけでしょ?」
そう言うと、悲しそうな顔をされてしまった。朗らかで太陽のように暖かい人。それを苦しめて悲しませているのが自分だと思うと心がズキズキと痛む。
「未来は嘘つきだな。結婚の誓いってそんなものだったの? いくらホテルにある嘘っぽい教会での誓いだとはいえ、楽しく過ごす為だけに俺と結婚したの?」
私は顔を、横に振る。『病める時も健やかなる時も──』口で言うには容易いが、実際問題『病んで死に向かう相手』と向き合い続けるのはキツイ。
「共に長い年月を過ごし、一緒におじいちゃんおばあちゃんなりたかった。だから結婚した。でもその約束、多分私は守れない」
夫は少し怒った顔になる。
「高校時代鬼シゴキに苦しむ俺達を『それくらいでへこたれるな! 頑張れ!』と散々発破を掛けていたくせに、自分は諦めて投げ出すの?」
状況は違う、頑張ればなんとかなるモノではない。私は、頭をブルブル横に振った。感情が爆発して言葉が喉の詰まる、涙が溢れてきて止まらない。闘病生活が始まって初めて人前で泣いた。空元気にも限界がある。特に体調が悪い状態だと尚更である。
「俺はどんな時も未来と、共にいたいから結婚した。だから此処にいさせて、未来の側に。
……未来が既に頑張っているのは分かっているよ。だから俺の前でまで頑張らないでいいよ、無理して笑わなくても良いよ。泣き言も怒りもそうやってぶつけてよ」
私は電話の乗ったサイドテーブルを使ってつたわり歩きをしながらガラスに近づく。ガラスの向こうの夫に縋るように手を伸ばすと夫もその手に触るように自分の手を合わせてくれた。
「我が儘いって、俺に甘えてくれれば良いから!
でも離婚したいと言う我が儘だけは聞かないよ」
フフフ
私は泣きながら笑ってしまう。嬉しくて。愛しくて。
「我が儘出来るのは、病人の特典だよ。
ほら、どうして欲しい? 言ってごらん」
夫に凭れるようにガラスにおデコをつける。そこには夫の体温があるわけではなく冷たい感触しかないけれど、微熱の続く私には気持ち良かった。
本当は夫に抱きつきたい、抱き締めてもらいたい。その体温を、匂いを感じたいこの腕の中で。こちらを優しく見つめてくる夫の姿を見つめている内に、私の中でフツフツと怒りが込み上げてくる。
「……ンダッツが……べたぃ」
私の言葉に夫は首を傾げる。
「ハーゲンダッツアイスが食べたい! あのアイスは密閉包装になってるから大丈夫なの! あと甘い甘いバタータップリの焼き菓子が欲しい。個別包装のだったらいいんだって!」
今度は聞こえるように、そうハッキリ告げる。その言葉に吹き出す夫を、私は目を細め見つめ続ける。実は治療の副作用で吐き気だけでなく味覚障害を起こしていて、殆どの食べ物が恐ろしい味となっている。馴染みのうどんでさえもゴムとかの科学物質のような異様な味の食品となっている。それが余計に食べるという意欲を減退させていた。
しかし、生きる事を諦めたくない!
白血病がなんだ! そんなのに私の幸せ壊させない! 私はやっぱり、死にたくない。
その為にも食べて体力を戻してやる。高カロリー高タンパクのモノを食べて太らせて体重を元に戻さなければいけない。
生き抜いて、無菌病棟を出て、夫と抱き合いたい。愛する人たちとガラス越しではなく、向き合って笑い、その感情にも直に触れたい。
生きてここを出る為に、私は覚悟を決めて闘うことにした。その為に食べてやる。喉に詰まろうが、吐こうが、不味かろうが、食べてやる。みっともなくても足掻いて足掻きまくってみせる!
私の場所に還るために。